乙姫 (おとひめ)
元来は姉の姫(兄姫(えひめ))に対する妹の姫(弟姫(おとひめ))を指す呼称。《古事記》に〈三野国造の祖,大根王の女,名は兄比売,弟比売の二人の嬢女(おとめ),其の容姿麗美(かたちうるは)しと聞し定めて〉とある。また末の姫とか,年若く美しい姫の意がある。竜宮に住むという〈乙姫〉や,説経《信徳丸》に出てくる〈乙姫〉のように固有の名となっているものもある。説経《信徳丸》の乙姫は和泉国近木荘の長者の娘だが,癩に冒されて姿を消した信徳丸をたずねて,一転して巡礼姿に身をやつし熊野街道を往還する。やがて天王寺の引声堂(いんぜいどう)の縁の下で盲目の信徳丸と劇的な対面をし,絶望する信徳丸を肩にかついで救出する。熊野と天王寺は観音めぐりの拠点で,この乙姫の姿には,あるき巫女の姿が重なり,さらに観音のイメージが強く投影している。乙姫は後に清水観音の夢告によって鳥掃という呪具を得,それで信徳丸の体をなでて病を治すが,乙姫のような女性像の前身には《元亨釈書(げんこうしやくしよ)》にのる光明皇后の垢摺(あかすり)供養伝説が考えられる。湯施行(ゆせぎよう)を始めた皇后の前に1人の癩人が現れ,体のうみを吸いとってくれと願う。皇后がそのうみを吸いとったところ癩人は阿閦(あしゆく)如来となり,毛穴から光明を発して空へ上っていったというもの。これは湯施行の功徳と高貴な女性の慈愛の深さを示す宗教的な試練譚であるが,《信徳丸》の乙姫は社会の最底辺に生きる救いのない者に献身的な愛情を傾ける巫女的な存在であり,女性像の歴史を考えるうえで,貴重な手がかりといえよう。
→信徳丸
執筆者:岩崎 武夫
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乙姫
おとひめ
本来は,兄姫 (えひめ) が姉の姫をさすのに対して,妹の姫をさす弟姫 (おとひめ) を意味する言葉であった。一般にそのような名で呼ばれる女は,おおむね若くて美しい姫のように受取られて,しばしば竜宮に住む者とみられている。特に浦島伝説によって「竜宮の乙姫さま」という名が最もよく知られている。古来の記録を通じて,この浦島と称する者が海中の異郷を訪れたことは繰返し取上げられているが,『日本書紀』の雄略天皇二十二年の条では,大亀の化した女に従って海中の蓬莱国 (とこよのくに) にいたったといい,『丹後国風土記逸文』では五色亀の化した女に導かれて海中博大之島にいたったといい,『万葉集』巻九では,海若 (わたつみ) の神の女 (おとめ) と連れ立って,常世 (とこよ) の神の宮にいたったというように,いずれも「竜宮の乙姫さま」という形はとられていない。御伽草子の『浦島太郎』になると,亀の化した女に連れられて,この女の故郷におもむいたというのであるが,この故郷にあたるものが明らかに「竜宮城」と呼ばれながら,その主である女がただちに「乙姫さま」とは呼ばれていない。それにもかかわらず現行の昔話や伝説によると,浦島太郎という者が亀を助けてやったので,竜宮に迎えられて,乙姫さまにもてなされたと伝えられている。そのほかに「海月 (くらげ) 骨なし」または「猿の生肝」という昔話では,竜宮の乙姫さまが重い病気にかかったので,その治療のために猿の生肝を求めた,というように語られている。また,「機織淵 (はたおりぶち) 」の伝説では,しばしば深い水の底で,やはり竜宮の乙姫さまがしきりに機を織っていたとも伝えられる。これまでの民俗学の研究によると,もともと水神に仕える巫女であった者が,次第に水神そのものとみられたために,ついには竜宮の乙姫と呼ばれるようになったと考えられる。
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乙姫
おとひめ
伝説昔話「浦島太郎」の女主人公。竜宮城の美女。浦島が亀(かめ)の報恩によって海底を訪問した際に接待をした。昔話「猿の生き肝(海月(くらげ)骨なし)」でも竜宮の主(あるじ)としているし、伝説「機織淵(はたおりぶち)」でも水底で機織りをする。これらは水神に仕える巫女(みこ)が、水神そのものに変化したもの。姉に対する弟姫(おとひめ)(末娘)が原義。弟日姫子(おとひめこ)に同じ。
[渡邊昭五]
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乙姫
竜宮城に住む海神の娘乙姫は,よく知られているが,姉妹のうち妹姫をさしたり,末の姫という場合もある。年が若く美しい女性の意味がこめられている。海神の娘が住む竜宮城は,海底にあり,陸上の住民にとっては異界である。そこを訪れた浦島太郎は,乙姫と結ばれるが,結局は別れる運命にある。海神は竜神であり,乙姫が人間界にくれば蛇身の姿にならざるを得ないのである。説経節「信徳丸」に出てくる乙姫は長者の娘で,癩に冒され,盲目となりさすらう信徳丸を看護して救った。ここでは,病気を治す,呪的な力を持つ若く美しい女性のイメージがあり,旅の巫女がひとつのモデルとなっている。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
乙姫 おとひめ
昔話・伝説の登場人物。
兄姫(えひめ)に対する妹,弟姫(おとひめ)が本来の意味とされる。昔話の「浦島太郎」「猿の生き肝」では竜宮城の美しい姫として,また説経浄瑠璃(じょうるり)「信徳丸」では長者の娘として登場する。
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世界大百科事典(旧版)内の乙姫の言及
【信徳丸】より
…古説経の一つで上中下の3巻から成る。河内国高安郡信吉(のぶよし)長者の一子信徳丸は,継母の呪いを受けて癩になり,天王寺の南門念仏堂に捨てられるが,いいなずけの[乙姫]の献身と清水観音の利生(りしよう)によりもとの身によみがえるというのがその内容である。天王寺西門(さいもん)の前の引声(いんぜい)堂(念仏堂)や後(うしろ)堂にたむろした説経師によって語られたもので,業病におかされた信徳丸を抱きとり,天王寺七村を袖乞い(そでこい)する乙姫の姿は最も印象に残る。…
【玉手御前】より
…河内の国主の後妻で,嫡子俊徳丸に恋慕し,かなわぬと毒酒をすすめて癩病にしてしまった玉手御前は,不義を怒った父に刺されて死ぬ間際に,実は妾腹の兄の陰謀から俊徳丸を守るための策であったことを語り,みずからの生血を飲ませて俊徳丸の病をなおす。玉手の人物像には,説経《[信徳丸]》の乙姫や《[愛護若](あいごのわか)》の雲井の前のイメージが重なっている。継母の呪いを受けて業病にかかった信徳丸を献身と庇護の愛によってよみがえらせた乙姫の巫女的な力と,愛護の若に継母でありながら激しく恋慕し,死後大蛇となってその思いをとげた雲井の前の執念とが,玉手のなかに生かされて,矛盾しながらも,きわどく統一された女性像として形象されている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」