共同通信ニュース用語解説 「ブータン」の解説
ブータン
ヒマラヤ山脈の東端にあり、インドと中国に囲まれた王国。九州とほぼ同じ面積の国土に約77万2千人(2020年推定)が住む。北部は最高7千メートル級の高山帯、中部は1500~3千メートルの渓谷・盆地群が広がる。08年、国民議会(下院)が「国民総幸福量」の向上などを盛り込んだ新憲法を承認、王制から立憲君主制に移行し民主化した。(共同)
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翻訳|Bhutan
ヒマラヤ山脈の東端にあり、インドと中国に囲まれた王国。九州とほぼ同じ面積の国土に約77万2千人(2020年推定)が住む。北部は最高7千メートル級の高山帯、中部は1500~3千メートルの渓谷・盆地群が広がる。08年、国民議会(下院)が「国民総幸福量」の向上などを盛り込んだ新憲法を承認、王制から立憲君主制に移行し民主化した。(共同)
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ヒマラヤ山脈東部の南斜面にある小王国。北は中国のチベット高原に、南はインドのアッサム州や西ベンガル州の平原に接する。正称はブータン王国Kingdom of Bhutanで、ブータンとはサンスクリット語の「チベット文化圏の周辺部」を表すことばに由来する。チベット仏教カギュ派の一分派ドゥルック派を国教とする仏教国で、国民は自国をドゥルック・ユル(竜の国)と称する。近年まで鎖国状態にあったため、「ヒマラヤの桃源郷」ともよばれている。面積4万6500平方キロメートル、人口69万2044(2007ブータン政府発表)、約66万(2007世界銀行資料)。首都はティンプー。
[西岡京治・西岡里子]
ヒマラヤ山脈の南側斜面に位置するため国土は著しい標高差をもつ。北部国境には最高峰ガンケル・プン・スム山(7541メートル)をはじめとする7000メートル級の高峰が並び、無数の氷河や氷河湖を形成し、多数の河川の源となっている。南部の国境地帯の標高は200メートル内外にすぎず、高温多湿で密林が茂る。中間の標高1000~3000メートルの山腹地帯は温暖多雨で、河川によってできた谷底盆地群が分布し、主要な集落および農耕地はこの地域に開けている。北部の高山域を除き、年間の降水量は相当に多いが、乾期と雨期に分かれ、5月末~9月末までの雨期の降雨は、モンスーンによってもたらされる。国土の約70%は森林で、いまだに原生林が多く残るが、標高の違いにより植生は亜熱帯性森林、照葉樹林帯、針葉樹林帯と変化し、高山植物帯へと続いている。豊かな森林はまた、豊富な動物相を出現させ、低地にはゾウ、サイ、水牛が、高山域にはターキン、ブルー・シープ、ジャコウジカなどの珍獣が生息する。トラ、ヒョウ、クマなども多く、集落近くでもつねに出没する。
[西岡京治・西岡里子]
古代の歴史は明らかではないが、中国の唐代の記録(8世紀)のなかにパロ県のキチュー寺の記述があり、古くからこの国が知られていたことを示している。9世紀ごろよりチベット人の来住が多く記録されている。12世紀ごろにはチベットからドゥルック派の僧が相次いで入国し、ドゥルック・ユルという国名もこのころ確立したと考えられる。
1616年に入国したガワン・ナムゲルもチベットの高僧であったが、たび重なるチベットの外寇(がいこう)を退け、宗教制度はもとより行政制度も整備して、この国の発展に寄与した。彼は聖職的支配者である第1代の法王(シャプトゥン・リンポチェ)となったあと、別に俗権的支配者の執権(デシ)を設け、二頭支配の構造をつくりあげた。
18世紀になるとイギリスがこの地に進出して、両国は武力衝突を繰り返したが、1865年シンチュラ条約により、ブータンは南部の領土を割譲し、かわりに年金を受け取ることになった。ついで1910年のプナカ条約では、外交をイギリスの指導のもとに行うことになり、イギリスは外国人の立ち入りを厳しく制限した。その後1949年になってインドがイギリスにかわって新条約を結び、この体制を引き継いだ。ブータンがイギリスおよびインドの保護国と間違えられてきたのも、このためと思われる。
