古代・中世,律令制の国のうち,国司以外の公卿・廷臣や社寺等が吏務(りむ)(支配・統治の実務)の実権をもつ国。沙汰国,給国ともいい,吏務の実権をとる者を知行主とか国主という。
律令制の地方統治制度である国司制度がしだいにくずれ,国守(=受領)の地位が利権化する一方,公卿・廷臣らの俸禄制度が無実化するにともない,11世紀中ごろから公卿の子弟を諸国の守に任命し,その公卿に吏務の実権をとらせ(これを知行とか沙汰という),その間に収益を得させることがしだいに慣例となった。とくに院政時代に入ってこうした例が急増し,上は摂政・関白から,下は四,五位の廷臣に至るまで普及し,摂関のごときは一時に2,3ヵ国を知行することも珍しくなくなった。なお平安末期の《大槐秘抄》に,〈近代の上達部(かんだちめ),おほく国を給はり候は,封戸なきがする事なめり〉という有名な一句があり,これによって,知行国は封戸制の代替であるとする説もあるが,両者は規模も性格もまったく異なり,代替関係の生ずる可能性はない。ついで平家全盛期には,30余ヵ国が平家一門の知行国になったといわれたが,これもあながち誇張ではない。さらに鎌倉幕府が起こるや,東国を中心とする9ヵ国が将軍家知行国となり,やがて関東御分国とよばれて固定した。そのほか,東大寺の知行国周防のように,造営料所として社寺に与えられたものもあった。かくて後鳥羽院政下の1215年(建保3)には,全国66ヵ国中,34ヵ国以上が知行国で占められていたことを示す記録もある。
知行国は,同じく皇族・公卿らの給与や俸禄を補うために創出された年給制,あるいは上皇・女院や皇后宮・中宮などに料物を納めるべき国として院分とか中宮分などと指定された院宮分国制のような,表向きの制度ではなく,いわば“朝廷の私事”であったから,その事例を求めるには,国司以外の者が某国の吏務を〈知行す〉〈沙汰す〉というような字句,あるいはその事実を示す記述を文献に見いだして判断するほかない。しかし鎌倉時代の記録には,〈某国の国務を行はしめ給ふべし〉とか,〈某国を知行せしめ給ふべし〉という綸旨(りんじ)や院宣が散見し,知行国もしだいに公式の制度と認められるようになった。
1111年(天永2)因幡国の知行国主となった藤原宗忠が,近代公卿の子弟を受領に任ずるのは朝恩によるものだと喜んでいるように,一般公卿が知行国主の場合は,その子弟・近親を国守に任ずる例が多く,摂関あるいは前摂関の場合は,その近臣または姻戚等を国守に推挙するのを例とした。その知行国主の立場は,尾張国を知行した関白藤原忠実が,〈関白・太政大臣にして受領を兼ねる〉ようなものだと自嘲したように,通常の受領と異なるところがない。しかし多くは目代を派遣して吏務をとり,封物・納官物等を進済する一方,それ以外の吏務にともなう収益を得分としたものと思われる。また院宮分国が知行国にあてられた例も,平安・鎌倉時代を通じて見受けられるが,その場合,知行国主は分国主に対し,料物徴納その他の財力奉仕の義務を負ったものと考えられる。
知行国主が吏務をとるのは,当然その国守の任期の間に限られるが,成功(じようごう)などの手段により国守の延任・重任を図り,知行国主の地位を持続するのが普通になった。さらに鎌倉時代に入ると,伊豆・相模両国が源頼朝の永代知行国とされたのをはじめ,一条家の土佐,中院家の上野,西園寺家の伊予,あるいは東大寺の周防などのように,一家一寺で特定の国を相伝知行する例もしだいに多くなった。一方,院宮分国においても,持明院統の播磨国のごとく,〈諸国相伝の法〉が一般化した。こうして知行国と院宮分国を合わせてほぼ全国をおおいつくす状況のなかで,両者は同質化と私領化の道をたどりつつ,室町時代末に及んで消滅したのである。
執筆者:橋本 義彦
