鶴田村(読み)つるだむら

日本歴史地名大系 「鶴田村」の解説

鶴田村
つるだむら

[現在地名]鶴田町鶴田

川内せんだい川中流左岸にあり、同川は北部を西流して流れを南に転じ、さらに再び西へ流れる。南部で西流してきたうら(浦川内川)まえ川が合流する。西は同川を隔て鶴田郷神子こうし村、東は宮之城みやのじよう求名ぐみよう(現薩摩町)に接する。大口と宮之城を結ぶ道が北東から南西へと通る。

宝治二年(一二四八)渋谷一族の薩摩下向の際、渋谷光重の四男重諸(重茂・大谷四郎)が当地に下向して鶴田を称し、渋谷氏系鶴田氏の祖となったとされる。その後同氏により鶴田城(古城)が築かれた。応永年間(一三九四―一四二八)の島津総州家(師久―伊久)と同奥州家(氏久―元久)との争いの際、総州家にくみした渋谷四氏から離れて鶴田重成のみが奥州家と通じた。同八年春総州家伊久の指示で渋谷四氏は萩平はぎのひらに陣を置いて鶴田城を攻撃した。九月五日には鶴田氏支援のため島津元久の軍勢三千五〇〇騎が熊越くまごしに陣し、伊久方の軍は萩平を出て熊越の下まで進んだ。一〇日元久軍は鶴田城に入り、二〇日城兵一千余騎が川を渡り鶚巣たかのすに陣を構え、さらに翌二一日神崎かんざき山にも一部城兵が登った。一方、伊久方は肥後相良氏の助勢を得て善福寺ぜんぷくじ山に陣し、一〇月二五日千町田せんちようだで合戦があった。敗れた重成は菱刈ひしかりに逃れ、元久も同所に退いたという(「応永記」、「島津伊久譜」「島津元久譜」旧記雑録)。この鶴田合戦の戦死者の供養塔(首塚)が鶴田の字町後まちのうしろに残る。

鶴田村
つるだむら

[現在地名]鶴田町鶴田つるた

岩木川中流右岸に位置し、東は山道やまみち村、西は岩木川を境に木筒きづつ村、南は菖蒲川しようぶかわ村、北は亀田かめだ村・強巻こわまき村に接する。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字にある「相原」は、村内の通称田中たなか方面をさす地名と考えられている(鶴田郷土史)

寛文四年(一六六四)の高辻帳に六一六・二石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に二〇〇二・七石とあり、寛文四年以後の新田とされる。貞享四年の検地帳に田方一六二町二反六畝一二歩、畑方二七町二反四畝二〇歩、屋敷二町七反二畝八歩、田畑屋敷合せて一九二町二反四畝(数字は史料のとおり)、村高一五六六・八七六石、漆木二千五七五本、百姓一二一人とある。元禄三年(一六九〇)には広須組に属し、村位は中とあり(平山日記)、宝暦四年(一七五四)広田組に入り、同七年赤田組へ入った(鶴田町誌)

鶴田村
つるだむら

[現在地名]宮田町鶴田

遠賀おんが川支流の犬鳴いぬなき川中流右岸に位置し、北部は低丘陵地となっている。南西は磯光いそみつ村。「つるた」ともいう。村の東端部を長崎街道が通る。中世には紀州高野山金剛三昧こんごうざんまい院領粥田かいた庄の内。永仁元年(一二九三)一一月日の粥田庄預所用米目録案(金剛三昧院文書/鎌倉遺文二四、以下断りのない限り同文書)に「鶴田」とみえ、当地には一町七反の預所給田があり、一二石三斗余が預所用米とされている。建武四年(一三三七)の粥田庄麦作目録(南一)によると、「鶴田郷」には屋形地四段二〇歩があり、この年収穫ができた一段三八代の畠地から三斗五升余の麦年貢が納められている。応仁・文明の乱の最中、粥田庄は少弐政尚の家臣宗茂世によって一円の押領を受けていた。

