朝日日本歴史人物事典 「今参局」の解説
今参局
生年:生年不詳
今参局とは一般的に新参の局をいう。このように呼ばれた女官は史上数多いが,最も著名であるのは室町幕府8代将軍足利義政の乳母であった女性。大館満冬の娘。名は不詳。足利義政の政治に介入し,幕政に大きな影響力をおよぼした。そのことは,当時の京中の落書に「政は三魔より出づ」といわれた「三魔」のうちに,烏丸資任,有馬持家と共に今参局が数えられていることからもよく知られる。なかでも,宝徳3(1451)年,今参局が尾張守護代問題に口入れし,織田敏広に替えて一族の織田郷広をこれに据えようとしたことは,幕府内に大きな波紋をひきおこした。義政は今参局の意向通りに動こうとしたが,畠山持国,細川勝元,山名持豊ら幕府首脳部の強い反対にあい,これを思いとどまった。義政の生母日野重子が嵯峨に隠居しようとしたのも,このときの今参局の口入れを怒ったためといわれている。長禄3(1459)年,義政の正室日野富子が懐妊したが,この男子が死産であったことから,これが今参局の呪詛によるものであるという風説が流れた。このため今参局は捕らわれ,侍所所司代京極持清によって琵琶湖の沖島に流されることとなったが,途中の近江国蒲生郡甲良荘甲良寺で自害した。翌月には今参局と通じていた義政の妾たちが放逐された。これら一連のできごとは日野重子の内命によるものだったといわれている。のち,寛正4(1463)年,義政によって追善料所が寄進された。法号は摂取院寿峰祥仁。<参考文献>田端泰子『日本中世の女性』
(西尾和美)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報