武田信虎
たけだのぶとら
(1494―1574)
戦国時代の武将。甲斐守護武田信縄(のぶつな)の長男。名ははじめ信直。左京大夫・陸奥守を称した。1507年(永正4)、父信縄の死により、14歳で家督を継いだが、信縄の弟油川信恵(のぶしげ)と家督をめぐって争い、さらに一族で、国人領主の大井氏・今井氏らとも抗争を繰り広げた。しかし信虎は、1532年(天文1)頃までにはほぼこれを征圧、甲斐の統一を果たした。1519年(永正16)には居館をそれまでの石和(いさわ)から躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移し、駿河出兵、信濃出兵など他国への侵攻にも乗り出している。しかし、専制化が進むにつれ、家臣の中から信虎の暴走を懸念する声が強まり、1541年(天文10)、信濃海野平(うんのたいら)の合戦で海野氏を破って凱旋した直後、嫡男晴信(信玄)によって駿河に追放されている。今川義元の保護を受けていたが、義元死後上洛し、将軍足利義輝の相伴衆(しょうばんしゅう)となったこともある。1574年(天正2)3月、信濃高遠で没した。享年81。墓は甲府市の大泉寺。
[小和田哲男]
『柴辻俊六著『戦国大名領の研究』(1981・名著出版)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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武田信虎
たけだのぶとら
1494~1574.3.5
戦国期の甲斐国の武将。武田信玄の父。戦国大名武田氏の基礎を築いた。1507年(永正4)家督となる。小山田・大井両氏などを破り,天文初年までに甲斐を統一。この間19年には本拠を石和(いさわ)から甲府に移した。外交面では相模・駿河・信濃などへ進攻したが,37年(天文6)今川義元,40年諏訪頼重をそれぞれ女婿とし,同盟を結んだ。しだいに独断専行が多くなり,家臣団の支持を失う。嫡子信玄より次子信繁を愛したこともあって,41年信玄により駿河に追放された。63年(永禄6)まで今川氏に保護されるが,以後諸国を流浪したのち,信濃国高遠(たかとお)(現,長野県伊奈市高遠町)で死没。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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武田信虎
たけだのぶとら
[生]明応3(1494)/明応7(1498)
[没]天正2(1574).3.5. 信濃,高遠
戦国時代の武将。信縄の子。永正4 (1507) 年父の死により家督を継ぐ。同 16年本拠を石和 (いさわ) から躑躅ヶ崎 (つつじがさき) 館に移し,領国内の統一に努め,甲斐における武田氏勢力の基を築いた。しかし,民政軽視の領国経営から民心を失い,天文 10 (41) 年長子晴信 (信玄) に追われ,駿河の今川義元のもとに二十余年いた。のち京都など各地に移り住み,信濃高遠で没した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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武田信虎 たけだ-のぶとら
1494-1574 戦国-織豊時代の武将。
明応3年1月6日生まれ。武田信縄(のぶつな)の長男。甲斐(かい)(山梨県)の守護。一族間の抗争をおさえ甲斐国内を統一,府中(甲府市)に城下町を建設,今川氏や北条氏などの近隣諸国へ侵攻した。天文(てんぶん)10年嫡子信玄により娘婿今川義元のもとへ追放され,放浪ののち天正(てんしょう)2年3月5日信濃(しなの)(長野県)高遠で没した。81歳。幼名は五郎。初名は信直。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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武田信虎 (たけだのぶとら)
生年月日:1494年1月6日
戦国時代;安土桃山時代の武将
1574年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の武田信虎の言及
【甲斐国】より
…また日蓮は,1274年(文永11)甲斐源氏の一族波木井実長の招きを受けて身延の地に久遠寺(くおんじ)を建てた。 戦国時代の甲斐は武田信虎・信玄(晴信)・勝頼3代による領国統一時代である。信虎は1519年(永正16)居館を石和(いさわ)から躑躅(つつじ)ヶ崎(甲府市武田神社の地)に移して領国経営の中心とした。…
【甲府[市]】より
…人口20万1124(1995)。1519年(永正16)武田信虎が居館を置いたのに始まり,江戸時代は天領もしくは親藩,譜代の城下町として,また甲州道中の宿場町としても栄えた。明治になると追手門前御役所跡に山梨県庁が置かれたのをはじめ,城の南に隣接する旧武家屋敷跡に官公署や学校が設けられた。…
【武田氏】より
…本姓は清和源氏であり,新羅三郎義光の子義清が甲斐国巨摩郡武田荘へ荘官として赴任したところから武田姓を名のる(図)。義清の孫信義は治承・寿永の乱で,源頼朝方として戦功をたて,鎌倉幕府成立後には,甲斐の有力御家人となり,守護職に任ぜられた。一族の逸見,加賀美,安田氏も栄えたが,甲斐源氏の勢力を恐れた頼朝によって,[武田信義]の長男一条忠頼と弟の[安田義定]は謀殺された。嫡系は忠頼の弟石和信光がつぎ,以後その子孫が一族を分出させながら守護職を世襲し,あわせて,甲斐国内の諸荘園の地頭職をも獲得していった。…
※「武田信虎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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