久能村(読み)くのうむら

日本歴史地名大系 「久能村」の解説

久能村
くのうむら

[現在地名]総和町久能

葛生かずろう村の西に所在。東端長井戸ながいど(現在は水田)西枝、西端を釈迦しやか(現在は水田)東枝が南北に通る。南と北は台地。南部は平地林であったが現在は北利根工業団地になっている。西部の字西原にしはらにある西原遺跡からは弥生土器片が出土。古墳は長井戸沼西枝を望む台地上に散在。向原むかいはら古墳群は三基からなり、うち一基は前方後円墳で、短直刀一振が出土。他は円墳。字東沼ひがしぬまのべったりづか古墳も前方後円墳。香取西かとりにし遺跡、林割はやしわり遺跡は古墳時代のもの。

村内に陣場じんば正陣場しようじんばの地名があり、口伝によると天慶三年(九四〇)に平将門と藤原秀郷が対陣したところという。

久能村
くのうむら

[現在地名]御代田町豊昇ほうしよう

川渓谷の段丘上にあり、東南森泉もりずみ(一一三五メートル)平尾ひらお(一一五五メートル)をめぐらせ、西は面替おもがい村、対岸川の断崖上は草越くさごえ村・広戸ひろと村である。

式内社という説のある小田井の長倉おたいのながくら神社は、村域の宮平みやだいら地籍から移されたとも伝え、そこからは祭祀関係遺物を出土し、付近に御所平ごしよだいら御堂みどういり大祝おおほうり(大棒木)小祝こほうり(小棒木)等の地字名を残す(長野県町村誌)

文禄四年(一五九五)の御郡中永楽高辻(大井文書)には「九貫六百八拾四文 久能村」とあり、元禄一四年(一七〇一)まで小諸こもろ領、同年より幕府領となる。寛永一七年(一六四〇)小諸領高〆之帳(小山佐一氏蔵)には「高拾三石四斗八升 内田方弐石七斗壱升七合 畑方拾石七斗六升三合」とあって、畑優越地であることを示し、時代は下るが、明治一一年(一八七八)に至っても米二一六石余に対し雑穀(大豆・蕎麦・黍の順)一四七石余の生産となっている(「北佐久村内概況調書」北佐久郡志)

久能村
くのうむら

[現在地名]富里町久能

根木名ねこな川左岸、日吉倉ひよしくら村の南東に位置し、西側に佐倉牧の一つ内野うちの牧が広がる。天正一八年(一五九〇)一〇月の松平伊昌知行書立に久濃村とみえ、伊昌の知行地二千石のうちとなっている。慶長九年(一六〇四)検地帳(藤崎家文書)には香取郡印東いんとう庄とあり、当時は香取郡に属し佐倉藩領。「寛文朱印留」でも同藩領で、幕末まで同じ。ただし切添新田は幕府領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二〇三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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