ブータン(読み)ぶーたん(英語表記)Bhutan

翻訳|Bhutan

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブータン」の意味・わかりやすい解説

ブータン
ぶーたん
Bhutan

ヒマラヤ山脈東部の南斜面にある小王国。北は中国のチベット高原に、南はインドのアッサム州や西ベンガル州の平原に接する。正称はブータン王国Kingdom of Bhutanで、ブータンとはサンスクリット語の「チベット文化圏の周辺部」を表すことばに由来する。チベット仏教カギュ派の一分派ドゥルック派を国教とする仏教国で、国民は自国をドゥルック・ユル(竜の国)と称する。近年まで鎖国状態にあったため、「ヒマラヤの桃源郷」ともよばれている。面積4万6500平方キロメートル、人口69万2044(2007ブータン政府発表)、約66万(2007世界銀行資料)。首都はティンプー

[西岡京治・西岡里子]

自然

ヒマラヤ山脈の南側斜面に位置するため国土は著しい標高差をもつ。北部国境には最高峰ガンケル・プン・スム山(7541メートル)をはじめとする7000メートル級の高峰が並び、無数の氷河や氷河湖を形成し、多数の河川の源となっている。南部の国境地帯の標高は200メートル内外にすぎず、高温多湿で密林が茂る。中間の標高1000~3000メートルの山腹地帯は温暖多雨で、河川によってできた谷底盆地群が分布し、主要な集落および農耕地はこの地域に開けている。北部の高山域を除き、年間の降水量は相当に多いが、乾期と雨期に分かれ、5月末~9月末までの雨期の降雨は、モンスーンによってもたらされる。国土の約70%は森林で、いまだに原生林が多く残るが、標高の違いにより植生は亜熱帯性森林、照葉樹林帯、針葉樹林帯と変化し、高山植物帯へと続いている。豊かな森林はまた、豊富な動物相を出現させ、低地にはゾウ、サイ、水牛が、高山域にはターキン、ブルー・シープ、ジャコウジカなどの珍獣が生息する。トラ、ヒョウ、クマなども多く、集落近くでもつねに出没する。

[西岡京治・西岡里子]

歴史

古代の歴史は明らかではないが、中国の唐代の記録(8世紀)のなかにパロ県のキチュー寺の記述があり、古くからこの国が知られていたことを示している。9世紀ごろよりチベット人の来住が多く記録されている。12世紀ごろにはチベットからドゥルック派の僧が相次いで入国し、ドゥルック・ユルという国名もこのころ確立したと考えられる。

 1616年に入国したガワン・ナムゲルもチベットの高僧であったが、たび重なるチベットの外寇(がいこう)を退け、宗教制度はもとより行政制度も整備して、この国の発展に寄与した。彼は聖職的支配者である第1代の法王(シャプトゥン・リンポチェ)となったあと、別に俗権的支配者の執権(デシ)を設け、二頭支配の構造をつくりあげた。

 18世紀になるとイギリスがこの地に進出して、両国は武力衝突を繰り返したが、1865年シンチュラ条約により、ブータンは南部の領土を割譲し、かわりに年金を受け取ることになった。ついで1910年のプナカ条約では、外交をイギリスの指導のもとに行うことになり、イギリスは外国人の立ち入りを厳しく制限した。その後1949年になってインドがイギリスにかわって新条約を結び、この体制を引き継いだ。ブータンがイギリスおよびインドの保護国と間違えられてきたのも、このためと思われる。

 1907年まで、ブータンは聖俗2人の支配者によって治められていたが、各地方には領主(ペンロップ)がいて、それぞれ勢力をもっていた。しかし、同年トンサ地方の領主ウゲン・ウォンチュックが第1代の国王に選ばれ、世襲王制が誕生すると、俗権の優位が確立され、中央集権的国家体制が確立した。1952年に即位した第3代ジグメ・ドルジ・ウォンチュック国王は、首相ジグメ・ドルジとともに、農奴の解放、国民議会の創設、教育制度の導入などを行い、国の近代化に努力した。またインドとの自動車道路を開通させて外界との交流の道を開いた。しかし、その政策に不満をもつ勢力との摩擦を招き、首相は1964年に暗殺された。1972年、国王の病死により16歳の若さで即位した第4代ジグメ・シンギ・ウォンチュック国王(戴冠(たいかん)式は1974年)も、引き続き数々の近代化・民主化政策を推し進めた。その後、2006年12月に、第4代国王は譲位し、皇太子ジグメ・ケサル・ナムギャル・ウォンチュックが第5代国王となったが、第4代国王の構想に基づき、2007年12月に上院議員選挙、2008年3月に下院議員選挙が行われ、下院議員選挙で多数を占めたブータン調和党の党首ジグミ・ティンレイが同年4月国王により首相に任命され、組閣した。同年5月には国会が召集され、7月に新憲法を承認、絶対君主制から議会制民主主義による立憲君主制となった。

[西岡京治・西岡里子]

