中野谷村(読み)なかのやむら

日本歴史地名大系 「中野谷村」の解説

中野谷村
なかのやむら

[現在地名]安中市中野谷

上磯部かみいそべ村の南、妙義山東麓に広がる丘陵上にあり、妙義神社に至る道の周辺に発達した村。寛永二年(一六二五)の徳川家光判物(記録御用所本古文書)中谷なかのや(中野谷村)五〇石が旗本小幡直之に与えられた。寛文郷帳によると田方三〇二石余・畑方三三二石余、幕府領が一四五石、旗本河田領一〇四石、石丸領三〇〇石ほか旗本二氏領。江戸後期の御改革組合村高帳では高六三四石余で、幕府領一八一石の家数一〇、旗本石丸領三〇〇石で一一五戸、ほか旗本二氏領の計三七戸。万治四年(一六六一)上磯部村と中野谷村の野地争論の裁断絵図(県立歴史博物館蔵)によると、このとき押印判内は秣場はもちろん新田畑の開発を禁止する旨を定めている。


中野谷村
なかのやむら

[現在地名]美野里町中野谷

園部そのべ川の左岸に位置し、東は鶴田つるた村。中世には大掾氏、天正一八年(一五九〇)より佐竹氏の支配下にあり、慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に中野屋村三七八・八四石とある。正保二年(一六四五)天領、寛文一一年(一六七一)旗本内藤氏知行地、元禄一一年(一六九八)旗本夏目氏知行地と天領になり、同一三年府中藩領となる。同一一年の常陸国茨城郡中野谷村差出帳(額賀家文書)があり、元禄郷帳にも「中野谷村」とみえる。

「新編常陸国誌」には「鶴田中野谷村ト云ヒシニ、正保以後分レテ二村トナル」とあり、正保二年(一六四五)以後と思われる時期に鶴田村より分村した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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