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武田信虎 たけだのぶとら

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

武田信虎
たけだのぶとら

[生]明応3(1494)/明応7(1498)
[没]天正2(1574).3.5. 信濃,高遠
戦国時代の武将。信縄の子。永正4 (1507) 年父の死により家督を継ぐ。同 16年本拠を石和 (いさわ) から躑躅ヶ崎 (つつじがさき) 館に移し,領国内の統一に努め,甲斐における武田氏勢力の基を築いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

武田信虎 たけだ-のぶとら

1494-1574 戦国-織豊時代の武将。
明応3年1月6日生まれ。武田信縄(のぶつな)の長男。甲斐(かい)(山梨県)の守護。一族間の抗争をおさえ甲斐国内を統一,府中(甲府市)に城下町を建設,今川氏や北条氏などの近隣諸国へ侵攻した。天文(てんぶん)10年嫡子信玄により娘婿今川義元のもとへ追放され,放浪ののち天正(てんしょう)2年3月5日信濃(しなの)(長野県)高遠で没した。81歳。幼名は五郎。初名は信直。

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朝日日本歴史人物事典の解説

武田信虎

没年:天正2.3.5(1574.3.27)
生年:明応3(1494)
戦国時代の武将。甲斐国(山梨県)守護信縄の長男。初名信直。左京大夫,陸奥守。永正4(1507)年家督を継ぐ。当時武田家では,信縄の弟油川信恵が家督を狙い争いが絶えなかったが,信直(信虎)は翌年10月に信恵を倒した。次いで都留郡の小山田氏を攻めるが,同7年に姉を小山田信有に嫁がせて和平し,国内の安定を図った。同16年8月には平坦部で防御しにくく,水害も受けやすかった石和から躑躅ケ崎に居館を移し,家臣を城下に集めて現在の甲府の基を築いた。名を信虎と改めるのは,こののち大永1(1521)年のことである。天文1(1532)年までには反対勢力の有力国人も一掃し,甲斐統一を成し遂げている。大永7年に信濃佐久郡へ出兵し,天文5年には今川氏の家督争いに関与して駿河に出兵,娘を義元に嫁がせている。また同9年には別の娘を諏訪頼重(南北朝時代の頼重とは別人)の妻とし,同盟を図った。領国内では,一時に多くの文書を発行できる印判状を用いて支配体制を確立。これに対し信虎の専制化を恐れる家臣たちは同10年長男晴信(信玄)を担ぎ出し,6月,信虎は駿河今川氏のもとへと追放される。義元没後はその子氏真との間に不和が生じ,永禄6(1563)年以後上京して,将軍足利義輝の相伴衆となった。81歳で信濃高遠にて没。『甲陽軍鑑』で喧伝された暴虐非道のイメージが強いが,戦国大名武田氏発展の基礎を築いた名将である。<参考文献>広瀬広一『武田信玄伝』

(笹本正治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

武田信虎
たけだのぶとら
(1494―1574)

戦国時代の武将。甲斐守護武田信縄(のぶつな)の長男。名ははじめ信直。左京大夫・陸奥守を称した。1507年(永正4)、父信縄の死により、14歳で家督を継いだが、信縄の弟油川信恵(のぶしげ)と家督をめぐって争い、さらに一族で、国人領主の大井氏・今井氏らとも抗争を繰り広げた。しかし信虎は、1532年(天文1)頃までにはほぼこれを征圧、甲斐の統一を果たした。1519年(永正16)には居館をそれまでの石和(いさわ)から躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移し、駿河出兵、信濃出兵など他国への侵攻にも乗り出している。しかし、専制化が進むにつれ、家臣の中から信虎の暴走を懸念する声が強まり、1541年(天文10)、信濃海野平(うんのたいら)の合戦で海野氏を破って凱旋した直後、嫡男晴信(信玄)によって駿河に追放されている。今川義元の保護を受けていたが、義元死後上洛し、将軍足利義輝の相伴衆(しょうばんしゅう)となったこともある。1574年(天正2)3月、信濃高遠で没した。享年81。墓は甲府市の大泉寺。[小和田哲男]
『柴辻俊六著『戦国大名領の研究』(1981・名著出版)』

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世界大百科事典内の武田信虎の言及

【甲斐国】より

…また日蓮は,1274年(文永11)甲斐源氏の一族波木井実長の招きを受けて身延の地に久遠寺(くおんじ)を建てた。 戦国時代の甲斐は武田信虎・信玄(晴信)・勝頼3代による領国統一時代である。信虎は1519年(永正16)居館を石和(いさわ)から躑躅(つつじ)ヶ崎(甲府市武田神社の地)に移して領国経営の中心とした。…

【甲府[市]】より

…人口20万1124(1995)。1519年(永正16)武田信虎が居館を置いたのに始まり,江戸時代は天領もしくは親藩,譜代の城下町として,また甲州道中の宿場町としても栄えた。明治になると追手門前御役所跡に山梨県庁が置かれたのをはじめ,城の南に隣接する旧武家屋敷跡に官公署や学校が設けられた。…

【武田氏】より

…本姓は清和源氏であり,新羅三郎義光の子義清が甲斐国巨摩郡武田荘へ荘官として赴任したところから武田姓を名のる(図)。義清の孫信義は治承・寿永の乱で,源頼朝方として戦功をたて,鎌倉幕府成立後には,甲斐の有力御家人となり,守護職に任ぜられた。一族の逸見,加賀美,安田氏も栄えたが,甲斐源氏の勢力を恐れた頼朝によって,武田信義の長男一条忠頼と弟の安田義定は謀殺された。嫡系は忠頼の弟石和信光がつぎ,以後その子孫が一族を分出させながら守護職を世襲し,あわせて,甲斐国内の諸荘園の地頭職をも獲得していった。…

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