立町(読み)たてまち

日本歴史地名大系 「立町」の解説

立町
たてまち

[現在地名]米子市立町一―四丁目・はたさき一丁目・義方町ぎほうちよう

岩倉いわくら町の西にあり、同町なかたな小路を北へ折れ、さらに西に折れた道の両側を占める町人町。西はなだ町に続く。竪町とも記され、うち町、片原かたはら(天神町)のような外堀内からはおもて町ともいわれた。北のてら町側にも北へよこ町と称される町屋が続く(宝永六年「伯耆国米子平図」県立博物館蔵)。横町は弓浜半島への道筋(外浜境往来)にあたることから出口でくちとも通称された。総間数二〇六間、抜小路(横町筋)は四一間半、ほかに北へ本教寺ほんきようじ小路四〇間、南へ中ノ棚曲り二二間がある(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。元禄八年(一六九五)の米子町中竈之覚(同書)では家持六六軒・借家六〇軒。文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高七六石余、物成高四六石余(同書)。町禄は木綿と傘が許されていたが、近世中期以後は湊に近い地の利から穀物・塩・油・海産物・干物など雑多な商品扱いに発展した。有力町人が居住していたことから藩の銀札場が西端外堀側に設けられ、国産会所も設けられた。銀札場設置の時期は明確ではないものの、延宝五年(一六七七)には米子札場への出張役人が定められているのでこの頃であろう(米子倉吉松崎八橋御定)。天和二年(一六八二)に閉鎖されたが、享保一六年(一七三一)からの藩札再発行に伴って再び設置された(同書)。だが元文元年(一七三六)には米子銀札場役人が免職となっており、宝暦一〇年(一七六〇)またしても再開され幕末まで続いたとみられる(藩史)


立町
たちまち

[現在地名]仙台市立町・国分町こくぶんちよう一―二丁目

さかな町の北裏にある両側町で、東は国分町と接し、通町とおりまち(奥州街道)と並行する二筋の道が町を三分する。うち西側の一筋に本材木もとざいもく町が続き、その東西、当町の北裏は本櫓もとやぐら丁である。「奥陽名数」では町の長さ四町とあり、安政仙府絵図では本材木町が一部食込んでいる。しかし寛文九―一一年(一六六九―七一)の城下絵図ではきれいに両側町となっている。町方二四町の四番目に列し(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)、伊達譜代六町の一。由緒はおお町に次いで古く、取立時期も肴町・みなみ町に続くとされ、町名は大町おおまち通に直交するためともいう。寛永九年(一六三二)の連署状(石母田家文書)に当町の蔵人・弥平の名がみえる。町の規模は元禄八年(一六九五)の軒数七八・検断二・肝入一(仙台鹿の子)、明和九年(一七七二)の宅地九八、男六八四・女五三五(封内風土記)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上(「仙台市史」所収)では家数三五二のうち蔵一一八、弘化二年(一八四五)の軒数一一九(奥陽名数)、嘉永五年(一八五二)の人頭一四一人、人数八九〇(切支丹宗門改人数)


立町
たてまち

[現在地名]新湊市立町・中新湊なかしんみなと

うち川の西、紺屋こんや町の東に位置。北は法土寺ほうどうじ町で、南には放生津ほうじようづ町領の田畑、さらに放生津御蔵所がある(嘉永六年「放生津領分間絵図」新湊市教育委員会蔵)。町名は南北に延びた町筋であることに由来し、貞享(一六八四―八八)の頃から町名がみえる(新湊市史)。天正一九年(一五九一)加賀藩家老奥村栄明の妻要泰院の菩提所として曹洞宗長朔ちようさく寺が町の南、西神楽にしかぐら川に面して創建され、地子地三七歩の拝領を受けた(同書)。その南には浄土宗曼陀羅まんだら寺があった(「総絵図並歩数等書写」柴屋文書)。当町は法土寺町・紺屋町とともに三町と総称され、安政年間(一八五四―六〇)三町を合せた立町組は高二五四石余、三万三千四九三歩余(総絵図並歩数等書写)


立町
たつまち

[現在地名]米沢市中央ちゆうおう一―四丁目・大町おおまち五丁目

川井小路かわいこうじ町から西に直角に折れる東西の道(米沢街道・越後街道)の両側町。天正一五年(一五八七)三月一日、当町の火事で三戸焼失、同年八月八日には当町に盗人が打入っており(奥羽編年史料)、伊達氏時代に成立していた本町六町の一。龍町とも書いた(米府鹿子)。寛政二年(一七九〇)の「管見談」によれば、蚕霊こだま宮の門前町として発祥、毎月一〇日に市が立ったのが立町の語源。当初は三の丸内にあったと推定されるが、慶長一四年(一六〇九)頃までに現在地に移された。


立町
たてまち

[現在地名]四日市市中部ちゆうぶきた

北はきた町、南はみなみ町と接し、東海道の往還を隔てて西側は西にし町。たて町とも書かれた。南北に走る東海道と、西町から海岸へ至る東西の道が交差する四つ辻があり、高札場が置かれた。この東西の道の両側に発展した町で、北側に四日市陣屋があった。旧版「四日市市史」によれば、古くはたて(竪)市場とよばれ、寛永一三年(一六三六)の五町米盛には「九町参反七歩 立市場」と出、伝馬二〇、船一艘の負担があった。


