1830年の七月革命で成立したフランスの王政。オルレアン朝のルイ・フィリップを国王とし,48年の二月革命で第二共和政が実現するまで続いた。社会的には,ようやく軌道にのり始めた資本主義的工業化と,伝統的生活様式や生活習慣との間の緊張が激化してきた時代である。
七月革命の直後,1814年の王政復古に際しルイ18世が欽定した〈憲章〉の修正が行われ,神聖不可侵の世襲王権を規定したその前文は廃止された。議会には法案発議権も与えられ,選挙人の最低年齢は男子30歳から25歳となる。また選挙法により,選挙権取得の最低納税額の制限も,年300フランから200フランに引き下げられた。しかし,国王はなお執行権を統轄しており,議会の解散権も保持し,実権をもった統治者として行動することができた。
31年の総選挙で旧貴族出身の議員は大幅に減少し,地主的性格の強いブルジョアが議会を支配した。また政府は76人の知事,196人の副知事,38人中20人の国家参事会員,ほとんどの外交官,100人前後の司法官,75人中65人の将軍などを解任した。これにより旧貴族層は政治から退場し,多くが地方の城館に帰って農業経営などに力を注ぐことになった。
34年までは,革命で共和政を実現できなかった共和派が,人民の友協会や人間の権利協会などの結社によって政府を攻撃し,政治は激動した。この時期にはストライキ運動も発展し,1831年にリヨンで絹織物工の蜂起が発生した。しかし34年の人間の権利協会の企てた蜂起が失敗し,政府の弾圧が強化されると,政治の激動は終息する。
議会内部で1831年以来ずっと支配的党派となったのはギゾーらを中心とする,左右両翼に対する〈抵抗派〉であった。国王に忠実な彼らが一貫して政権をとり,〈中間階級〉の保守主義的な支配が実現した。金融資本や産業ブルジョアの代表は議会で少数だったが,実際の社会では彼らは実力をたくわえ始めており,議会に自己の政策を押しつけることが可能になっていた。
工業発展の主軸の一つであった木綿工業では,1834年に5000台であった力織機が46年に3万1000台に増大している。だがこの時期には,多くの経営が農民の副業としての農村家内労働力を広範に利用していた。製鉄業では,1830年に全溶鉱炉408のうちコークスによるものは29にすぎず,まだ木炭によるものが圧倒的だった。コークス溶鉱炉は40年から増大し,この年に41であったものが,47年には107となった。これは明らかに鉄道建設に支えられた発展であった。
フランスの鉄道建設が全国的規模で始まるのは1842年である。この年6月に建設のための法律が成立し,国家が土地収用と基礎工事を担当し,私企業はレール,車両の設備と経営費を出すということになった。私企業が鉄道経営にのり出すのにまことに有利なものである。こうして1842年に570kmであった鉄道は,王政末期に1900kmが営業中となる。この背後には,オート・バンクといわれた大銀行が鉄道経営に積極的にのり出したという事実があり,大銀行がこのように産業投資を開始したことは,フランスの工業化が軌道にのり始めたことを示している。
農業生産の変化も徐々に始まっている。休閑地は19世紀の初頭で全可耕地の1/3を占めていたが,1840年に1/4,52年に1/5,82年に1/7となる。いままで休閑地としたところには,飼料作物やマメ科の野菜が作られる。道路網はこの時代に完成の域に達していて,養蚕,染料になるアカネ栽培,小麦とテンサイの輪作など,商品作物の生産も発展し,同様に農業の近代化をもたらす。もちろん,これには地域差が大きい。この近代化の動きで村落共同体による諸権利が解体するが,この諸権利を生活の補充としている小農・貧農層のこれに対する抵抗は,ロアール川以南の諸地域で激しくなり,1848-49年の農民騒擾(そうじよう)の原因の一つとなる。