鶴田村
つるだむら

[現在地名]筑後市鶴田

尾島おしま村・北長田きたながた村の北に位置する。文禄四年(一五九五)の知行方目録に「つる田村」とみえ、高七二九石余。本高は六三六石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高六二〇石・役高七八八石。享和二年(一八〇二)の春免高帳によると高八〇七石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田四三町六反余・開田四町一反余・畑田二町七反余・畑二八町八反余・居屋敷一町余。旧高旧領取調帳では高八七四石余。文化一五年頃、受藪畝二町一反一畝の運上銀一五匁二分二厘一毛、受山畝一町五反三畝の運上銀八匁一分、受野運上銀五分、運上里栗代銀一二匁八分八厘四毛、植立山畝二町一反。

鶴田村
つるたむら

[現在地名]川俣町鶴沢つるさわ

広瀬ひろせ川支流のふもと川・中島なかじま川沿岸に位置し、東は町飯坂まちいいざか村。外縁部は低平な丘陵状の山地。中央を二本松に至る街道が東西に走り、中島の追分碑から福島に至る街道が北行し、小神こがみ秋山あきやまに通じる。「信達一統志」によると、もとは蔓田つるたと書いたが、寛治年中(一〇八七―九四)源義家が当地に陣したとき鶴を放したことにより改めたと伝える。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高三九五石余。

鶴田村
つるたむら

[現在地名]宇都宮市鶴田町・南一の沢町みなみいちのさわまち西一の沢町にしいちのさわまち滝谷町たきやちよう明保野町あけぼのちよう西の宮町にしのみやまち滝の原たきのはら一―三丁目・大和やまと三丁目・睦町むつみちよう

東は西原にしはら村、西は上砥上かみとかみ村。北はやや高く南方が低い平坦な村。近世初期から宇都宮藩領であったが、旧高旧領取調帳では幕府領五八石余・宇都宮藩領一千五八〇石余。慶安郷帳に田方四八〇石余・畑方六九三石余とある。元禄九年(一六九六)宇都宮宿大助郷一七ヵ村の一つとなる(「宇都宮宿助郷帳」上野虎四郎文書)

鶴田村
つるだむら

[現在地名]会見町鶴田

上野うえの村の南東方、高塚たかつか(三〇一メートル)北麓の盆地に位置し、集落は盆地状水田の周辺に輪のように並んでいる。高塚山を水源とする谷奥たにおく川が村の西寄りを、多輪たわ川が東寄りを流れ、村下で合流して谷田たにだ川となり、さらに北流して小野おの(現岸本町)を通って日野川に注いでいる。集落の北西五町ほどの御墓原みはかばら天万てま城主浅野越中守実光の墓と伝える古跡があるが、「伯耆志」はこの伝承を否定している。

鶴田村
つるたむら

[現在地名]弘前市富栄とみさかえ

北は三森みつもり村、南東は蒔苗まかなえ村、西は鼻和はなわ村に接する。

慶長一五年(一六一〇)の弘前築城に際し、堀越ほりこしならびに在々の宮を弘前へ移転しているが、吉田よしだ(現中津軽郡岩木町賀田)付近の鶴田の八幡宮を弘前城下へ移している(永禄日記、平山日記)。この鶴田は当村をさすと思われる。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和郡の新田に「田村」とあり、村高一三二石。万治二年(一六五九)七月一日に長利甚左衛門昌敏が、鶴田・三森・独狐とつこにおいて多数の墾田を開発した功により、弘前藩に召抱えられており(青森県史)、開発が進んでいたと思われる。寛文四年(一六六四)の高辻帳では村高一六三・九石。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高一四七・九九二石、うち田方一二五・三一三石、畑方二二・六七九石。

鶴田村
つるたむら

[現在地名]美野里町鶴田

ともえ川の南側に位置し、北は堅倉かたくら村。低湿地で、仲丸なかまる池から流れる水路に沿って田が開ける。

中世小鶴こづる庄に入り、のち佐竹氏の支配下となる。慶長七年(一六〇二)秋田氏領、正保二年(一六四五)天領となり、同三年の常陸国茨城郡宍戸領鶴田村御検地水帳(本木弘毅氏蔵)がある。元禄一三年(一七〇〇)府中藩領に入り明治に至る。元禄郷帳にも「鶴田村」とみえ、「新編常陸国誌」には「旧中野谷村ト合テ、鶴田中野谷村ト云ヒシニ、正保以後分レテ二村トナル」とみえる。天明三年(一七八三)の乍恐以書附奉願上候事(飯島家文書)に、同年の飢饉の様子や浅間山の爆発による砂降り被害の様子が記される。

