精選版 日本国語大辞典 「九州地方」の意味・読み・例文・類語
きゅうしゅう‐ちほう キウシウチハウ【九州地方】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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九州という名称は、702年(大宝2)の薩摩(さつま)、713年(和銅6)の大隅(おおすみ)の国をはじめ、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前(ひぜん)、肥後(ひご)、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、それに日向(ひゅうが)の9か国が置かれたことに由来する。この南に琉球(りゅうきゅう)が位置している。九州は、『古事記』において筑紫(つくし)とよばれ、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)に次いで生み出された「果ての島」とされ、道の奥としての陸奥(みちのく)と対比されてきた。そして、「此(こ)の島も亦(また)、身一つにして面(おも)四つ有り、面毎(ごと)に名有り」とされたように日本海に面した筑紫、瀬戸内海に面した豊、東シナ海に面した肥、太平洋に面した熊襲(くまそ)の国からなりたち、大宰府(だざいふ)が鎮西府(ちんぜいふ)と称され、鎮西の要(かなめ)をなした。
琉球は、九州に比べ文献資料に現れるのは新しく、608年(推古16)の『隋書』の流求(りゅうきゅう)、683年(天武12)の『日本書紀』の阿摩美(あまみ)、714年(和銅7)の『続日本紀(しょくにほんぎ)』の球美(くみ)がどの範囲を指していたかは定かでない。1372年(応安5)に朝貢貿易を行うようになって、中山王(ちゅうざんおう)察度(さっと)に対し明の太祖洪武帝(こうぶてい)が詔の中で用いることでしだいに琉球の呼称が定まり、1429年(永享1)に中山王が統一して中山王府(琉球王府)を確立し、その領域も定まった。これで、沖縄は大琉球、台湾は小琉球と称されることとなり、1415年(応永22)に室町将軍足利義持(あしかがよしもち)も琉球国として書を送って、琉球奉行を置いている。沖縄の名称は琉球に比べて新しく、1719年(享保4)の新井白石(あらいはくせき)の『南島志(なんとうし)』が初めてとされている。
九州は、九州島に加え、朝鮮半島との間に壱岐(いき)・対馬(つしま)を、西の長崎の先に東シナ海にむけて五島列島を、南の鹿児島の先に屋久島(やくしま)・種子島(たねがしま)などの大隅諸島を有する。そして、九州と台湾の間に吐噶喇(とから)列島・奄美(あまみ)諸島からなる薩南諸島と、沖縄・先島(さきしま)・尖閣(せんかく)・大東諸島からなる琉球諸島を、南西諸島として有する。九州は日本でも顕著な多島地域であり、いわゆる離島が多い。
福岡・ソウル間(約570キロメートル)、長崎・上海(シャンハイ)間(約800キロメートル)は福岡・東京間(約950キロメートル)より近く、那覇(なは)・東京間(約1554キロメートル)は、那覇・ソウル(1260キロメートル)、那覇・香港(ホンコン)(1440キロメートル)、那覇・マニラ(1480キロメートル)間より遠い。こうした地理上の九州・沖縄の位置が、今日、福岡のアジア太平洋センター、北九州の国際東アジア研究センター、別府の立命館アジア太平洋大学、鹿屋(かのや)の太平洋農村研修センター、亜熱帯総合研究所のようなアジア・太平洋の紐帯(ちゅうたい)機能を有する機関の設立を促し、大宰府以来この地域が保持してきた日本の海外に対する門戸としての役割を果たさせている。
[宮川泰夫]