1907年まで、ブータンは聖俗2人の支配者によって治められていたが、各地方には領主(ペンロップ)がいて、それぞれ勢力をもっていた。しかし、同年トンサ地方の領主ウゲン・ウォンチュックが第1代の国王に選ばれ、世襲王制が誕生すると、俗権の優位が確立され、中央集権的国家体制が確立した。1952年に即位した第3代ジグメ・ドルジ・ウォンチュック国王は、首相ジグメ・ドルジとともに、農奴の解放、国民議会の創設、教育制度の導入などを行い、国の近代化に努力した。またインドとの自動車道路を開通させて外界との交流の道を開いた。しかし、その政策に不満をもつ勢力との摩擦を招き、首相は1964年に暗殺された。1972年、国王の病死により16歳の若さで即位した第4代ジグメ・シンギ・ウォンチュック国王(戴冠(たいかん)式は1974年)も、引き続き数々の近代化・民主化政策を推し進めた。その後、2006年12月に、第4代国王は譲位し、皇太子ジグメ・ケサル・ナムギャル・ウォンチュックが第5代国王となったが、第4代国王の構想に基づき、2007年12月に上院議員選挙、2008年3月に下院議員選挙が行われ、下院議員選挙で多数を占めたブータン調和党の党首ジグミ・ティンレイが同年4月国王により首相に任命され、組閣した。同年5月には国会が召集され、7月に新憲法を承認、絶対君主制から議会制民主主義による立憲君主制となった。
[西岡京治・西岡里子]
2008年の立憲君主制移行前は、国王を元首とし、成文の憲法がない絶対君主制であった。国王のもとに一院制の国民議会があったが、1969年、国王より議会を国の最終的意志決定機関とする決議が提案され、採択された。長く国王親政制度がとられ、首相も国王が兼任したが、後に輪番制の首相が置かれた。その下には閣僚会議があり、諮問機関として王室顧問会議も置かれていた。現在の元首は国王で65歳定年制。議会は二院制で上下院とも任期は5年である。上院の国民評議会は25議席で全国20地区から選挙で選ばれた20名に加え、国王が任命した5名で構成される。下院の国民議会は47議席。下院で多数派を占める政党から国王が首相の任命を行う。1968年司法が行政から独立し、首都の最高裁判所を中心に、各県に地方裁判所が20ある。地方行政は全国20地区に分けられ、城塞(じょうさい)寺院であるゾンに役所が置かれ、ゾンダ(県知事)を中心に行われている。
外交はインドの勧告を受けて進めているが、1971年の国連加盟、1973年の非同盟会議への参加を機に自主権が拡大しつつあり、1979年にはカンボジア問題で、インドと異なる選択を行った。現在では日本を含む近隣国やヨーロッパ諸国などと国交をもつようになった。首都ティンプーには、インド、バングラデシュの大使館、UNDP(国連開発計画)、ユニセフ、WFP(世界食糧計画)、WHO(世界保健機関)の各代表部がある。非同盟中立政策を外交の基本とする。
なお1961年以降、インドの財政援助による国の開発計画が始まったが、1962年のコロンボ計画への加盟や、1971年の国連への加盟により、各種の援助も増えている。1974年以来外国人観光客に門戸を開き、2000年には観光客は8000人を数え、2007年には2万1094人となった。
[西岡京治・西岡里子]
産業は農業が中心で、国民の労働人口の9割(93.6%。2004)は農業に従事し、自給度の高い生活をしている。そのため近代的な統計上にはこの国の豊かさは表れていない。標高2500メートル以下では、水稲と小麦・大麦の二毛作が行われ、高地では大麦、小麦、ソバが栽培される。照葉樹林帯では焼畑耕作も行われ、陸稲や雑穀類がつくられる。最近は野菜、ジャガイモ、ポンカン、リンゴ、香辛料などの栽培が盛んになり、換金作物としてインドおよび近隣の国へ輸出されている。牧畜も昔から盛んで、高地ではヤクやヒツジ、低地ではウシなどを飼育する。またウマ、ラバは荷物の輸送や乗用として欠かせない。
工業は発展の途についたばかりで、銅、亜鉛、タングステン、石膏(せっこう)、石灰石などの鉱物資源があり、石灰岩を利用したセメント工場などがある。森林資源は材木として輸出されているが、ベニヤ、加工板などの工場もある。急峻(きゅうしゅん)な地形のために建設が困難な道路も総延長3691キロメートル(2000)に達し、奥地の開発も進んできた。ヒマラヤの河川を利用した水力発電による余剰電力はインドに輸出されている。古くから手漉(てすき)紙、竹細工、漆器、織物などの手工芸品は日用品であると同時に質の高い商品であったが、近年これらが日本をはじめ外国に輸出されるようになった。
