パーマストン(英語表記)Henry John Temple,3rd Viscount Palmerston

デジタル大辞泉 「パーマストン」の意味・読み・例文・類語

パーマストン(Henry John Temple Palmerston)

[1784~1865]英国の政治家。1830年から35年間、英国外交の指導的人物として活躍。ベルギーの独立援助など、欧州の自由主義運動を援助し、ロシアの南下阻止、中国への進出、インドインド大反乱弾圧など、英国の利益、特に貿易販路拡大に尽力した。

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精選版 日本国語大辞典 「パーマストン」の意味・読み・例文・類語

パーマストン

  1. ( Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston ヘンリー=ジョン=テンプルサード=バイカウント━ ) イギリスの政治家。一八〇七年トーリー党所属下院議員、一八〇九~二八年陸相。三〇年ホイッグ党に転じ、外相・内相・首相を歴任。自由主義外交を推進した。(一七八四‐一八六五

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改訂新版 世界大百科事典 「パーマストン」の意味・わかりやすい解説

パーマストン
Henry John Temple,3rd Viscount Palmerston
生没年:1784-1865

イギリスの政治家。19世紀中葉のイギリス自由主義外交の指導者として知られる。アイルランド貴族の家に生まれ,ハロー校を経て,エジンバラ大学ケンブリッジ大学に学び,1802年父の死によって襲爵。07年,トーリー党の下院議員として政界に入り,海軍次官(1807-09)を経て19年間も陸相(1809-28)を務めた。この間G.カニングの強い影響をうけ,それが彼の自由主義外交の下地となった。29年,トーリー党からホイッグ党に移り,30-34年,35-41年,46-51年と歴代ホイッグ=自由党内閣の外相を務め,52-55年に内相,ついで55-58年と59-65年の2回にわたって首相を務めた。

 彼の外交は,イギリスの国益擁護を至上の目的とし,世界に冠たる海軍力に頼って他国と同盟せず,ヨーロッパ諸国に対しては勢力均衡を,それ以外のアジア,南北アメリカ,イギリスの植民地に対しては自由貿易の拡大を指向する,というものであった。この見地から,1839年のロンドン条約でベルギーの独立と安全を保障し,イタリアの独立運動には好意的であったが,プロイセンの強大化を喜ばず,そのためにドイツびいきのビクトリア女王からは嫌われた。また,ロシア嫌いであったことも手伝って,東方問題ではトルコの側に立ち,55年から58年にかけてクリミア戦争を指導し,イギリスに勝利をもたらした。一方,ヨーロッパ以外の諸地域に対しては,たとえば中国でのアヘン戦争アロー号事件について見られたように,自由貿易政策の遂行上必要とあれば,武力の行使も辞さず,しばしば高圧的な砲艦外交を行った。国内政治については,労働者階級への選挙権拡大を認めないなど,概して現状をもってよしとする保守主義者であった。後世の歴史家からは,ときに偉大なる平凡人として評価された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パーマストン」の意味・わかりやすい解説

パーマストン(子)
パーマストン[し]
Palmerston, Henry John Temple, 3rd Viscount of

[生]1784.10.20. ブロードランズ
[没]1865.10.18. ブロケットホール
イギリスの政治家。首相(在任 1855~58,1859~65)。エディンバラ大学,ケンブリッジ大学に学ぶ。1807年下院議員,1809~28年陸軍大臣を務めた。トーリー党内の自由主義派であるジョージ・カニング派に属していたため,1830年この派がホイッグ党に合流してホイッグ=自由党内閣が成立した際,その外務大臣となり,それ以後 16年間(1830~34,1835~41,1846~51)外相として,さらに 9年間首相として,イギリスの外交政策を指導した。パーマストン内閣の内政上の業績はウィリアム・E.グラッドストン大蔵大臣(在任 1859~66)の尽力による自由貿易予算に見出される。また外交面では,オランダからのベルギー独立援助(1830~31),スペイン,ポルトガルの立憲君主派支持(1834),ハンガリー,ポーランドなどの民族独立運動(1848以降)に対して同情的な立場をとり,ヨーロッパの勢力均衡維持のために,エジプト事件,クリミア戦争などに巧妙な外交戦を展開した。しかし中国に対してはアヘン戦争によって中国の諸港を開放させ,南京条約によってホンコンをイギリスに割譲させるなどの海外干渉を行ない,さらに長江沿岸,華北の諸港の開放を要求して,アロー戦争を引き起こし批判を受けた。インドにおいてはインド大反乱を鎮圧した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パーマストン」の意味・わかりやすい解説