この地域は西南日本弧と琉球(りゅうきゅう)弧の会合部にあたり、その前面には南海舟状(しゅうじょう)海盆と琉球海溝があり、その背後は東シナ海の大陸棚が控えている。白山(はくさん)、霧島(きりしま)から西表(いりおもて)へと延びる西日本火山帯は、その一部が雲仙(うんぜん)へも延びている。中央構造線は不明瞭で、松山‐伊万里(いまり)と臼杵(うすき)‐八代(やつしろ)の2線が推定されている。北には中国山地に続く筑紫山地(つくしさんち)があり、南には四国山地に続く九州山地がある。その間は瀬戸内海に続く火山噴出物で埋積された筑紫平野と有明(ありあけ)海が続く。九州山地の南側も火山噴出物で覆われ、シラス台地が広がる特殊土壌地帯をなし、降雨に伴う災害発生が顕著で、1952年(昭和27)公布の「特殊土壌地帯災害防除および振興臨時措置法」の対象地域をなす。火山としては、九州山地の北側に雲仙岳(1359メートル)、阿蘇山(あそさん)(1592メートル)、南側に霧島山(1700メートル)、桜島(さくらじま)(1117メートル)がそびえ、九州山地の主峰は、祖母山(そぼさん)(1756メートル)である。
火山災害としては、北では1792年(寛政4)の雲仙火山群普賢岳(ふげんだけ)の眉山(びざん/まゆやま)崩壊による泥流が起こした大津波で約1500人が死亡し、南では、1914年(大正3)の桜島の噴火による溶岩流が桜島を大隅半島と地続きにし、58名の死者を出している。桜島はいまでも噴火しており、1985年(昭和60)には日本観測史上最大の年間降灰量を示している。雲仙も1991年(平成3)には死者・行方不明者43人を数えた普賢岳の火砕流を生じている。特色ある火山地形としては、阿蘇や姶良(あいら)の大規模カルデラや豊後水道と八代海のリアス海岸がある。
南西諸島は、琉球海溝と沖縄舟状海盆の間で地背斜をなす3列の島弧からなる。西側は、硫黄島(いおうじま)、諏訪瀬島(すわのせじま)、久米島(くめじま)などからなる小火山列島である。中央は、九州・沖縄で最高峰の宮之浦岳(みやのうらだけ)(1936メートル)がそびえる屋久島(やくしま)、奄美(あまみ)大島、徳之島(とくのしま)と、沖縄中北部の古生層山地で酸性土壌と軟水の卓越する山地島列である。東側は、種子島(たねがしま)、喜界島(きかいじま)、沖縄南部、宮古島(みやこじま)、石垣島(いしがきじま)などの第三紀層の低平な台地島列で、石灰岩と硬水が卓越する。島では、サンゴ礁やカルスト地形もみられ、洋島(大洋島ともいい、海洋に取り囲まれた島のこと。大陸に関係なく初めから純然たる島であった火山島、サンゴ礁の類(たぐい))をなす南大東島の隆起環礁や沖大東島の隆起卓礁は有名である。
九州には筑紫次郎(つくしじろう)の別名をもつ筑後川(流域面積2860平方キロメートル、流長143キロメートル、年平均流量53立方メートル/秒)が流れる。横谷をなす河川としては、東南に向けて五ヶ瀬(ごかせ)川(1820平方キロメートル、106キロメートル、23立方メートル/秒)、大淀(おおよど)川(2230平方キロメートル、107キロメートル、91立方メートル/秒)が、西北に向けては球磨(くま)川(1880平方キロメートル、115キロメートル、50立方メートル/秒)が大河川として流れ、九州有数の電源地帯をなす。
この地域は南方に属し、対馬(つしま)海流、日本海流の二つの暖流に挟まれ、全体として温暖な多雨気候を示す。ジェット気流と偏西風が卓越し、揚子江(ようすこう)気団の発達する春先は黄砂の飛来で特色づけられる。梅雨も日本でいちばん早く、それに伴う集中豪雨も顕著で、1953年の北九州、1957年の諫早(いさはや)、1982年の長崎と集中豪雨災害も発生しているが、それ以上に夏から秋の台風は激しく、1945年の枕崎台風(まくらざきたいふう)や1976年の17号台風の災害は有名である。南西諸島では、名瀬(なぜ)、与那国(よなくに)が日本有数の日降水量(1日当り降水量)を示した。