ブータンはほとんどの消費材および生産資材を輸入に頼っているため、貿易収支は恒常的に輸入超過であったが、水力発電による電力輸出等によって2007年の輸出額は6億3800万ドル、輸入額は5億6100万ドルで、7700万ドルの黒字になっている。輸出品目は電力、ケイ素鉄、非鉄金属、金属製品、セメントなど、輸入品目は高速ディーゼル、ポリマー(プラスチック等合成樹脂など)、石油、米などで、輸出相手国はインド、香港、バングラデシュ、シンガポールなど、輸入相手国はインド、日本、シンガポール、タイ、韓国などである。とくにインドは輸出の約88%、輸入の約75%を占める最大の貿易相手国となっている。
2007年の国民総所得(GNI)は11億7000万ドル、1人当り国民総所得は1770ドル、経済成長率は19%と高い伸びを示している。
[西岡京治・西岡里子]
民族はチベット系のブータン人が60%、おもに南部で暮らすネパール系が20%などで構成される。1980年代にとられた民族主義政策の影響により発生したネパール系ブータン難民についての対応が懸案事項となっており、ネパール南東部の難民キャンプで生活している約10万人の帰還等について、ブータン、ネパール間で協議が行われている。言語は多くの方言があるが、公用語としてゾン・カ語(チベット語に近い)が採用され、学校教育では英語も使われている。昔からインドのカーストのような階級制度がなく、貧富の差が少ない社会で、伝統的に男女は平等の権利を有している。仏教は国民の生活のなかで大きな力をもち、僧侶(そうりょ)は重要な地位を占めている。ゾンや寺院のほか、所々でチョルテン(仏塔)や経文旗もみられ、仮面踊り、仏像、仏画、曼荼羅(まんだら)などの仏教芸術は、みごとな技術を現在も受け継いでいる。教育は1961年に無償の教育制度が導入され、初等教育は就学率84.2%に達している(2004)。識字率は54%(2005)。教育制度の拡充は国の最優先政策の一つで、現在、小・中学校のほかに各種の技術養成学校や教員養成学校もできている。高等教育のためにはインドへの留学制度があり、コロンボ計画などによる海外留学生も多数に上っている。新聞は週刊が3紙あり、ラジオ、テレビは国営のブータン放送がある。
[西岡京治・西岡里子]
1962年日本の外交官として初めて当時カルカッタ(現コルカタ)総領事の東郷文彦夫妻がブータンを訪問し、1964年コロンボ計画農業専門家が赴任した。正式な外交関係は1986年に樹立された。1987年には浩宮(現皇太子)が、1997年には秋篠宮(あきしののみや)夫妻が親善訪問した。1968年より現在まで多くの研修生が国際協力機構(JICA)などの招きで来日している。日本政府の援助も行われており、2007年までの政府開発援助(ODA)額累計は、有償資金協力35億7600万円、無償資金協力262億3300万円、技術協力119億円となっている。インドを除いた主要援助国のなかでは第1位(2006)である。
ブータンと日本間の貿易では、ブータンから日本への輸出額が9200万円、輸入額が16億9100万円(2007)と、ブータンの大幅な輸入超過となっている。日本への輸出品目はマツタケ等の生鮮・冷蔵野菜、繊維製品など、輸入品目は自動車およびその関連部品などである。
[西岡京治・西岡里子]
『中尾佐助著『秘境ブータン』(1971・社会思想社)』▽『西岡京治・西岡里子著『神秘の王国』(1978・学習研究社)』▽『今枝由郎著『ブータン――変貌するヒマラヤの仏教国』(1994・大東出版社)』▽『今枝由郎著『ブータン中世史――ドゥク派政権の成立と変遷』(2003・大東出版社)』▽『今枝由郎著『ブータンに魅せられて』(岩波新書)』▽『辛島昇他監修『南アジアを知る事典 新訂増補』(2002・平凡社)』▽『後藤多聞著『遥かなるブータン――ヒマラヤのラマ教王国をゆく』(ちくま文庫)』
基本情報
正式名称=ブータンDruk Yul/Kingdom of Bhutan
面積=3万8394km2
人口(2010)=70万人
