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中川忠英 なかがわ ただてる

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

中川忠英 なかがわ-ただてる

1753-1830 江戸時代中期-後期の武士,儒者。
宝暦3年生まれ。旗本。寛政の改革では目付としてはたらく。寛政7年長崎奉行,のち勘定奉行,大目付,旗奉行などを歴任。文政13年9月死去。78歳。通称は重三郎,勘三郎。号は駿台。編著に「清俗紀聞」など。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

中川忠英

没年:天保1.9(1830)
生年:宝暦3(1753)
江戸中・後期の旗本。名は忠英。通称五郎,勘三郎。明和4(1767)年家督相続(1000石)。天明8(1788)年目付に就任し布衣を許される。河川普請や伊豆相模などの海浜巡視にも功あり。寛政7(1795)年長崎奉行となり従五位下飛騨守に叙任,以後,勘定奉行(関東郡代兼任),大目付,留守居(役高5000石),旗奉行(5000石足高)と歴任,その間文化8(1811)年の朝鮮通信使応接も勤めている。経済外交畑の実務官僚で,旗本として栄達を極めたにもかかわらず生涯冷飯草履を通し,寛政改革の機運により大田南畝など有為の人材を登用する具眼の士でもあった。文化面での理解も優れ,長崎奉行時代に情報収集して編纂した中国文物図録『清俗紀聞』(1799)は今なお資料性が高い。

(宮崎修多)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の中川忠英の言及

【清俗紀聞】より

…1799年(寛政11)刊。編者中川忠英は徳川家旗本で,1795‐96年(寛政7‐8)長崎奉行に在職中,同地に滞在した清国人から,清国の風俗習慣を詳細に聞きとり,画師に図絵をかかせ,和文で解説を付したもの。年中行事,居家,冠服,飲食,閭(りよ)学,生誕,冠礼,婚礼,賓客,羈旅(きりよ),喪礼,祭礼,僧徒の13巻に分かち,図絵を付して解説してある。…

【長崎奉行】より

…例えば,寛永鎖国令の定着を図った馬場利重,糸割符廃止の黒川正直,市法貿易法制定の牛込重忝(しげのり),定高制・唐人屋敷設定の川口定恒らはいずれも在任10年以上の熟達者で,正徳新例の立役者大岡清相も6年間立案施行にあたり現職中に病没した。幕末には《清俗紀聞》〈長崎覚書〉などの著者中川忠英,シーボルトに鳴滝塾など出島外での活動を許した高橋重賢,フェートン号事件の責を負って自害した松平康英などが有名であるが,収賄事件関係者も少なくない。鎖国直後と幕末には下僚として与力・同心,または出付出役が置かれたが,おおむね家老・用人以下の家臣(給人)が手足となって,町年寄以下の町役人を支配した。…

※「中川忠英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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