立町
たてまち

[現在地名]中区立町・本通ほんどおり

城の立町門の南に続く縦町で、東は東魚屋ひがしうおや町、南は横町の平田屋ひらたや町に突当る。「楯町」とも記され、町の四辻西の筋は、もと八百屋が多く居住し八百屋やおや町とよばれた。城下中通組に属した。

元和五年広島城下絵図に「たて町」として町間数一町三二間とあるが、この絵図は別に城郭南に平行する横筋にも「たて町五十四間」と記す。寛永二年広島町数家数改め(済美録)には本家四〇軒・借家一三六軒とあり、天和の切絵図には総家数四九、間数一八九間三尺一寸、うち医師二軒、米屋・八百屋・紺屋各二軒、魚屋・麹屋・たばこ屋・桶屋・檜物屋・銭屋・銀屋・うどん屋各一軒などが記される。


立町
たてまち

[現在地名]津市大門だいもん

城の京口きようぐち御門より観音寺前の札の辻ふだのつじまで、西から京口町西之番にしのばん町・立町と東西に並ぶ町人町。観音寺門前の主要町筋に直交するため立町(竪町)と称した。享保七年(一七二二)調べの町名取調書(津市史)に「立町、先年は立世古町と申候、改名年代不知」とあり、寛永期(一六二四―四四)や明暦期(一六五五―五八)立世古たてぜことし、寛文一〇年(一六七〇)の町名主任命文書(同書)では立町とある。

伊勢参宮街道である大門通筋とともに、城下町の中心市街をなし、元禄一一年(一六九八)調べの津町人分限帳(草蔭冊子)に筆頭の富豪として芝原浄林(御用金負担可能一万三千両)があげられ、光田庄右衛門・油屋善四郎・芝原三左衛門らの名がある。


立町
たつまち

[現在地名]結城市結城 立町

うら町の西部から南へ延びる道に沿った町。御朱印ごしゆいん堀の外にあり、慶長初め頃に拡張・建設された町と想定される。慶長三年(一五九八)八月、結城晴朝が孝顕こうけん寺に宛てた書状(孝顕寺文書)に「此度御門前就町割、罷越存分申達候処、被聞食届、無御相違所、忝奉存候」とあり、孝顕寺門前の町割計画が推進されていたことがわかるが、その位置から判断するとこの町割は立町の建設であったようである。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によれば、町中間数は二町二三間。宝永五年(一七〇八)の結城町明細帳之控(田宮家文書)では店借り四を含む六九軒の家があり、現千葉県東葛飾郡関宿町へ抜ける道路の入口に町木戸が設けられ、番屋もあった。


立町
たつまち

[現在地名]水沢市 立町

町人町水沢六町の一で、やなぎ町北端から西進する奥州街道の両側町。寛永一八年(一六四一)の塩竈村検地帳(県立図書館蔵)に町名がみえ、屋敷数四三、検断は太郎右衛門。町の長さと軒数は、元禄一〇年(一六九七)二町三八間、五六軒(菅原文書)、安永五年(一七七六)二町五四間一尺、七二軒(塩竈村安永風土記)。屋敷割は平均七・五間×三五・九間(岩手県史)。水沢宿の機能を分担する一町で、町の中央北側に本陣、南側に脇本陣が置かれた。脇本陣は立町問屋場を兼ねていた。町の西端の突当りに代官所、町の鎮守秋葉社は南側に、増長ぞうちよう寺閑居は東方の北側にあった。


立町
たてまち

[現在地名]龍野市龍野町立町たつのちようたてまち龍野町大手たつのちようおおて

龍野城大手門から南に下った道筋にあたり、北はよこ町、東から南にかけてはうら(半田用水)を境に下川原しもかわら町・しも町と接する。枝町として常照寺垣内じようしようじがいち桶屋おけや町がある。寛文一二年(一六七二)には面積一町余、地子高一九石余・取米一四石余、家数五一・寺一、年寄は那波屋新右衛門(龍野市史)。寛政一〇年(一七九八)龍野惣絵図では家数一八〇、代表的な商家として赤穂屋善四郎・銭屋伊兵衛・銭屋鹿之助らの名が記される。


立町
たてまち

[現在地名]富山市白銀町しろがねちよう

仁右衛門によえもん町北端に直交し、東西に延びる両側町。東は中島なかじま町、西端を南に折れると殿との町、西に八人はちにん町。本町のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図に記載され、前田利次による町割当初からの町。万治年間富山旧市街図には竪町とみえる。安永八年(一七七九)の本家数二八・貸家数二五で、二丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)


立町
たてまち

[現在地名]八幡町島谷

吉田よしだ川右岸にあり、八幡城の南西にあたる。橋本はしもと町の通りが突き当たる願蓮がんれん寺門前から東に延びる通り沿いにある。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図には最勝さいしよう寺・若宮山王(日吉神社)・願蓮寺のほか、富岡段右衛門屋敷(四)・最勝寺門前町などがみられる。若宮山王の門前には中間屋敷があり、当町の通りの北側は足軽中間屋敷となっていた。寛文四年(一六六四)の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)には余分新足軽として「かち町小野木伝十郎・同町崎山仁兵衛」がみえ、「かち町」とは当町の一画か。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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