日本歴史地名大系 「亀ヶ谷」の解説 亀ヶ谷かめがやつ 神奈川県:鎌倉市扇ヶ谷村亀ヶ谷「かめがへ」「かめがいのやつ」「かめがや」ともいう。現在の扇(おうぎ)ガ谷地域の古称で、小字清水(せいすい)ヶ谷・多宝寺(たほうじ)ヶ谷・泉(いずみ)ヶ谷・藤(ふじ)ヶ谷・勝遠寺(しようえんじ)ヶ谷・法泉寺(ほうせんじ)ヶ谷・清凉寺(しようりようじ)ヶ谷・梅(うめ)ヶ谷・御前(ごぜん)ヶ谷などを包含した総称。「玉舟和尚鎌倉記」には、梅ヶ谷・扇ヶ谷・雪下(ゆきのした)ヶ谷・弁(べん)ヶ谷・花(はな)ヶ谷・佐々目(ささめ)ヶ谷とともに鎌倉七谷の一つという。鎌倉市の公図では扇ガ谷の一小名となっている。地名は近くにある鶴岡の対語としてつけられたと思われ、謡曲「鶴岡」に「緑毛の亀ケ谷、丹頂の鶴ケ岡」とある類と思われる。ただし、「空華文集」には「相之西南、有山隆起者曰亀、蓋其形肖焉」とあり、隆起した山の形が亀に似ているからであろうとし、「寿福寺略記并諸寮地名記」は「亀谷山者、当地之中央也、名曰源氏山」と伝えて、亀谷山は源氏(げんじ)山であるとする。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一〇月七日条に、「左典(源義朝)厩之亀谷御旧跡」とあり、鎌倉に入った源頼朝が都市設営の一環として村里に号を授けたのは、この年一二月のことであるから、亀ヶ谷は頼朝入鎌以前からの地名である。以下同書には翌養和元年(一一八一)三月一日条では頼朝の亡母忌を土屋次郎義清の「亀谷堂」で営んだこと、正治元年(一一九九)五月七日には、頼朝の娘乙姫(三幡)の病状を診察にきた針博士丹波時長が「掃部(中原親能)頭亀谷家」から畠山重忠亭に移ったこと、六月三〇日に乙姫が没すると遺骸を親能の「亀谷堂」の傍らに葬ったこと、翌正治二年閏二月一二日、北条政子の祈願で寿福(じゆふく)寺建立のため「亀谷之地」を選び、翌日から造営を始めたこと、建仁二年(一二〇二)一月二九日には、将軍頼家が親能の「亀谷宅」で蹴鞠を行おうとして政子に諫止されたこと、八月二四日「亀谷辺」が騒動、一二月一九日には、頼家が「亀谷辺」で落馬して古井戸に落ちたことなどが知られる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by