日本歴史地名大系 「鶴田村」の解説
鶴田村
つるだむら
宝治二年(一二四八)渋谷一族の薩摩下向の際、渋谷光重の四男重諸(重茂・大谷四郎)が当地に下向して鶴田を称し、渋谷氏系鶴田氏の祖となったとされる。その後同氏により鶴田城(古城)が築かれた。応永年間(一三九四―一四二八)の島津総州家(師久―伊久)と同奥州家(氏久―元久)との争いの際、総州家にくみした渋谷四氏から離れて鶴田重成のみが奥州家と通じた。同八年春総州家伊久の指示で渋谷四氏は
鶴田村
つるだむら
岩木川中流右岸に位置し、東は
天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字にある「相原」は、村内の通称
寛文四年(一六六四)の高辻帳に六一六・二石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に二〇〇二・七石とあり、寛文四年以後の新田とされる。貞享四年の検地帳に田方一六二町二反六畝一二歩、畑方二七町二反四畝二〇歩、屋敷二町七反二畝八歩、田畑屋敷合せて一九二町二反四畝(数字は史料のとおり)、村高一五六六・八七六石、漆木二千五七五本、百姓一二一人とある。元禄三年(一六九〇)には広須組に属し、村位は中とあり(平山日記)、宝暦四年(一七五四)広田組に入り、同七年赤田組へ入った(鶴田町誌)。
鶴田村
つるだむら
鶴田村
つるだむら
鶴田村
つるたむら
鶴田村
つるたむら
鶴田村
つるだむら
鶴田村
つるたむら
- 青森県:弘前市
- 鶴田村
北は
慶長一五年(一六一〇)の弘前築城に際し、
鶴田村
つるたむら
中世
鶴田村
つるたむら
鶴田村
つるだむら
鶴田村
つるたむら
鶴田村
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鶴田村
つるだむら
- 秋田県:鹿角市
- 鶴田村
鶴田村
つるだむら
- 新潟県:三条市
- 鶴田村
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つるたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報