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律令(りつりょう)制の国のうち、国司以外の公卿(くぎょう)や社寺などに行政・支配の実権を与え、その国の収益を得させる制度。沙汰(さた)国、給国(きゅうこく)などともいい、これを与えられた公卿らを知行(ちぎょう)主とか国主という。
律令制の地方行政制度である国司制度がしだいに崩れ、国守の地位が利権化する一方、公卿以下官僚貴族の俸禄(ほうろく)制度が無実化するに伴い、11世紀中ごろから、公卿の子弟を諸国の守(かみ)に任命し、その公卿に行政・支配の実権(吏務(りむ)とか知行、沙汰などという)をとらせて収益を得させることが、しだいに慣例となった。これは同じく皇親・貴族の給与や俸禄を補うための年給(ねんきゅう)制や院宮分国(いんきゅうぶんこく)制のように表向きの制度ではなかったが、院政時代に入って急速に発展し、上は摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)から、下は四、五位の廷臣にまで普及し、摂関のように一時に2、3か国を知行する者も現れ、平家全盛期には30余か国が平家一門の知行国となったといわれたが、さらに造営料として社寺に与えられたものや、将軍家知行国もおこり、1215年(建保3)には、全国66か国中、34か国以上が知行国であったことを示す記録もある。
知行国を与えられた知行主は、一般公卿の場合はその子弟・近親を国守に推挙し、摂関あるいは前摂関などの場合はその近臣を申任する例が多い。知行主の立場は、尾張(おわり)国(愛知県)を知行した関白藤原忠実(ただざね)が「関白、太政(だいじょう)大臣にして受領(ずりょう)を兼ぬ」(『殿暦(でんりゃく)』)と自嘲(じちょう)したように、一般受領すなわち国守と同じで、多くは目代(もくだい)を派遣して吏務をとり、封物、納官物などを進済する一方、それ以外の収益を得分(とくぶん)とした。なお、同じく院政時代以降急増した院宮分国(上皇、女院(にょいん)や皇后宮などに料物を納める国として、院分とか皇后宮分と指定されたもの)が知行国にあてられた例も少なくないが、その場合は、知行主は納官物などのうちから分国主に料物を進納したと考えられる。
知行主が吏務をとるのは、当然その国守の任期の間であるが、これも一般受領と同じく、成功(じょうごう)などの手段によって延任、重任(ちょうにん)するのが普通となり、さらに鎌倉中期以降は、一条(いちじょう)家の土佐(とさ)(高知県)、中院(なかのいん)家の上野(こうずけ)(群馬県)、西園寺(さいおんじ)家の伊予(いよ)(愛媛県)、あるいは東大寺の周防(すおう)(山口県)などのように、一家一寺で特定の国を世襲的に相伝知行する例が多くなり、また知行国と院宮分国をあわせてほとんど全国を覆い尽くす状況のなかで、両者は同質化し、私領化と荘園(しょうえん)化の道をたどりつつ、室町時代末に及んだ。
[橋本義彦]
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国守(こくしゅ)となることがはばかられる公卿や高位身分の者に国の知行権(支配権)を与え,収入を得させることを目的とした制度。律令国司制度の変形であるとともに,一種の封禄制度とみなすことができる。平安中期頃に始まり,院政期に急速な進展をみせ,平氏政権下や鎌倉時代になると平氏一族や将軍に多数の知行国があてられた。知行国を賜与された者は国主とか知行国主とよばれ,子弟や側近を国守に申任し,守(かみ)や私的に派遣した目代(もくだい)を介して知行権を行使し,収益をあげた。知行国の早い例には,1021年(治安元)に大納言藤原実資による伯耆国がある。知行国は寺に与えられることもあり,室町時代にまで及んだ。
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