政治

2008年の立憲君主制移行前は、国王を元首とし、成文の憲法がない絶対君主制であった。国王のもとに一院制の国民議会があったが、1969年、国王より議会を国の最終的意志決定機関とする決議が提案され、採択された。長く国王親政制度がとられ、首相も国王が兼任したが、後に輪番制の首相が置かれた。その下には閣僚会議があり、諮問機関として王室顧問会議も置かれていた。現在の元首は国王で65歳定年制。議会は二院制で上下院とも任期は5年である。上院の国民評議会は25議席で全国20地区から選挙で選ばれた20名に加え、国王が任命した5名で構成される。下院の国民議会は47議席。下院で多数派を占める政党から国王が首相の任命を行う。1968年司法が行政から独立し、首都の最高裁判所を中心に、各県に地方裁判所が20ある。地方行政は全国20地区に分けられ、城塞(じょうさい)寺院であるゾンに役所が置かれ、ゾンダ(県知事)を中心に行われている。

 外交はインドの勧告を受けて進めているが、1971年の国連加盟、1973年の非同盟会議への参加を機に自主権が拡大しつつあり、1979年にはカンボジア問題で、インドと異なる選択を行った。現在では日本を含む近隣国やヨーロッパ諸国などと国交をもつようになった。首都ティンプーには、インド、バングラデシュの大使館、UNDP(国連開発計画)、ユニセフWFP(世界食糧計画)、WHO(世界保健機関)の各代表部がある。非同盟中立政策を外交の基本とする。

 なお1961年以降、インドの財政援助による国の開発計画が始まったが、1962年のコロンボ計画への加盟や、1971年の国連への加盟により、各種の援助も増えている。1974年以来外国人観光客に門戸を開き、2000年には観光客は8000人を数え、2007年には2万1094人となった。

[西岡京治・西岡里子]

経済・産業

産業は農業が中心で、国民の労働人口の9割(93.6%。2004)は農業に従事し、自給度の高い生活をしている。そのため近代的な統計上にはこの国の豊かさは表れていない。標高2500メートル以下では、水稲と小麦・大麦の二毛作が行われ、高地では大麦、小麦、ソバが栽培される。照葉樹林帯では焼畑耕作も行われ、陸稲や雑穀類がつくられる。最近は野菜、ジャガイモ、ポンカン、リンゴ、香辛料などの栽培が盛んになり、換金作物としてインドおよび近隣の国へ輸出されている。牧畜も昔から盛んで、高地ではヤクやヒツジ、低地ではウシなどを飼育する。またウマ、ラバは荷物の輸送や乗用として欠かせない。

 工業は発展の途についたばかりで、銅、亜鉛、タングステン、石膏(せっこう)、石灰石などの鉱物資源があり、石灰岩を利用したセメント工場などがある。森林資源は材木として輸出されているが、ベニヤ、加工板などの工場もある。急峻(きゅうしゅん)な地形のために建設が困難な道路も総延長3691キロメートル(2000)に達し、奥地の開発も進んできた。ヒマラヤの河川を利用した水力発電による余剰電力はインドに輸出されている。古くから手漉(てすき)紙、竹細工、漆器、織物などの手工芸品は日用品であると同時に質の高い商品であったが、近年これらが日本をはじめ外国に輸出されるようになった。

 ブータンはほとんどの消費材および生産資材を輸入に頼っているため、貿易収支は恒常的に輸入超過であったが、水力発電による電力輸出等によって2007年の輸出額は6億3800万ドル、輸入額は5億6100万ドルで、7700万ドルの黒字になっている。輸出品目は電力、ケイ素鉄、非鉄金属、金属製品、セメントなど、輸入品目は高速ディーゼル、ポリマー(プラスチック等合成樹脂など)、石油、米などで、輸出相手国はインド、香港、バングラデシュ、シンガポールなど、輸入相手国はインド、日本、シンガポール、タイ、韓国などである。とくにインドは輸出の約88%、輸入の約75%を占める最大の貿易相手国となっている。

 2007年の国民総所得(GNI)は11億7000万ドル、1人当り国民総所得は1770ドル、経済成長率は19%と高い伸びを示している。

[西岡京治・西岡里子]

社会・文化

民族はチベット系のブータン人が60%、おもに南部で暮らすネパール系が20%などで構成される。1980年代にとられた民族主義政策の影響により発生したネパール系ブータン難民についての対応が懸案事項となっており、ネパール南東部の難民キャンプで生活している約10万人の帰還等について、ブータン、ネパール間で協議が行われている。言語は多くの方言があるが、公用語としてゾン・カ語(チベット語に近い)が採用され、学校教育では英語も使われている。昔からインドのカーストのような階級制度がなく、貧富の差が少ない社会で、伝統的に男女は平等の権利を有している。仏教は国民の生活のなかで大きな力をもち、僧侶(そうりょ)は重要な地位を占めている。ゾンや寺院のほか、所々でチョルテン(仏塔)や経文旗もみられ、仮面踊り、仏像、仏画、曼荼羅(まんだら)などの仏教芸術は、みごとな技術を現在も受け継いでいる。教育は1961年に無償の教育制度が導入され、初等教育は就学率84.2%に達している(2004)。識字率は54%(2005)。教育制度の拡充は国の最優先政策の一つで、現在、小・中学校のほかに各種の技術養成学校や教員養成学校もできている。高等教育のためにはインドへの留学制度があり、コロンボ計画などによる海外留学生も多数に上っている。新聞は週刊が3紙あり、ラジオ、テレビは国営のブータン放送がある。

