五町田村(読み)ごちようだむら

日本歴史地名大系 「五町田村」の解説

五町田村
ごちようだむら

[現在地名]高根町五町田

八ヶ岳の南麓、標高七〇〇―七六〇メートル付近に位置。東は村山西割むらやまにしわり村、南は上黒沢かみくろざわ村。村の中央でかぶと川とあぶら川が合流する。地名は産土神熱田あつた明神の神田五町余があったことにちなむという(甲斐国志)。慶長六年(一六〇一)検地帳(県立図書館蔵)三冊のうち残る二冊によれば、上田八反余・中田三町六反余・下田四町四反余・下々田四町一反余、上畑三反余・中畑一町余・下畑二町七反余・下々畑八反余、熊蔵荒田畑五町七反余。慶長古高帳に五丁田とあり、高一九六石余、三枝土佐知行、ほかに大明神(熱田神社)領六斗五升。延宝七年(一六七九)の検地帳(県立図書館蔵)では高三〇七石余、反別は上田九反余・中田三町七反余・下田七町八反余・下々田一〇町八反余・山田一町三反余、上畑二反余・中畑一町六反余・下畑六町八反余・下々畑九町二反余・山畑五町一反余、屋敷数五七。


五町田村
ごちようだむら

[現在地名]東村五町田

千沢せんざわ川を挟んで箱島はこじま村の西に位置し、南部東側は岡崎新田おかざきしんでん村。吾妻川南岸からほぼ南に長く延びる。古くは箱島・岡崎新田一村で南箱島と称したという。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると幕府代官岡上(岡登)次郎兵衛景能支配で高二六七石。寛文郷帳では田方六六石余・畑方二〇〇石余。元禄郷帳でも幕府領で、江戸後期には旗本榊原領で家数六三(御改革組合村高帳)。三国街道吾妻川のもくばし(現渋川市)の関所付村の一村で(延享二年「杢ヶ橋仕来書上帳」群馬大学付属図書館蔵)、三国脇往還が利用される際は臨時の大通行に限り箱島村に人馬を差出した(宝暦七年「荷物継送出入和解証文」田中文書)


五町田村
ごちようだむら

[現在地名]麻生町五町田

霞ヶ浦に面する平地の村で、北は五町田荒宿ごちようだあらじゆく(現玉造町)。五町田新宿しんじゆくに対して五町田古宿ふるじゆく呼称があり(新編常陸国誌)、もと船子ふなこ村の枝郷近世に入って独立、麻生藩領になったと伝えられる。享保七年(一七二二)の「熊野三社三山勧化御領内百姓並びに寺方よりの差出受数」(三好家文書)によれば、熊野三社勧化差出高は人数二六三人で銭二七一文。明和七年(一七七〇)干損のため稗七〇俵と種籾代金九両余を一五年賦で麻生藩より拝借した(「麻生日記書抜」三好家文書)


五町田村
ごちようだむら

[現在地名]塩田町大字五町田字五町田

現塩田町の中央部に位置する。東は真崎まつざき(→大牟田村、南は谷所たんどころ村、西および北は馬場下ばばしも村に境している。「藤津郡村誌」には「東西二十五丁、南北十五丁」とある。正保絵図に村名がみえ、蓮池はすのいけ支藩領に属す。明治四年(一八七一)美野みの(濃)村・五丁ごちよう(町)村・ふくろ村を合して五町田村と称した。

現五町田に大黒丸屋敷跡といわれる所があり、宝篋印塔一基が立っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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