中央アフリカ

共同通信ニュース用語解説 「中央アフリカ」の解説

中央アフリカ

アフリカ中部の内陸国。1960年にフランスから独立。ダイヤモンドや金などが豊富だが、不安定な政情が続き、貧困が深刻。人口約490万人でキリスト教徒が約50%、イスラム教徒は約15%。イスラム教徒主体の武装勢力が2013年3月に首都バンギを制圧し、治安が悪化。キリスト教徒主体の民兵組織との衝突が相次いだ。13年12月にフランス軍が軍事介入し、14年9月から国連平和維持活動(PKO)部隊が展開。今年2月に大統領選挙が行われ、元首相のトゥアデラ氏が当選した。(バンギ共同)

更新日:

出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報

精選版 日本国語大辞典 「中央アフリカ」の意味・読み・例文・類語

ちゅうおう‐アフリカチュウアウ‥【中央アフリカ】

  1. ( アフリカはAfrica ) アフリカ大陸中央部の内陸にある共和国。東西にボンゴ、ヤデの両山地が延びる。旧フランス領赤道アフリカのウバンギシャリ地方で、一九六〇年独立。綿花・落花生・ゴマなどの農産物とダイヤモンドを輸出する。首都バンギ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「中央アフリカ」の意味・わかりやすい解説

中央アフリカ (ちゅうおうアフリカ)
Central Africa

基本情報
正式名称中央アフリカ共和国République Centrafricaine 
面積=62万2984km2 
人口(2011)=450万人 
首都=バンギBangui(日本との時差=-8時間) 
主要言語サンゴ語,フランス語 
通貨=CFA(中部アフリカ金融協力体)フランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centrale

中部アフリカ地域の中央部に位置する内陸国。フランス植民地時代はこの地域を流れる二つの川の名をとってウバンギ・シャリOubangui-Chariと呼ばれていたが,1958年の自治共和国移行に際して現在の国名が採用された。この国名は,建国の父ボガンダBarthélemy Boganda(1910-59)(独立の前年に事故死)が抱いていた,旧フランス領赤道アフリカを主たる構成部分とする〈中央アフリカ合衆国〉建設の理想にちなんだものといわれる。
執筆者:

国土の大部分は,標高600~900mの緩やかな起伏の高原で,国土の中央をほぼ東西に分水界が走っている。分水界の南はコンゴ・ウバンギ川水系に,北はシャリ川水系に入り,この分水界は大きくはコンゴ盆地チャド湖盆との境をなしている。

 気候的には国土のほぼ全域が湿潤サバンナに属するが,南西部は降水量が多くなり,北東部では降水量が少なくなるなど,地域的に変異がみられる。したがって植生は,南西部の熱帯雨林地域や北東部の半砂漠地域を除いて,ほぼ全域がサバンナ林に覆われている。北東部の半砂漠地域は人口が少なく,野生動物の宝庫として知られ,自然公園として世界各国の観光客を集めつつある。
執筆者:

人口が約300万人の小国にもかかわらず,80もの部族が居住しているのは,文字どおりアフリカの中央に位置して,人々の移住の十字路になったことによる。おもな部族をあげると,バンダ族,バヤ族,マンジャ族,ウバンギ族,サラ族,ブム族となる。この地域にもともと居住していたピグミー系のビンガ族は,今では南西部の森林地帯で狩猟採集の生活を送っている。ウバンギ川流域に居住するウバンギ族はサンゴ族,ヤコマ族,バンジリ族,ブラカ族などの総称であり,人口はそれほど多くないが,国の商業を握っており,彼らが話すサンゴ語Sangoは商用語として広く全国に流通したため,今では国語として認められている。住民の多くはバントゥー系の農耕民で,その代表が中央部に居住するバンダ族である。西部のバヤ族は言語的にはサンゴ語と同じくアダマワ・東部語群に属するが,カメルーンからフルベフラニ)族に追われて移住してきたものである。東部のヤプカ族,リンダ族,ザンデ族などは,アラブの奴隷狩りから逃れ,スーダンから移住してきた。チャドとの国境地帯にはサラ族やヌデレ族,ビザオ族などが居住する。北部や北東部には,アラブの影響でイスラムが普及している。住民の60%は部族固有の伝統的な宗教を維持しており,キリスト教徒はカトリックが20%,プロテスタントが15%を占めている。フランス語が公用語であるが,国語のサンゴ語はフランス語と部族語が混交した一種のピジン語である。東部ではスワヒリ語,北部ではアラビア語も話され,西部ではハウサ語が商業に用いられている。
執筆者:

ヨーロッパとの接触以前のこの地域の歴史は,まだ詳しくはわかっていない。おそらく特筆すべき国家の存在はみられず,北方に位置するカネム・ボルヌー,ワダイ,バギルミーといった中央スーダンの諸王国の勢力圏に組み込まれたり,そこから脱したりの繰返しであったのであろう。ヨーロッパ列強によるアフリカ分割競争がいっそうたけなわとなった1890年代に,フランスがコンゴからさらに内陸部に向けて本格的に進出を開始したが,その過程でこの地域は94年にウバンギ・シャリとして正式に植民地化された。ウバンギ・シャリは1910年にコンゴ,ガボン,チャドとともにフランス領赤道アフリカとして再編成された。フランスは,利権料とその収益の一部を納入させることを条件に赤道アフリカの開発を特許会社にゆだねた。その結果,強制労働によるゴムや象牙の採集が行われるなど,アフリカ人は手ひどく搾取された。ウバンギ・シャリもむろんその例にもれなかった。このため植民地政府やこれら特許会社に対する不満が強くなり,暴動などもたびたび起こった。そこでフランス議会は調査団を送って実情の把握に努めたが,事態の改善にはいたらなかった。しかし30年代に入ると,経済の中心はゴムの強制採集から,綿花やコーヒーの栽培およびダイヤモンドの採掘へと変わり,政策の非人道的な側面は大幅に改善された。

 第2次世界大戦初期の40年9月,ウバンギ・シャリは自由フランスの側に立ってビシー政府に抵抗し始め,北アフリカ戦線の後方基地として連合軍の勝利に貢献した。戦後の46年にはフランス第四共和政の発足に伴ってフランス連合の海外領土となり,本国の議会に代表を送る権利を得た。さらに58年フランス第五共和政の発足とともにフランス共同体内の自治共和国となり,60年8月13日に完全独立を果たした。初代大統領に就任したダッコDavid Dackoは同年12月に野党を非合法化してブラック・アフリカ社会発展運動の一党体制を樹立し,親仏路線によって国家建設を推進しようと試みたが,経済はしだいに下降線をたどり,財政は破綻に瀕した。こうした背景のもとで65年12月にゼネストが起こり政情が不安なものになると,ダッコのいとこにあたるボカサJean Bédel Bokassa大佐がクーデタを起こして政権を奪い,66年1月大統領に就任した。ボカサは対外的にはフランスとのあいだに対立と協調を繰り返したが,国内的には政敵や競争者を弾圧,粛清するなどしてしだいに独裁色を強めた。72年2月に終身大統領に就任したばかりか,76年12月には共和制を廃止して帝制をしき,みずから皇帝となってボカサ1世と称した。しかし莫大な費用を投じての派手な戴冠式,79年1月の小学生デモ弾圧事件などに代表される愚行,圧政のゆえにボカサはしだいに孤立し,フランスの軍事的庇護をも失って,リビア訪問中の79年9月無血クーデタによって打倒され,コートジボアールへ亡命した。代わって政権の座に復帰したダッコはただちに帝制の廃止と共和制への復帰を宣言し,大統領に就任した。

ダッコは1981年2月に新憲法を施行し,同年3月の選挙で政権復帰後2期目の大統領就任となったが,選挙での得票率は低く,首都バンギでは対立候補のそれを下回ったほどであった。結局ダッコの無血クーデタは単にボカサの個人支配を覆し,帝制を廃止したのみで,根本的な変革はなにももたらさなかったのであり,ダッコ政権への支持率が低いのも無理からぬことであった。大統領選挙の直後に首都で反政府デモが起こり,政情は悪化の一途をたどった。その結果,同年9月軍部によるクーデタが起こり,ダッコは再び失脚して,代りにコリンバAndré Kolingba将軍を長とする国家再建軍事委員会が政権を握った。同軍事委員会は憲法を停止して軍政をしいたが,政情は安定しなかった。コリンバは85年9月,国家再建軍事委員会を解散するとともに,自ら大統領に就任,86年11月には新憲法を公布して民政移管を行った。なお新憲法では中央アフリカ民主会議(RDC)の一党制がとられていたが,91年4月コリンバ政権は複数政党制導入を声明した。その結果行われた93年10月の大統領選挙では,アフリカ人民解放運動(MLPC)のA.パタッセが当選した。しかし,96年4月の軍の反乱以降,政情不安が続いている。

労働人口の85%が農業に従事しており,主要産品は重要な輸出品であるコーヒー,木材,ワタをはじめ,トウモロコシ,ラッカセイ,砂糖,キャッサバなどである。森林資源は豊富であり,道路,輸送手段が整備されれば,林業はおおいに発展することが見込まれる。鉱業の比重は小さいが,ダイヤモンドはコーヒー,木材とならぶ重要な輸出品であり,また近年ウラニウム鉱が発見され,中央アフリカ・ウラニウム会社(URCA)によって採掘が開始された。しかし,コーヒーなどの国際価格低迷により,経済は全体として危機的状況にある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「中央アフリカ」の意味・わかりやすい解説