首都=ティンプーThimphu(日本との時差=-3時間)
主要言語=ゾンカ語
通貨=ニュルタムNgultrum
インド亜大陸北東端,ヒマラヤ山脈中の王国。国名はサンスクリットの〈ボータンタ〉すなわち〈チベットの端〉に由来するといわれる。正式国名のドゥルック・ユルは〈竜の国〉の意である。
九州地方よりも少し大きい国土は東西に延びる北部,中部,南部の3地帯に分かれる。北部地帯は大ヒマラヤ山脈に属する幅約30kmの高山域で,ブータン・ヒマラヤと呼ばれる。その最高峰はクーラ・カンリ(標高7554m)であるが,同峰は中国のチベットに属するため,その南にそびえるガンカル・プンスムⅠ峰(7541m)がブータンの最高峰である。総じてネパール・ヒマラヤに比べて高度は低く,4000~6000mである。気候は冷涼少雨で,氷雪帯と森林帯との間に高山性草地帯が広がり,夏季のヤク,ヒツジなどの放牧地となる。山脈を南北に横断する諸峠は,1959年の中国によるチベットの社会主義化以前には交通路として利用され,北からは塩,羊毛,ヤク,南からは織布,穀物,香料などが交易された。中部地帯は大ヒマラヤ山脈から南に尾根状に派出する諸山脈とその間に介在する河谷盆地群からなり,幅約60kmと広くなるが標高は1000~3000mに低下する。山地は高所部では針葉樹,低所部では広葉樹の森林に覆われる。河谷盆地は肥沃で水田が広がり,同国の最も重要な農業地帯であるとともに人口の集住地区で,首都ティンプーをはじめパロ,プナカなどの諸都市が位置する。河谷盆地の気候は湿潤温暖で,一部の谷底部ではバナナ,マンゴーも栽培される。南部地帯は幅約50kmで山地が平野に移行していく最低所にあたる。平野部はドゥアールDuar(〈門戸〉の意)地方と呼ばれる。夏の南西モンスーンが直接吹きつけるため最も湿潤かつ暑熱の地で,亜熱帯性の森林に覆われ,トラ,ヒョウなどの大型野生獣が生息する。現在は開拓が進行しつつあるが,かつてはマラリアが蔓延し,またヤマビルの生息する非健康的な土地であった。ブータンが国家として存続しえた理由の一つは,北の大ヒマラヤ山脈とともにこの地が自然障壁の役割を果たしたためである。
以上の東西方向での3地帯が主として高度の差による生態的条件の違いとすれば,国土の中央部を南北に縦断するブラック・マウンテン山脈は水系を区分する境界であると同時に,文化的にも重要な境界をなしている。同山脈以東はトンサ,クルなどマナス川水系の上流域で,とくにその南東部の住民はインドのアッサム地方から北上し定着したチベット・ビルマ語派に属する言語を話す諸民族で,土着宗教と仏教を主要宗教とする。一方,西部はモ,ウォンなどガンガダール水系の上流域からなるが,北西国境のすぐ外側をインドとチベットを結ぶ重要交通路が走っていることもあって,北から南下したチベット系住民を主とする。彼らはラマ教の紅帽派に属し,ブータン人口の約60%を占める。ブータン人とは一般に彼らを指し,男は丸坊主頭でひざまでの短い丹前に似た筒袖の着物に帯をしめ,また女はおかっぱ頭で裾の長い着物の上にブラウスをはおっている。このほか南西部を中心に20世紀になって移住してきたネパール人が居住する。彼らはヒンドゥー教あるいは仏教を奉じ,人口の約30%を占める。公用語は首都付近で使用されるチベット語の南部方言ゾンカDzongkha語であるが,正書法はなくチベット文字を使用する。
8世紀以前の歴史は不明であるが,伝承によれば8世紀中期にインドから仏教が広まったといわれる。当時の原住民は南西方のインドのコーチ・ビハール地方から来住したブーティア・テプー族であった。彼らは9世紀にチベット軍により征服され,両者の混血により現在の中心民族ボーティアが形成されたとされる。以後チベットの影響の下に国家形成が進められていく。1616年にはラマ教紅帽派の高僧ガワン・ナムギャルNgawang Namgyalがチベットから入国し,宗教だけでなく行政制度の整備を行い,国家統一を推し進めた。彼は聖職的支配者たる第1代法王(シャプドゥン・リンポチェ)となった。51年ころからは法王以外に俗権的支配者にあたる執権(デシ)が登場し,この二重構造は以後1907年まで続いた。後者は有力家系から推挙により推戴され,前者は活仏で,有力家系の中から見いだされた前法王の転生者がなった。