鶴田村
つるたむら

[現在地名]真岡市鶴田

五行ごぎよう川左岸にあり、北は飯貝いいがい村・京泉きようせん村、南と東は西田井にしだい村に接する。慶長九年(一六〇四)常陸麻生藩(新庄氏)領。同一三年検地が行われ、高九八石余、反別田九町余・畑一三町一反余とある(「検地帳」和田博夫文書)。同一八年新庄氏は一族直房に三千石を分知し、旗本新庄知行となり、幕末まで続く。慶安郷帳には村名がみえず、元禄郷帳・天保郷帳には西田井村枝郷と注記がある。慶安五年(一六五二)当村および西田井村と飯貝村との間で入会野場をめぐって野境相論が起き、野場が折半された(「野場書付」大塚一郎文書)

鶴田村
つるだむら

[現在地名]挟間町挟間 鶴田

大分川左岸にあり、上市かみいち村の南西に位置する。乾元二年(一三〇三)五月一八日の阿南庄松富名中分状案(大友文書)に「つるたのようさく」とみえる。建武三年(一三三六)にはりきせうが「つるた」の若宮の神畠「つかもとはんふん、元坪一反にしのより」を預かっている(一〇月四日「りきせう預リ状案」同文書)。天正七年(一五七九)八月吉日の阿南庄狭間南方四百貫分覚(甲斐守文書)によると、田村のうち、小南・小つく・つるた・むたのひら・はるが南方分であった。

鶴田村
つるたむら

[現在地名]富山市奥田町おくだまち

神通川右岸、赤江あかえ川の西に位置し、東はくぼ村、北は西上赤江にしかみあかえ村、北西は上奥井かみおくい村。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高四五石、免三ツ五歩。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳によると、親村の稲荷いなり村の北五町にある枝村新田で高八九石余、無家村であった。

鶴田村
つるたむら

[現在地名]酒田市鶴田

上野曾根かみのそね村の西にあり、北は南吉田みなみよしだ村。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高三五八石余。寛永元年庄内高辻帳の高五〇二石余。正保郷帳では田方四八〇石余・畑方二一石余。貞享四年(一六八七)には草刈地の鷹尾たかお山の山札を一五枚所有し、米三斗を納めた(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)。享和三年(一八〇三)の家数三七・人数一六三(「村数家数人高控帳」斎藤文書)

鶴田村
つるだむら

[現在地名]鹿角市花輪はなわ 鶴田

間瀬ませ川下流域左岸の水田地帯で東は高市たかいち村。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高一〇八石四斗余でうち蔵分五七石一斗余、民戸二一軒でうち下川原しもかわら二軒。近世後期の花輪御官所村々郡分高書上帳では高一〇八石余のうち蔵分八〇石一斗余、給人は二人。菅江真澄の「けふのせば布」に「鶴田村の辺になみた河といふめるは、あはぬ夜毎々々を恨み、なかるゝなみたの顔をあらひたるより川の名におへりとも、又いつまて世にすみありつとも、あかおもふ女を見ることこそかたからめとや思ひけん、深き林に入て此男くひれ死けり」とあり、錦木にしきぎ塚にまつわる男女の悲恋伝説を、なみだ川の名の起りに関連づけている。

鶴田村
つるだむら

[現在地名]三条市鶴田

塚野目つかのめ村・大宮おおみや新田の東に位置する。開村年代は不明だが南隣の敦田つるだ村と同時期に、旧五十嵐いからし川河道微高地上に成立した村とみられる。新発田藩領で加茂組に属した。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳に「田村」とあり、一四八石三斗。同七年と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によれば戸数一一・人口五三。

鶴田村
つるたむら

[現在地名]大山町保田やすだ

上万じようまん村の南西にあり、西は日本海に面して、南を妻木むき川が南西流する。初め鶴田村と称し、弘化二年(一八四五)領内限り保田村と改めた(在方諸事控)。拝領高は一八四石余、本免は三ツ九分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二〇一石余、竈数三、天保九年(一八三八)の御巡見様御通行万端袖控(橋井家文書)では家数一六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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