パーマストン
ぱーますとん
3rd Viscount Palmerston, Henry John Temple
(1784―1865)

イギリスの政治家。アイルランド貴族の家に生まれ、1802年父の死とともに子爵となる。1807年トーリー党員として下院議員となり、1809年より約20年間陸相を務めた。党内自由主義派に属し、1830年にホイッグ党(後の自由党)に合流、グレー内閣の外相を皮切りに、以後30年間外相や首相としてイギリス外交を指揮した。ヨーロッパ大陸では、フランスを牽制(けんせい)し、1832年のベルギー独立達成は、彼の外交の初の輝かしい成果とされた。東方問題では、ロシア、フランスの進出を阻止してオスマン・トルコ帝国の保全を図り、ヨーロッパの勢力均衡維持に努めた。

 一方、中国に対しては1840年のアヘン戦争、1856年のアロー戦争などによって開国と不平等条約を強制し、また、インドでは1857年の大反乱(セポイの反乱)を鎮圧するなど、高圧的な政策をとった。つねにイギリスの国益擁護を前面に打ち出したその外交路線は、多くの国民の人気を博し、死去するまで「オールド・パム」の愛称で親しまれた。

[石井摩耶子]

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百科事典マイペディア 「パーマストン」の意味・わかりやすい解説

パーマストン

英国の政治家。初めトーリー党員で長く陸相(1809年―1826年)を勤めたが,反動政策をきらいホイッグ党に転向。1830年―1851年の間に3度外相。1855年首相となりクリミア戦争に勝利を得,アロー戦争で非難を受けたが,1859年再度組閣し在任中死亡。前後35年にわたり〈自由貿易帝国主義〉の立場で外交を指導,ギリシア独立を承認,南北戦争に中立を守るなど自由主義・国民主義を援助し,海外市場開拓で国民の支持を集めた。
→関連項目ラッセル

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パーマストン」の解説

パーマストン
Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston

1784~1865

イギリスの政治家。アイルランド貴族の出身。1807年トーリ党所属で下院議員となり,陸相(在任1809~28)。1830年以降は,歴代のホイッグ党自由党内閣で外相(在任1830~34,35~41,46~51)を務めたのち,内相(在任1852~55),ついで首相(在任1855~58,59~65)となった。彼の政策は自由主義外交の典型とみなされるが,実情はイギリスの国益至上主義によって貫かれ,自由貿易の遂行に必要な場合には砲艦外交も辞さず,また国内の改革に対しては保守的な姿勢を崩さなかった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パーマストン」の解説

パーマストン
Henry John Temple Palmerston

1784〜1865
イギリスの政治家
トーリー党員として下院にはいり陸相となったが,反動政治にあきたらずホイッグ党に転じ,外相・首相を歴任。イギリス外交を30余年にわたり支配し,大陸の自由主義運動を援助してイギリスの国益拡張につとめ,大いに国民の人気を博した。アヘン戦争で清に5港を開港させ,クリミア戦争ではロシアの進出を抑え,中近東・中国方面にもその勢力をのばした。さらに,インド大反乱を鎮圧し,インドをイギリス直轄領とした。

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デジタル大辞泉プラス 「パーマストン」の解説

パーマストン

《Palmerston》英国外務省付ネズミ捕獲長を務めた猫。黒白柄。2016年4月就任、2020年8月引退。

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世界大百科事典(旧版)内のパーマストンの言及

【ダーウィン】より

…1839年,ビーグル号のストークスが来航し,科学者ダーウィンにちなみ命名した。69年に入植されパーマストンPalmerstonと名付けられたが,1911年に公式にダーウィンと改称された。1872年にアデレードとの間に陸上電信線を敷設。…

【ミュージカル】より

…その後1920年代までは,V.ハーバート,フリムルRudolph Friml,ロンバーグSigmund Rombergなど,ヨーロッパ出身の作曲家によるオペレッタ風の作品と,名目だけの筋で歌や踊りをつないだたわいのない恋愛劇や笑劇が多かった。しかし,J.カーンの曲,O.ハマースタインの詞と台本による《ショー・ボート》(1927。原作はE.ファーバーの小説)によって,現実感のあるミュージカルが誕生した。…

【ロジャーズ】より

…その中には《マイ・ファニー・バレンタインMy Funny Valentine》などの名歌が含まれていた。43年には作詞家オスカー・ハマースタインと新コンビを組み,《オクラホマ!Oklahoma!》(1943),《南太平洋South Pacific》(1949),《サウンド・オブ・ミュージックThe Sound of Music》(1959)など不朽の名作を書いた。【中村 とうよう】。…

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