目次 自然 住民,社会 歴史 政治 経済 基本情報 正式名称 =中央アフリカ共和国 République Centrafricaine 面積 =62万2984km2 人口 (2011)=450万人 首都 =バンギBangui(日本との時差=-8時間) 主要言語 =サンゴ語 ,フランス語 通貨 =CFA (中部アフリカ金融協力体)フランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centrale
中部アフリカ地域の中央部に位置する内陸国。フランス植民地時代はこの地域を流れる二つの川の名をとってウバンギ・シャリOubangui-Chariと呼ばれていたが,1958年の自治共和国移行に際して現在の国名が採用された。この国名は,建国の父ボガンダBarthélemy Boganda(1910-59)(独立の前年に事故死)が抱いていた,旧フランス領赤道アフリカ を主たる構成部分とする〈中央アフリカ合衆国〉建設の理想にちなんだものといわれる。 執筆者:小田 英郎
自然 国土の大部分 は,標高600~900mの緩やかな起伏の高原で,国土の中央をほぼ東西に分水界が走っている。分水界の南はコンゴ・ウバンギ川 水系に,北はシャリ川水系に入り,この分水界は大きくはコンゴ盆地 とチャド 湖盆との境をなしている。
気候的には国土のほぼ全域が湿潤サバンナ に属するが,南西部は降水量が多くなり,北東部では降水量が少なくなるなど,地域的に変異がみられる。したがって植生は,南西部の熱帯雨林地域や北東部の半砂漠地域を除いて,ほぼ全域がサバンナ林に覆われている。北東部の半砂漠地域は人口が少なく,野生動物の宝庫として知られ,自然公園として世界各国の観光客を集めつつある。 執筆者:端 信行
住民,社会 人口が約300万人の小国にもかかわらず,80もの部族が居住しているのは,文字どおりアフリカの中央に位置して,人々の移住の十字路になったことによる。おもな部族をあげると,バンダ族 ,バヤ族,マンジャ族,ウバンギ族,サラ族,ブム族となる。この地域にもともと居住していたピグミー 系のビンガ族は,今では南西部の森林地帯で狩猟採集 の生活を送っている。ウバンギ川流域に居住するウバンギ族はサンゴ族,ヤコマ族,バンジリ族,ブラカ族などの総称であり,人口はそれほど多くないが,国の商業を握っており,彼らが話すサンゴ語Sangoは商用語として広く全国に流通したため,今では国語として認められている。住民の多くはバントゥー系の農耕民で,その代表が中央部に居住するバンダ族である。西部のバヤ族は言語的にはサンゴ語と同じくアダマワ・東部語群に属するが,カメルーン からフルベ(フラニ)族に追われて移住してきたものである。東部のヤプカ族,リンダ族,ザンデ族などは,アラブの奴隷狩りから逃れ,スーダンから移住してきた。チャドとの国境地帯にはサラ族やヌデレ族,ビザオ族などが居住する。北部や北東部には,アラブの影響でイスラムが普及している。住民の60%は部族固有の伝統的な宗教を維持しており,キリスト教徒はカトリック が20%,プロテスタント が15%を占めている。フランス語が公用語であるが,国語のサンゴ語はフランス語と部族語が混交した一種のピジン語 である。東部ではスワヒリ語,北部ではアラビア語も話され,西部ではハウサ語 が商業に用いられている。 執筆者:赤阪 賢
歴史 ヨーロッパとの接触以前のこの地域の歴史は,まだ詳しくはわかっていない。おそらく特筆すべき国家の存在はみられず,北方に位置するカネム・ボルヌー,ワダイ,バギルミーといった中央スーダン の諸王国の勢力圏に組み込まれたり,そこから脱したりの繰返しであったのであろう。ヨーロッパ列強によるアフリカ分割競争がいっそうたけなわとなった1890年代に,フランスがコンゴからさらに内陸部に向けて本格的に進出を開始したが,その過程でこの地域は94年にウバンギ・シャリとして正式に植民地化された。ウバンギ・シャリは1910年にコンゴ,ガボン,チャドとともにフランス領赤道アフリカとして再編成された。フランスは,利権料とその収益の一部を納入させることを条件に赤道アフリカの開発を特許会社にゆだねた。その結果,強制労働によるゴムや象牙の採集が行われるなど,アフリカ人は手ひどく搾取された。ウバンギ・シャリもむろんその例にもれなかった。このため植民地政府やこれら特許会社に対する不満が強くなり,暴動などもたびたび起こった。そこでフランス議会は調査団を送って実情の把握に努めたが,事態の改善にはいたらなかった。しかし30年代に入ると,経済の中心はゴムの強制採集から,綿花やコーヒー の栽培およびダイヤモンドの採掘へと変わり,政策の非人道的な側面は大幅に改善された。
