麻生藩(読み)あそうはん

藩名・旧国名がわかる事典 「麻生藩」の解説

あそうはん【麻生藩】

江戸時代常陸(ひたち)国行方(なめがた)郡麻生(現、茨城県行方市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は精義(せいぎ)館。関ヶ原の戦いで西軍に属したため摂津(せっつ)国領地を没収されていた新庄直頼(しんじょうなおより)が、許されて徳川家康(とくがわいえやす)に召し出され、1604年(慶長(けいちょう)9)に3万石を賜って麻生に陣屋を設け、立藩した。76年(延宝(えんぽう)4)に継嗣(けいし)がなくなって一時改易(かいえき)されたが、1万石で再立藩、以後明治維新まで10代続いた。1871年(明治4)の廃藩置県で麻生県となり、その後、新治(にいはり)県を経て75年茨城県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「麻生藩」の意味・わかりやすい解説

麻生藩
あそうはん

常陸(ひたち)国(茨城県)行方(なめがた)郡に置かれた外様(とざま)藩。新庄直頼(しんじょうなおより)は1604年(慶長9)常陸国行方、河内(かっち)、新治(にいはり)、真壁(まかべ)、那珂(なか)、下野(しもつけ)国(栃木県)芳賀(はが)、都賀(つが)、河内(かわち)の8郡内に3万300石を与えられ、行方郡麻生を本拠とした。1674年(延宝2)3代直好のあと実子直矩(なおのり)が跡を継ぐが、養子直時は常陸鹿島(かしま)郡内に7000石を分知される。2年後直矩が嗣子(しし)なく没すると、直時が1万石の大名として新庄家を継ぐ。麻生を中心に、飛地(とびち)をあわせ24か村を支配し、1871年(明治4)の廃藩まで続いた。

[佐久間好雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「麻生藩」の意味・わかりやすい解説

麻生藩
あそうはん

江戸時代,常陸国 (茨城県) 行方郡麻生地方を領有した小藩。慶長9 (1604) 年新庄直頼が3万 3000石を領して立藩。孫直矩に嗣子なく延宝4 (76) 年いったん除封となったが,遠縁の直時が1万石で再封し,子孫が廃藩置県まで在封した。外様,江戸城柳間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「麻生藩」の解説

麻生藩

常陸国、麻生(現:茨城県行方市)周辺を領有した外様藩。藩主は新庄氏。

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