京口町(読み)きようぐちまち

日本歴史地名大系 「京口町」の解説

京口町
きようぐちまち

[現在地名]津市中央ちゆうおう

南北に通る西にし町やなか町の南に東西に直交する町人町で、城の大手門である京口御門に接する町並。京口は城より京への出口の意。もと町名を八十垣内やそがいとといい、寛永元年(一六二四)の町年寄推挙文書(津市史)に弥三垣内、同一二年の津町祭礼関係文書(草蔭冊子)に八十垣内とあるが、明暦二年(一六五六)の「勢陽雑記」や寛文一〇年(一六七〇)の町名主任命文書(津市史)には京口町とある。江戸末期まで津興つおき村内の岩田いわた川南岸近くに八十垣内の地名が残り、ここが京口町住民の故地で、後世までその所有地が多かった(八十垣内古図)


京口町
きようぐちまち

[現在地名]豊岡市城南町じようなんちよう

しん町の南に連なり、南は円山まるやま大渡に至る。東は大磯おおぞ村。出石いずし道や八鹿ようか(現八鹿町)生野いくの(現生野町)を経て播州方面へ向かう道の起点であり、円山川水運の中継地。天正一〇年(一五八二)に始まる豊岡町(城下)五町外の端町の一町として大磯村を二分する形で成立した。元禄一五年(一七〇二)の豊岡城下(京極家蔵)ではすでに町屋化が完了している。天明五年(一七八五)の家数七六・人数二八八(「公私之日記」鳥井家文書)。嘉永二年(一八四九)の献金上納人別出銀帳(佐川家文書)では総計銀四〇貫三〇〇匁中、七貫六五〇匁を上納。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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