18世紀にはいると中国およびイギリスの影響が及んでくる。まず1720年の清朝の康煕帝によるチベット征服により,清朝はブータンに駐在官を置き宗主権を行使することになった。72年にインドのコーチ・ビハール王国の王位継承戦に介入したブータンは,ここでベンガル支配を進めてきたイギリスと衝突した。翌73年にはコーチ・ビハール王国はイギリスの保護国となった。1826年にはイギリスはアッサムを領有し,65年にはドゥアール地方をめぐってブータン戦争が勃発した。同年のシンチュラ条約により同地方は英領インドに編入され,ブータン領土は山岳地方に押し込められることとなった。1907年にはトンサの領主ウゲン・ウォンチュックUgyen Wangchukが法王を兼ねる一元的な支配者となって現王朝を創始し,ドゥルック・ギャルポ(国王)と称した。これにより俗権的権力の優位性が確立するとともに,それまでの群雄割拠体制に終止符を打った。10年にはイギリスとの条約により毎年補助金を受ける代わりに,外交面はイギリスにゆだねることになり,イギリスは外国人の立入りを厳しく制限した。この関係はインド独立後のインド・ブータン友好条約(1949)にも継承され,今日に及んでいる。このときインドは1865年に英領インドに編入された領土の一部,デワンギリ地方(83km2)を返還した。
1952年に即位した第3代国王ジグメ・ドルジ・ウォンチュック王Jigme Dorji Wangchuk(在位1952-72)は,59年のチベット動乱を契機にインドとの結びつきを強め,近代化を進めた。60年代を通じて農奴の解放,1人当り30エーカー以下への耕地所有の制限,ヒンディー語による近代教育の導入,国民議会,最高裁判所の設立,郵便制度の創始などがなされた。また61年以降数次にわたって五ヵ年計画をインドの援助の下に実施し,自動車道路の建設,森林開発,鉱産資源探査,ジャルダーカ川の水力発電計画などが推進された。かつては徒歩と馬によりインド国境からパロまで6日を要していたのが,自動車によりわずか6時間で行けるようになった。64年には近代化の推進者であったジグメ・ドルジ首相(国王の義兄)が暗殺され,彼の弟が首相に就任したものの,国王と対立してネパールへ逃亡,このとき以来国王が全権を掌握している。同国王の政策は72年(戴冠式は1974年)に即位した第4代国王ジグメ・シンギ・ウォンチュック王Jigme Singye Wangchuk(在位1972-)により継承されている。
立法機関としては一院制の国民議会(1953設置)があり,任期3年の150人の議員から成るが,議会の決定は国王の同意を得て初めて有効となる。また,成文憲法はない。1969年の改革で,国王は3年ごとに国民議会の信任を問うことになったが,不信任で退位した場合でも,後継者は王位継承順位に従ってウォンチュック家から選ばれる。国王の下に閣僚会議と諮問機関の王室顧問会議(定員10名)があり,前者が行政にあたる。地方行政の中心はラマ教寺院と政庁が合体したゾンdzong(〈城塞〉の意)で,行政,治安,徴税などの機能をもつ。1949年のインドとの条約締結以来,外交・軍事面でインドの指導を仰いでいるが,主権国家としての自立はブータンの悲願であり,71年の国際連合加盟もそのための動きであった。78年には,在インド,ブータン使節団の大使館への昇格,第三国に余剰物資を輸出する権利をインドが認め,ブータンの自主権が拡大した。1973年に加盟した非同盟諸国会議の第6回会議(1979)では,カンボジア問題で中国の立場に賛成してポル・ポト政権を支持し,インドと異なる選択を行った。80年にはバングラデシュのダッカに大使館を開設,翌年ユネスコおよびアジア開発銀行に加盟し,ネパールとの外交関係も83年に開かれた。
最近の国内問題で重要なのは90年のネパール系住民の争乱で,軍隊が出動し鎮圧した。その背後には,ブータン化政策を進める政府に対する南部のネパール系住民の反発がある。中国との国境交渉は1984年以来続けられているが,なお最終的合意に至ってない。
