メノン(読み)めのん(英語表記)Vengalil Krishnan Krishna Menon

改訂新版 世界大百科事典 「メノン」の意味・わかりやすい解説

メノン
Vengalil Krishnan Krishna Menon
生没年:1896-1974

インドの政治家。南インド,ケーララの豊かなナーヤル・カーストの家に生まれる。マドラスで大学教育を受け,イギリスのロンドン大学経済学院に学ぶ。1934年修士号と弁護士資格を得る。この間1929年にロンドンで結成したインド連盟India Leagueは,以後国民会議派のイギリス代表部的存在となる。ハロルド・ラスキの社会主義思想に引かれ,イギリス労働党の活動にも密接にかかわって,多くの社会主義者と接触した。ネルーとの交友は32年に始まり,その死まで続く。インド独立後は52年までロンドンのインド高等弁務官(大使同格)。53年下院議員に当選。56年の無任所相を経て翌年ネルー内閣の国防相。52-60年には国連本会議のインド代表。62年の中印国境紛争での敗戦で周囲の激しい批判が集中し,ネルーは余儀なく彼の任を解いた。64年のネルー死後は孤立するが,67年会議派を去って無所属となり,左翼ブロックの支持で再び下院議員(1967-74)に当選した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「メノン」の意味・わかりやすい解説

メノン
めのん
Vengalil Krishnan Krishna Menon
(1896―1974)

インドの政治家。南インドのコジコーデカリカット)生まれ。マドラス(現チェンナイ)で大学教育終了後、1924年ロンドンに留学。経済学・理学修士号、また1934年法廷弁護士資格を取得。1929年にはインド民族運動の宣伝組織「インド連盟」を設立した。社会主義思想に関心を寄せ、イギリス労働党とも密接にかかわった。J・ネルーともロンドンで会い、終生交友が続く。インド独立後、初代の在ロンドン高等弁務官。1953年下院議員に当選。無任所相を経て、1957年以後ネルー内閣国防相を務めたが、1962年、中印紛争での敗戦の責を問われ辞任。1967年無所属で下院議員当選。1946~1947年の国連安保理のインド代表。1952~1960年の国連総会へのインド首席代表。

内藤雅雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メノン」の意味・わかりやすい解説

メノン
Menon, V(enegalil) K(rishnan) Krishna

[生]1897.5.3. マラバル,カリカット
[没]1974.10.6. ニューデリー
インドの政治家,外交官。インド独立前,イギリスでインド国民会議派の情宣活動に従事。ロンドン経済学校で学んだのち法曹界に入り,1934~47年イギリス労働党員として活躍。 29~47年ロンドンのインド連盟書記。独立後,47~52年イギリス駐在インド高等弁務官。 53年帰国し,同年インド国会議員となり,62年までインド国連代表団団長をつとめた。 J.ネルーの非同盟外交の立役者の一人として国連で活躍。 57年国防相に就任したが,62年秋の中印国境紛争でのインド軍敗北のため引責辞職。 57,62年の総選挙で連邦下院議員となったが,67年の第4回総選挙では国民会議派に公認されず,以後無所属で左翼的活動を続けた。

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百科事典マイペディア 「メノン」の意味・わかりやすい解説

メノン

インドの政治家。ロンドン大学へ留学中に在ロンドン反英民族グループに参加,卒業後もロンドンにおいて活動する。第2次大戦後官界に入り,在英インド高等弁務官,国連代表として活躍した。ネルー首相の外交顧問の地位にあり,1957年国防相となったが,1962年中印国境問題責任を問われて辞任した。

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