工業化,農業の近代化,交通網の充実は,人口移動,とくに農村から都市への移動を促進する。たしかに,1821-26年のフランス全人口の増加率が16.2%のときに,各郡の主邑の人口増加率は31%になっている。この増大は近隣の農村からの人口の流入とみなされる。経済不況の際はこうした小さな町から,人口はさらに外国や大都市に流出する傾向にあるという。しかし全体としてイギリスのごとき大量の人口移動現象は,パリのような例外を除くと,まだ発生していない。社会変容の基本的要因は出そろっているのだが,その変容は大量的なものとして出現する一歩手前のところにある。このような緊張をはらんだ時期が七月王政期だといえよう。
しかし変化は徐々に社会に浸透しつつある。例えば教育をとってみると,1833年のギゾー法は,各市町村に小学校が置かれるべきことを定め,各県に一つの師範学校の開設も指示している。農村部ではなかなかこれが実現しないのだが,この法律のおかげで,50年の徴兵適齢者の文盲率は50%から39%に下がったといわれている。このような初等教育制度の発展の背後には,民衆の間に教育への欲求が高まったということがある。とくにパリのごとき大都市の労働者層の間には,1830年代の初めからこれが顕著にみられ,夜間の塾が次々に生まれた。これは資本主義的競争にまき込まれた労働者の間に,有利な職種を求めての労働者間競争が激化してきたことが要因となっている。このようにして社会生活の内容が,教育制度,さらに社会制度一般を頼りにせざるをえないものに変わっていく。
1832年のパリでのコレラの流行は,都市の生活が多くの施設と制度に支えられない限り破滅的になることを明らかにした。そして,37年,工業の進んだ10県の徴兵適齢者1万人のうち,身体虚弱者または障害者が8980人を占めたという数字も知られている。ここでも工場法をはじめとする諸制度に依存する生活に迫られていたのである。
→改革宴会
執筆者:喜安 朗
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フランスで七月革命の結果成立したルイ・フィリップの王政(1830~48)。
[服部春彦]
1830年7月のパリ民衆の蜂起(ほうき)によって復古王政が打倒されたのち、ラフィットを中心とする議会の自由主義政治家は、民衆が望んだ共和国の出現を阻止して、オルレアン公ルイ・フィリップによる七月王政を樹立した。彼らは、国民主権の立場から「1814年の憲章」に修正を加え、ブルボン王権の正統性を説くその前文を削除するとともに、「フランス人の王」の称号や三色旗の採用によって、新しい王政のフランス革命とのつながりを強調した。新憲章はまた、旧憲章が認めていた国王の緊急勅令発布権や上院議員の世襲制を廃止し、国王とともに上下両院にも法律発議権を与えたが、しかし国王はなお執行権の独占をはじめ広範な権限を認められており、国制上、議会の優位が確立されたとはいえない。実際、ルイ・フィリップは、イギリス風の立憲君主たることに満足せず、自ら「君臨しかつ統治する」ことを望んだので、治世の前半には議会や内閣としばしば対立することになった。また、国王、内閣は議会に対する影響力を強化するために、議員への行政ポストの分配によって多数の官吏議員をつくりだしたが、このような行政府と議員の癒着による議会政治の歪曲(わいきょく)は七月王政の一つの特徴であった。しかしこの点にもまして重要なのは、この時期にも厳重な制限選挙制が維持され、国民の圧倒的多数が依然、政治参加への道を閉ざされていたことである。31年4月の選挙法は、下院の選挙人および被選挙人となるのに必要な納税額を若干引き下げたが、しかし選挙権所有者はなお20万人前後(総人口の0.6%)にとどまったのである。
フランスにおける産業革命は19世紀初頭に始まったが、七月王政期はその本格的展開期にあたっている。この時期に綿工業、羊毛工業では、紡績工場への蒸気機関の導入と織布工程の機械化が進み、鉱山・製鉄業でも新技術が急速に広まり、また1823年に始まった鉄道建設も46年には営業キロ数1000キロメートルを超えた。復古王政下の旧貴族にかわって七月王政下に支配階級を形成したのは、ブルジョア地主と大銀行家、大商人、大工業家であったが、政治の主導権を握っていたのは、しばしば金融貴族とよばれる実業大ブルジョアであった。しかし、産業革命の進展とともに繊維工業を中心に中小の産業資本家層が目覚ましい成長を遂げ、彼らは上層ブルジョアの寡頭支配に対して不満を強めるに至る。さらに、大資本の支配の下で貧困の度を強めた伝統的手工業部門の小親方、労働者層は、議会内外の共和主義者と提携して激しい抵抗運動を展開した。