中央アフリカ【ちゅうおうアフリカ】

◎正式名称−中央アフリカ共和国Central African Republic。◎面積−62万2984km2。◎人口−451万人(2010)。◎首都−バンギBangui(54万人,2005)。◎住民−バンダ人27%,バヤ人24%,マンジャ人21%,ウバンギ人12%など。◎宗教−土着宗教60%,カトリック20%,プロテスタント15%,イスラム。◎言語−フランス語(公用語),サンゴ語(国語),ハウサ語など。◎通貨−CFA(中部アフリカ金融協力体)フラン。◎元首−大統領,サンバ・パンザCatherine Samba-Panza(2014年1月暫定政府大統領就任,任期5年)。◎首相−マハマト・カムーンMahamat Kamoun(暫定)。◎憲法−2004年12月の国民投票で新憲法を公布。◎国会−一院制(定員105,任期5年)(2011)。◎GDP−20億ドル(2008)。◎1人当りGNP−360ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−75%(1997)。◎平均寿命−男48.3歳,女52.1歳(2013)。◎乳児死亡率−106‰(2010)。◎識字率−55.2%(2009)。    *    *アフリカ中央部の共和国。フランス領赤道アフリカ時代の旧名はウバンギ・シャリ。国土の大部分が標高600〜1000mの台地で,北東部にボンゴ山地がある。北部をシャリ川,南部のコンゴ民主共和国との国境をウバンギ川が流れる。北緯3°〜11°の熱帯にあり,中央部から北部にサバンナが広がり,南西部の森林地帯は多雨。農業が主で綿花,コーヒー,ラッカセイが主産物。牛の牧畜も行われる。ダイヤモンド,ウランの鉱産があり,ダイヤモンドが主要輸出品。 先住民はピグミーで,19世紀末にフランスが進出してきた。1910年に現在のガボン,コンゴ共和国,チャドとともにフランス領赤道アフリカを構成,1958年フランス共同体内の自治共和国となり,1960年完全独立した。1966年軍事クーデタで実権を握ったボカサは,1972年終身大統領となり,1976年国名を中央アフリカ帝国と改め,1977年には戴冠式を挙行して自ら皇帝を名乗るなど,独裁への道を歩んだ。1979年ボカサのリビア訪問中に前大統領ダッコが無血クーデタを行って帝制廃止,共和制移行を宣言した。亡命したボカサは1986年に帰国し,1987年死刑判決を受けたが,1993年特赦となった。1996年,1997年に国軍の一部兵士による反乱が続発し,1998年国連平和維持活動(PKO)が派遣された。2003年3月クーデタでボジゼ元将軍が権力を掌握し,2005年6月に大統領に就任した。2006年10月ごろから北東部で反政府武装勢力の活動が活発化し,ビオラ等の街を占拠する事件が頻発し,多数の国内避難民が発生。北東部の治安・人道状況改善のため,EU部隊(EUFOR)が派遣され,2009年3月からは国連中央アフリカ・チャドミッションが引き継いだが2010年12月に撤退。2011年1月に大統領選挙及び議会選挙が同時に実施され,ボジゼ大統領が再選された。しかし,2012年12月イスラム系反政府勢力セレカが諸都市を占拠し首都に迫り,2013年1月中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)の仲介により,ガボンの首都リーブルビルにおいて政府及びセレカ等の間で和平交渉が行われ停戦合意及び政治合意等が署名された(リーブルビル合意)。政治合意は,大統領の2016年までの任期までの留任,1年以内の国民議会解散総選挙実施及び選挙のための挙国一致内閣の設立を約した。政治合意に則り,2013年1月17日に野党から首相が選出され,2月3日には挙国一致内閣が成立し,セレカからも閣僚が選出された。しかし,2013年3月,セレカがボジゼ大統領のリーブルビル合意の不履行を理由に武力攻撃を再開。3月23日にはセレカはバンギへ侵攻。3月ボジゼ大統領は国外に脱出,セレカのジョトディア指導者が自ら〈大統領〉就任を宣言し,翌25日ジョトディア氏は記者会見で憲法の無効化,内閣総辞職・議会解散,3年以内に行われる次回選挙まで自らが大統領令により法律を制定,チャンガイ首相の再任,を発表した。2013年4月には国民移行評議会が設立され,ジョトディア氏が〈大統領〉に選出された。2013年7月ジョトディア〈大統領〉により,次回選挙が行われるまでの18ヵ月間有効とされる〈暫定憲法〉が公布された。その後,セレカの兵士たちによるキリスト教徒を狙った虐殺や略奪が繰り返されたため,キリスト教系自警団組織のアンチ・バラカが武装しイスラム教徒の家を焼き払い,殺害するなど本格的な反撃に出て,衝突が激化し宗教対立の様相を見せている。2014年4月国連安保理は,キリスト,イスラム両教徒間の対立で市民の虐殺が続く中央アフリカ共和国で市民を保護するために武力行使を認めるPKOと〈国連中央アフリカ多面的統合安定化ミッション〉を展開する決議案を全会一致で採択した(安保理決議 第2149号)。2014年9月から本格的に活動を開始。2015年4月まで武装集団に武装解除を要求し,〈集団殺害犯罪〉や〈人道に対する罪〉を犯した個人を訴追・処罰する国際刑事裁判所の活動を支援した。国連では国内の戦闘によりすでに40万人の難民が発生しているとしている。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android