第2次世界大戦初期の40年9月,ウバンギ・シャリは自由フランスの側に立ってビシー政府に抵抗し始め,北アフリカ戦線の後方基地として連合軍の勝利に貢献した。戦後の46年にはフランス第四共和政の発足に伴ってフランス連合の海外領土となり,本国の議会に代表を送る権利を得た。さらに58年フランス第五共和政の発足とともにフランス共同体内の自治共和国となり,60年8月13日に完全独立を果たした。初代大統領に就任したダッコDavid Dackoは同年12月に野党を非合法化してブラック・アフリカ社会発展運動の一党体制を樹立し,親仏路線によって国家建設を推進しようと試みたが,経済はしだいに下降線をたどり,財政は破綻に瀕した。こうした背景のもとで65年12月にゼネストが起こり政情が不安なものになると,ダッコのいとこにあたるボカサJean Bédel Bokassa大佐がクーデタを起こして政権を奪い,66年1月大統領に就任した。ボカサは対外的にはフランスとのあいだに対立と協調を繰り返したが,国内的には政敵や競争者を弾圧,粛清するなどしてしだいに独裁色を強めた。72年2月に終身大統領に就任したばかりか,76年12月には共和制を廃止して帝制をしき,みずから皇帝となってボカサ1世と称した。しかし莫大な費用を投じての派手な戴冠式,79年1月の小学生デモ弾圧事件などに代表される愚行,圧政のゆえにボカサはしだいに孤立し,フランスの軍事的庇護をも失って,リビア訪問中の79年9月無血クーデタによって打倒され,コートジボアールへ亡命した。代わって政権の座に復帰したダッコはただちに帝制の廃止と共和制への復帰を宣言し,大統領に就任した。
政治 ダッコは1981年2月に新憲法を施行し,同年3月の選挙で政権復帰後2期目の大統領就任となったが,選挙での得票率は低く,首都バンギでは対立候補のそれを下回ったほどであった。結局ダッコの無血クーデタは単にボカサの個人支配を覆し,帝制を廃止したのみで,根本的な変革はなにももたらさなかったのであり,ダッコ政権への支持率が低いのも無理からぬことであった。大統領選挙の直後に首都で反政府デモが起こり,政情は悪化の一途をたどった。その結果,同年9月軍部によるクーデタが起こり,ダッコは再び失脚して,代りにコリンバAndré Kolingba将軍を長とする国家再建軍事委員会が政権を握った。同軍事委員会は憲法を停止して軍政をしいたが,政情は安定しなかった。コリンバは85年9月,国家再建軍事委員会を解散するとともに,自ら大統領に就任,86年11月には新憲法を公布して民政移管を行った。なお新憲法では中央アフリカ民主会議(RDC)の一党制がとられていたが,91年4月コリンバ政権は複数政党制導入を声明した。その結果行われた93年10月の大統領選挙では,アフリカ人民解放運動(MLPC)のA.パタッセが当選した。しかし,96年4月の軍の反乱以降,政情不安が続いている。
経済 労働人口の85%が農業に従事しており,主要産品は重要な輸出品であるコーヒー,木材,ワタをはじめ,トウモロコシ,ラッカセイ,砂糖,キャッサバなどである。森林資源は豊富であり,道路,輸送手段が整備されれば,林業はおおいに発展することが見込まれる。鉱業の比重は小さいが,ダイヤモンドはコーヒー,木材とならぶ重要な輸出品であり,また近年ウラニウム鉱が発見され,中央アフリカ・ウラニウム会社(URCA)によって採掘が開始された。しかし,コーヒーなどの国際価格低迷により,経済は全体として危機的状況にある。 執筆者:小田 英郎