[西岡京治・西岡里子]

日本との関係

1962年日本の外交官として初めて当時カルカッタ(現コルカタ)総領事の東郷文彦夫妻がブータンを訪問し、1964年コロンボ計画農業専門家が赴任した。正式な外交関係は1986年に樹立された。1987年には浩宮(現皇太子)が、1997年には秋篠宮(あきしののみや)夫妻が親善訪問した。1968年より現在まで多くの研修生が国際協力機構(JICA)などの招きで来日している。日本政府の援助も行われており、2007年までの政府開発援助(ODA)額累計は、有償資金協力35億7600万円、無償資金協力262億3300万円、技術協力119億円となっている。インドを除いた主要援助国のなかでは第1位(2006)である。

 ブータンと日本間の貿易では、ブータンから日本への輸出額が9200万円、輸入額が16億9100万円(2007)と、ブータンの大幅な輸入超過となっている。日本への輸出品目はマツタケ等の生鮮・冷蔵野菜、繊維製品など、輸入品目は自動車およびその関連部品などである。

[西岡京治・西岡里子]

『中尾佐助著『秘境ブータン』(1971・社会思想社)』『西岡京治・西岡里子著『神秘の王国』(1978・学習研究社)』『今枝由郎著『ブータン――変貌するヒマラヤの仏教国』(1994・大東出版社)』『今枝由郎著『ブータン中世史――ドゥク派政権の成立と変遷』(2003・大東出版社)』『今枝由郎著『ブータンに魅せられて』(岩波新書)』『辛島昇他監修『南アジアを知る事典 新訂増補』(2002・平凡社)』『後藤多聞著『遥かなるブータン――ヒマラヤのラマ教王国をゆく』(ちくま文庫)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブータン」の意味・わかりやすい解説

ブータン
Bhutan

正式名称 ブータン王国 Dzongkha Druk-Yul。
面積 3万8394km2
人口 75万6100(2021推計)。
首都 ティンプー

インドと中国のチベット(西蔵)自治区の間,ヒマラヤ山脈の東部にある立憲君主国。ブータン人はブータンを,「竜(または雷)の国」を意味するドゥクユル Druk-Yulと呼ぶ。南部は標高 100m前後であるが,北は 7000m級の峰が連なるヒマラヤ山脈の主脈である。気候は熱帯から温帯,さらに高山帯へと変化し,冬の乾季と夏の雨季に分かれる。河川は南流して,いずれもインドのブラマプトラ川に流れ込む。河川に沿う盆地には肥沃な水田地帯が多く,集落が発達し,上限は標高 2500mに達する。イネのほかオオムギ,コムギ,ソバ,ジャガイモ,雑穀が栽培され,ウシとヤクの牧畜も盛んである。大部分が農村であるが,プナカ,ティンプー,パロ,ハ,トンサのような人口の多い町もある。人口の約 70%はドゥルクパ(「竜の人」の意)で,主として中部から北部に居住する。チベット語系の言語を使用し,チベット仏教(ラマ教)徒である(→チベット仏教)。公用語はドゥルクパの西部方言ゾンカ(「ゾンのことば」の意)で,チベット系の文字を使用する。南西部に住むネパール人移住者の子孫は人口の 20%以上を占め,ヒンドゥー教徒で(→ヒンドゥー教),農業を営み,官吏として進出。17世紀半ばからはラマ教の最高位僧と執権の聖俗 2人が統治していた。1908年王制となり,王が王室諮問会議,閣僚会議,国会,ジェイ・ケンポと呼ばれる最高位僧の協力を得て統治した。1765年以来,ベンガルの統治権を握ったイギリス東インド会社と紛争が続き,1865年のシンチュラ条約で収拾したが,1910年の改定によって外交権はイギリスに委譲された。1947年のインド独立後,シンチュラ条約はインド=ブータン友好条約に引き継がれた。全国は 20県に分かれ,それぞれゾンと呼ばれるかつての城塞の中に地方行政庁,裁判所,僧院が置かれている。長く鎖国状態にあったが,1961年以来,国王により近代化政策が進められ,1971年国際連合に加盟した。1974年から外国人観光客の受け入れを開始し,1983年からは国営ブータン航空が営業を始めた。2008年3月に初めての議会下院選挙が実施されて首相が就任,同年 7月には憲法が採択され,政治体制は専制君主制から立憲君主制に移行した。

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