久高村
くだかむら
久高島にある村で、集落は島の南西部に立地する。もとは一ヵ島で一ヵ村であったが、集落内の道をもって二分、西部を久高村、東部を外間村としたという。「おもろさうし」巻二二の三一に「くたか」とある。正保国絵図に「知念間切之内 久高嶋」とみえ、「人居有」とある。また知念浜より久高島まで海上一里とあり、海路とみられる朱線が島の南西部まで描かれるが、「船かゝり不成」と記される。絵図郷村帳に知念間切内として久高島とある。琉球国高究帳でも同様で、畠方八七石余とある。当村の地頭は康熙一二年(一六七三)より同一三年まで向氏九世の向応伯久高親雲上朝盛で(向姓湧川家家譜)、同四三年には呉昭摸久高親雲上幸通が任じられている(呉姓久高家家譜)。なお同二九年久高一門に恵姓が与えられたという(「恵姓系統誌」知念村史)。また一門の女子は古くは「首里大あむしられ」、のちには「根神あむしられ」(根神阿母志良礼)を世襲した(女官御双紙)。里積記に久高・外間二ヵ村とあり、諸村位定では畠下。雍正七年(一七二九)の島尻方取納座定手形(琉球産業制度資料)に知念間切久高村とあり、重出米一六六石余(すべて畠方)のうち久高里主所一九石余・久高外間掟八石余・久高ノロクモイ四石余・百姓地一〇七石余など。
久高は地面狭悪のため耕作がなりがたく、楷船(ケーシン)・馬艦船の加子役を勤めてきたので、嘉慶一九年(一八一四)より夫役銭が免じられている(琉球産業制度資料)。その耕地もほとんどは女手に委ねられ、男は海を生業の舞台とした。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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