朝日日本歴史人物事典 「中川忠英」の解説
中川忠英
生年:宝暦3(1753)
江戸中・後期の旗本。名は忠英。通称五郎,勘三郎。明和4(1767)年家督相続(1000石)。天明8(1788)年目付に就任し布衣を許される。河川普請や伊豆相模などの海浜巡視にも功あり。寛政7(1795)年長崎奉行となり従五位下飛騨守に叙任,以後,勘定奉行(関東郡代兼任),大目付,留守居(役高5000石),旗奉行(5000石足高)と歴任,その間文化8(1811)年の朝鮮通信使応接も勤めている。経済外交畑の実務官僚で,旗本として栄達を極めたにもかかわらず生涯冷飯草履を通し,寛政改革の機運により大田南畝など有為の人材を登用する具眼の士でもあった。文化面での理解も優れ,長崎奉行時代に情報収集して編纂した中国文物図録『清俗紀聞』(1799)は今なお資料性が高い。
(宮崎修多)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報