朝日日本歴史人物事典 「二条定高」の解説
二条定高
生年:建久1(1190)
鎌倉中期の公卿。為定,経光とも名乗った。父は参議九条光長。母は兵部大輔藤原朝親の娘。兄の民部卿海住山長房の猶子となる。建久9(1198)年に六位蔵人となり,以後近江,伊賀,越後,肥前の守を歴任。承元3(1209)年兄長房の譲りを受けて右少弁に。弁官を昇進して建保2(1214)年には蔵人頭右大弁。このころ安房国(千葉県)を知行国にしていた。4年後に参議に任じて公卿に列し,承久2(1220)年に権中納言。父や兄にならって九条家に出仕し,後鳥羽上皇にも仕えた。承久の乱(1221)後に九条道家が実権を掌握すると重く用いられ,幕府との直接の交渉を排他的に行った。実質的には関東申次であった。また道家の政治顧問の最上位を占めた。暦仁1(1238)年,病を得て出家。二条東洞院に屋敷があったため,二条と号した。また深草にも邸宅を持ち,ここに後鳥羽天皇の皇女で斎宮を務めた煕子内親王を引きとっている。
(本郷和人)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報