日本との関係では,日本人で初めてブータンに入ったのはチベット学者多田等観である。チベットのラサを目ざした彼は,1913年,インドから北上しブータンを通過した。日本ブータン友好協会の設立は81年であるが,日本との国交の樹立は86年になってからである。88年には青年海外協力隊員の派遣が始まり,日本はインドを除く二国間援助額の30%以上を占める第1の援助国となっている。このような両国関係発展の背後には,1964年以来滞在し92年に死去するまで農業指導に従事し〈ダショー(爵位)〉を授与された西岡京治などの尽力があった。
産業は農業が中心で,中部地帯の河谷盆地を主要地帯とし,その低地部は米,ソバ,雑穀,高地部は小麦,大麦を産する。牧畜も高所のヤクのほか,羊,ヤギがいずれも移牧形式で飼養される。在来の小型馬は山地での輸送用役畜として多用されている。工業は松を原料とする製紙やセメント工業などを除くと,竹細工,皮革加工,織布,シンチュウ製品などの伝統工業に限られている。鉱産資源は南東部の石炭のほか鉛などの埋蔵が確認されている。貿易の70%以上はインドとの間で行われており,インドへの主要な輸出品目は,電力,カーバイド,セメントとなっている。電力は,インド援助のもとに建設され,1987年に本格稼働を始めたチュカ水力発電所などから供給されている。
1974年以来,外国人観光客の受入れが重視されており,94年には約4000人となった。航空便は,パロとインドのカルカッタ(現,コルカタ)との間を国営〈ドゥルック・エア〉が1983年に就航し,88年からは約70人乗りのジェット旅客機を導入して,翌89年までにダッカ,カトマンズ,バンコクへも乗り入れ,インド以外の第三国と直接結ばれることになった。
ラマ教は,今日も国教の地位にあり,国家および民衆の間に大きな力をもちつづけている。数あるラマ教の諸分派のなかで国教の地位にあるのは,カギュパのドゥルック分派である。同分派はブータンに13世紀に入国した高僧パジョ・ドゥゴン・シッポによって広められた教派であり,紅帽派に属する。とりわけ17世紀初めに同教派の有力者の支持のもとに国家統一を推進したガワン・ナムギャルによって,同教派は国教の地位に押し上げられた。彼は各河谷平野に城塞兼寺院のゾンや守護寺を建立した。これらの寺々の内面にはラマ教の諸説話を描いたタンカ(仏画)が描かれ,また大きな寺院には仏教の宇宙観を示す曼荼羅(まんだら)が描かれ,ともにブータン芸術の精髄をなしている。
立憲君主制をとっている現王政下でも,僧侶は重要な地位を占め,最高の身分を示す鮮黄色のスカーフの着用を許されるのは俗界の長ともいうべき国王と,聖界の長ともいうべき僧侶会議の代表者(ジェー・ケンポ)に限られている。また同会議は国民議会議員に10名,また王室顧問会議に2名の代表者を送っている。このような政治面だけでなく,各家には仏間があってそこには仏壇が置かれている。また所々に建つチョルテン(仏塔)と経文旗は,ラマ教国ブータンを強く感じさせる。
教育面では1961年に始まる第1次開発計画以来,従来の僧院での宗教教育に代わる公教育の確立に重点が置かれている。10年制の教育制を取り入れ,94年現在およそ6万9000人の生徒が学んでいる。教育はすべて国庫でまかなわれ,伝統的な工芸,彫刻,絵画の伝習を目ざす美術センターも設けられている。教育は上級になるほど英語でなされているが,公用語のゾンカ語は必須とされている。大学教育は主としてインドの諸大学への留学によりなされていたが,1985年にタシガンにカレッジ(予科2年,本科3年)が設置され,高校(2年制)に続く高等教育の途が開かれた。
執筆者:応地 利明
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インドと中国に挟まれヒマラヤ山脈に連なる王国。1910年にイギリスの保護国となり,外交・軍事面で制約を受けた。その地位は49年の条約で独立インドに引き継がれた。首都はティンプー。チベット系住民が大半を占めるが,20世紀に入りネパール系住民の流入があった。成文憲法は持たない。一院制の議会と,ゾンと呼ばれる地方行政機構を持つ。農業が基本で,外貨の獲得源として74年以降観光が重要。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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