全般に九州は夏多雨の太平洋岸気候を示すが、北部九州は日本海岸気候で冬季の雲量も多い。九州北東部は、周防灘(すおうなだ)に面し、1年を通じて雨が少なく、年降水量(年間降水量)1500ミリメートル程度の瀬戸内式気候を示す。九州西部は梅雨の影響が顕著で6月の降水が多く、年降水量は2000ミリメートル程度である。九州南部は1954年に屋久島の小杉谷(こすぎだに)で年1万0053ミリメートルを記録したように多雨地帯で、太平洋岸で2400ミリメートル、山岳寄りで3000ミリメートルの年降水量を示し、梅雨末期の集中豪雨と台風の被害もシラス台地という地形条件と関連して多い。九州は、1958年(昭和33)公布の「台風常襲地帯における災害の防除に関する特別措置法」で台風常襲地帯に指定された地域が多い。
南西諸島は、亜熱帯気候に属し、霜・雪はほとんどなく、1月にサクラが咲く。春雨は少ないが、台風は多く、奄美で3000ミリメートル、沖縄で2000ミリメートル、先島(さきしま)で2200ミリメートル程度の年降水量である。風速は一般的に強く、宮古島では1966年9月5日に日本で最大の瞬間風速83.5メートル/秒を記録している。降水量の割に保水量は少なく、宮古島では、世界初の本格的止水壁をもった地下ダムが築かれている。
植生は、温帯の九州島と亜熱帯性を具備した南西諸島とでは生態系を異にする。九州島ではカシ、シイ、クスノキなどの暖帯照葉樹林(常緑広葉樹)が卓越する。これらは、北部で800メートル、南部で1200メートルぐらいまで分布し、その上部はブナを主とした落葉広葉樹林の温帯林となっている。南西諸島では、アダン、ガジュマル、ビロウ、ソテツ、ヒルギなど亜熱帯植物が繁茂し、全体としてマングローブ林とサンゴ礁によって特色づけられた生態系を示す。こうした亜熱帯植物は日本海流、対馬海流と暖流の洗う青島(あおしま)から五島列島、玄海灘(げんかいなだ)の沖島までもみられる。このほか、屋久島では標高550メートルから1650メートルぐらいまでみごとなスギの原生林が分布しているが、こうした屋久島の貴重な自然の生態は1993年(平成5)、世界遺産条約に基づき世界遺産(自然遺産)として登録された。
[宮川泰夫]
九州・沖縄の8県合計の県内総生産は48兆1065億円(2005)で、全国の9.3%を占める。県別では、佐賀が3兆円未満で、全国的にみても下位にある。宮崎は3兆円を突破しているが、全国的にみるとまだ下位を低迷している。沖縄は3兆円を超えているが、これは、県内総生産のうち産業部門の比率が84.3%と相対的に小さく、軍事基地に依存した経済の一端を現しているともいえよう。
産業部門別の比率をみると、沖縄は製造業が全国最小である。これとは対照的に建設業比率が7.6%と、全国平均(6.4%)に比べて高い点にその独特の地域性が現れている。宮崎県は、建設業と農林水産業の比率が高い。佐賀も、建設業、農林水産業が高い比率を示している。これとは逆に、卸・小売業の比率は全国的にみても低く、福岡の大都市圏に包含されつつあることを示している。九州の産業を特色づけてきた石炭業は、筑豊、三池、高島ではすべて閉山し、唯一残されていた崎戸松島(さきとまつしま)炭田の松島炭鉱池島鉱業所(海底炭坑)も2001年(平成13)に閉山した。
県内総生産額がもっとも多いのは福岡(18兆0840億円)で、九州・沖縄地方全体の37.6%を占める。産業構成比も92.3%とこの地方ではもっとも比率が高い。産業部門別では卸・小売業が集積効果を発揮して高く、製造業は全国平均を下回る。金融・保険では、福岡は総額1兆0594億円で、東京、大阪、愛知、神奈川、兵庫、埼玉に次ぐ規模をもつが、県内の部門別比率は5.9%と全国平均(7.1%)を下回り、広域中心都市を擁する宮城県や、全域が広大で広域中心都市札幌の影響が薄い北海道や、製造業割合が高すぎて相対的に金融・保険の割合が低くなっている愛知と類似した指標性を示す。