[服部春彦]
七月革命によって政治権力を握ったオルレアン派ブルジョアは、自由主義的改革に積極的な運動派と保守的な抵抗派とに分かれていた。革命後最初に政権を担当したのは運動派のラフィットであったが、社会的騒乱の収拾に失敗して1831年3月解任され、抵抗派のペリエがかわって内閣を組織する。以後48年まで抵抗派は幾人かの首相のもとで政権の座にとどまることになる。31~34年にはリヨンの絹織物労働者の二度にわたる反乱をはじめ、共和派と小市民、労働者による騒乱が頻発したが、抵抗派政府は軍隊を動員して民衆騒乱を厳しく弾圧するとともに、言論、出版、結社に対する統制を強めて反体制運動の抑圧に努め、35年までに上層ブルジョアの支配体制を確立した。ついで36~39年のモレLouis Mathieu, comte Molé(1781―1855)内閣の時代には、国王が政治に積極的に介入するに至る。首相の権限は縮小され、大臣職は国王に忠実な二流の人物によって占められ、議会には政府の意のままに動く多数の官吏議員がつくりだされた。しかしこのような国王の個人統治に対しては、ギゾー、チエールらを中心に議会政治擁護の同盟が形成され、39年3月の下院選挙で政府派を破った。この39年には、経済不況を背景にパリでブランキら革命的共和派の暴動が起こり、選挙権拡大運動が各地で高揚を示した。翌40年には外交面でも首相チエールが東方問題でイギリスに対して強硬策をとり、対イギリス協調を重視する国王と上層ブルジョアの不安を増大させた。このような情勢下に国王は40年10月チエールを解任して、保守派のギゾーに組閣を命じた。
ギゾーは、国王の支持のもとに1847年9月までは外相、その後は首相として政局を担当したが、鉄道会社に対して国庫による資金援助を行うなど大工業、銀行資本の利益を図る一方、選挙権拡大を含む政治・社会改革をかたくなに拒否し続けた。46、47年の経済恐慌は、ギゾー政府に対する中小ブルジョア、労働者、農民の不満をいっそう激化させ、オディロン・バローCamille Hyacinthe Odilon Barrot(1791―1873)らの王朝的反対派は共和主義者と提携して改革宴会運動を展開するに至った。48年に入り、ギゾー政府がこれを禁圧したことから、2月22日パリに民衆蜂起が起こり(二月革命)、七月王政は倒れたのである。
[服部春彦]
『服部春彦「フランス復古王政・七月王政」(『岩波講座 世界歴史19 近代6』所収・1971・岩波書店)』▽『中木康夫著『フランス政治史 上』(1975・未来社)』
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フランスで七月革命によって成立したルイ・フィリップの王政(1830~48年)。政治の大綱は1830年の改正憲章で定められた立憲君主制をとり,財産資格による制限選挙制が維持され,金融業者や大ブルジョワジーが社会の支配的地位を占めた。この時期にフランスの産業革命が本格化し,鉄道建設が始まり,産業市民層の興隆と労働運動の発生がみられた。その結果,48年の二月革命で七月王政は倒れた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…これは七月革命の発生を促す契機となり,蜂起した民衆は共和政の実現を期待した。しかし彼はラフィットやカジミール・ペリエらとともにルイ・フィリップを擁立し,七月王政を樹立させた。 この七月王政下の32年から34年まで,彼は内相となる。…
※「七月王政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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