荘園・公領において,正規の正税官物・年貢に加算して徴収される米のこと。989年(永祚1)の《尾張国郡司百姓等解文》に国司藤原元命が非法に〈租穀三斗六升〉を加徴したことがみえ,1017年(寛仁1)には醍醐寺領伊勢国曾禰荘に対し,国司が〈加徴米三十石〉を課している。これに対し88年(寛治2)の醍醐寺領越前国牛原荘内検帳によると,反別5斗の所当のほかに反別5升の加徴米がみえ,ここに加徴米の新しい形がみられる。備後国大田荘桑原方では1198年(建久9)に前地頭橘兼隆が先例の下司得分として反別5升の加徴米があったと述べており,平安時代の末には反別3升ないし5升程度の加徴米が下司などの荘官得分として一般に認められていたことがうかがわれる。このような加徴米は鎌倉時代の地頭にもうけつがれ,大田荘地頭三善氏ははじめ反別5升,1192年(建久3)以降は反別3升の加徴米を徴収した。肥前国佐嘉御領の小地頭が給田のほかに取得した定得田町別5斗の加地子(かじし)や,肥後国人吉荘地頭相良氏の起請田反別3升の加地子米などは加徴米と同様のものであった。神護寺領播磨国福井荘でも地頭加徴があって,内検によって検出された得田数に応じて賦課されていた。承久の乱の没収地におかれた新補地頭のうち先例の得分のないものについては新補率法が適用され,11町につき1町の地頭給と反別5升の加徴米などがみとめられており,ここから通例の地頭加徴米のあり方が逆に推定される。ただしこのさいの加徴米は1231年(寛喜3)の追加法によると従来の正税官物の枠内で支出されることになっている。鎌倉時代の地頭は先例のない加徴米をとりたてることも多く,しばしば領家との紛争をひきおこしたが,源頼朝が1186年(文治2)に〈加徴課役〉を宛て行うことを禁じて以来,幕府もひきつづきこのような地頭非法を取り締まった。なお,1185年の地頭設置のさいにみられる反別5升の兵粮米は,これまでしばしば加徴米と混同されてきたが両者は別のものである。江戸時代には小作料を加徴と呼ぶ場合もあった。
執筆者:大山 喬平
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公領・荘園(しょうえん)において官物(かんもつ)や年貢のほかに徴収された付加米。平安時代後期にも存在を確認することができるが、その内容は多様で一律に論じることはできない。明確に現れるのは鎌倉期の地頭得分(じとうとくぶん)の一つとしての加徴米で、その初期は、地域の先例によって額が左右され不定であった。しかし承久(じょうきゅう)の乱(1221)後に設置された新補率法(しんぽりっぽう)地頭は、一律反別5升と定められ、地頭給田以外の耕地から徴収しうることになった(鎌倉幕府追加法23条)。その規定によれば「(加徴は)正税(しょうぜい)官物の内たるの条もちろんなり」とあって、官物・年貢のうちから割(さ)き取られるのが原則であった。また、江戸時代には小作料を加徴米とよぶ所があった。
[木村茂光]
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正規の官物や年貢以外に,別に追加して徴収される米。平安時代に受領(ずりょう)が任国内に賦課していた例も知られるが,荘園に対する臨時の公事(くじ)などを名目とした徴収が一般化して,やがて荘官の得分として広く定着するようになる。中世では兵粮米に加徴されることもあり,承久の乱後に定められた新補率法にも,地頭得分として段別(たんべつ)5升の加徴米がみえる。
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