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呉偉 ごいWu Wei

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

呉偉
ごい
Wu Wei

[生]天順3(1459).5.20.
[没]正徳3(1508).6.13.
中国,明の浙派 (せっぱ) の画家。江夏 (湖北省) の人で,多く金陵 (南京) に寓居。字は士英,晩年は次翁,号は魯夫,小遷。成化,弘治年間に画院に入り天子に愛重された。絵は浙派の祖戴進に学んだと伝えられるが,北宗画画法を学んで山水,人物画を描き,粗放な筆墨法は戴進以上に増幅され,南宗を尊び北宗をけなす論,貶北論 (へんぽくろん) を生む原因となった。

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デジタル大辞泉の解説

ご‐い〔‐ヰ〕【呉偉】

[1459~1508]中国、明代の画家。江夏(湖北省)の人。字(あざな)は次翁。号は小仙。

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百科事典マイペディアの解説

呉偉【ごい】

中国,明代の画家。字は士英,次翁。号は小仙。江夏(湖北省武昌)の人。17歳で南京に遊んで画名をあげ,憲宗の時,仁智殿の待詔となった。画系は浙派に属し,練達した技巧を駆使し奔放な趣のある山水画人物画を描いた。
→関連項目張路

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世界大百科事典 第2版の解説

ごい【呉偉 Wú Wěi】

1459‐1508
中国,明代中期浙派(せつぱ)の代表的画家。字は士英,のち次翁,号に魯夫,小仙がある。湖広武昌(湖北省)に生まれ,南京に移住,成化年間(1465‐87)画院に入ったが,憲宗の死後追放され,1499年(弘治12)画院に復帰し〈画状元図書〉印を賜った。痛飲泥酔して描き,狂態邪学と非難される浙派の粗放な筆墨法,ことに人物画の描法は呉偉によって方向づけられ,拍車をかけられた。【古原 宏伸】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

呉偉
ごい
(1459―1508)

中国、明(みん)代の画家。載文進(たいぶんしん)に次いで浙派(せっぱ)様式の流れに重要な役割を果たし、15世紀後半から16世紀初めにかけての浙派ないし画院を代表する山水・人物画家である。字(あざな)は次翁、士英。号は魯夫(ろふ)、別に小僊(小仙)(しょうせん)とも号す。江夏(湖北省武昌(ぶしょう))の人。幼少に孤児となり、銭(せんきん)に養われて、金陵(南京(ナンキン))で画家としてたち、成化(せいか)年間(1465~87)憲宗の画院に入って仁智殿(じんちでん)待詔となるが、憲宗が崩ずると放帰された。1499年、孝宗の画院に召され、孝宗より「画状元」の印を賜ったが、2年後南京に帰った。性格は豪放、大の愛酒家で、生活は奔放だったと伝える。画風も豪放、荒々しい筆致で、強烈な墨法を巧みに用い、次代に影響を与えている。[星山晋也]

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世界大百科事典内の呉偉の言及

【北宗画】より

… その由来は,画院系画家の始祖とされる戴文進が浙江の出身であること,画院系画家の出身地が,採用における地縁・血縁もあって浙江が多いことなどによるが,浙派と呼ばれる画家のすべてが戴文進系ではないし,その出身地も,様式や技法も多様である。董其昌らによって目標とされ,はなはだしくは狂態邪学とまでけなされた画家たちは,呉偉(湖北),王諤,鍾礼,朱端,汪質(以上浙江),汪肇(安徽),張路(河南),蔣嵩(江蘇),時儼,鄭顚仙,張復(復陽),沈仕,陳鶴,姚一貫(以上浙江)などで,とくに呉偉は筆墨の技巧を誇示し,彼以後の浙派では誇張的な表現と粗放な筆墨法が顕著となった。彼らは知性的で平明・典雅を尊ぶ文人画側からは俗悪と軽蔑されたが,この軽蔑は技巧・着想においては平凡な呉派文人画の側のコンプレクスの表われでもあり,万暦以後の文人画は浙派の技巧を陰に陽に取り入れている。…

※「呉偉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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