九州・沖縄の合計県民所得は35兆7274億円(2005)で、そのうち13兆4374億円、約37%を福岡県が占める。福岡県が九州経済活動の中枢をなし、広域中心都市であることを示している。福岡に次ぐのは、熊本(4兆3918億円)、鹿児島(3兆9841億円)である。これが、熊本の九州における一つの中心性と鹿児島の伝統的縁辺性を支える基礎をなしている。鹿児島と類似した縁辺性と熊本同様に伝統的中枢性を有してきた長崎がこれらに続き、大分、宮崎の県民所得規模はまだ小さい。
こうした県民所得に現れた地域性は、その構成比でも認められる。福岡は雇用者報酬(68.7%)、財産所得(3.3%)、企業所得(28.0%)が全国平均(67.3%、4.4%、28.2%)に近似して均衡がとれている。福岡の大都市圏の縁辺をなす佐賀もこれと類似した構成比を示す。これに比べ沖縄は、財産所得(7.9%)と企業所得(30.4%)の構成比が全国平均に比べて高く、沖縄の雇用者所得の低さと沖縄のもつ基地経済の一面を暗示している。
沖縄と対照的なのが宮崎で、財産所得(1.4%)の低さを企業所得(28.3%)と雇用者所得(70.3%)で補っている。宮崎と似た傾向を示すのが長崎である。長崎より雇用者所得割合が低く、財産所得や企業所得が多いのが熊本である。大分は、九州において中間的様相を呈している。1996年で大きな変化があったのは鹿児島で、雇用者所得割合が前年より約7ポイントもアップして74%となり、2005年現在は71.8%となっている。
1人当り県民所得は、いわゆるバブル経済の崩壊とともに1993年は前年に比べ減少したが、他地域、とくに大都市圏に比べて痛手が少なく、1994年には回復した。すなわち全国的動向と同じ様相を示したのは、広域中心都市福岡と政令指定都市北九州市を擁する福岡県のみで、その他の県は1993年でも微増しており、地方平均でも前年の247万円から274万4000円と全国的動向(305万2000円、303万7000円)と逆の傾向を示し、他地域との間に時差の存在することを暗示している。ただし、1995年になると福岡以外でも前年を下回る県が出てきた。全国的傾向が2~3年遅れで九州に及んできたといえよう。2005年現在1人当り県民所得のもっとも低いのは、全国最下位の沖縄(202万1000円)で、これに宮崎、長崎、鹿児島と続き、福岡大都市圏の縁辺にある佐賀はこれらを上回る。九州のなかにあっては相対的に工業化が進展してきた熊本と大分は、福岡と他の九州諸県との中間に位置する。また地方平均は242万8000円で、1990年代よりも全国平均(304万3000円)との差が開く傾向にある。
[宮川泰夫]
九州の2014年(平成26)の製造品出荷額は、22兆2051億円で、これに沖縄(6335億円)を加えて、全国の7.4%を占める。この大半は、両翼に北九州と久留米(くるめ)の工業都市を擁する福岡(8兆4336億円、九州内構成比は約38%)が占める。これに比べると新興の臨海工業地域を有する大分や内陸工業の成長の著しい熊本もその規模は小さい。
宮崎は1兆5275億円で、沖縄を除くと九州で最下位である。新産業都市日向(ひゅうが)・延岡(のべおか)を擁するが、旭化成(あさひかせい)の単一企業都市的性格の強い延岡を中核とした工業化の相対的遅れや、いわゆるテクノポリス宮崎への先端技術産業集積の弱さから、その工業出荷額の増大はまだみられていない。同じことは、三菱重工業長崎造船所や佐世保重工業をもつ長崎や、ブリヂストンのような中核企業、久光(ひさみつ)製薬などの中堅企業をもつ佐賀にもいえる。長崎の環大村湾テクノポリスや福岡・佐賀の久留米・鳥栖(とす)テクノポリスも、まだ先端産業の集積による産業構造の変革を呼び起こすまでには至っていない。
九州の工業は、海軍の佐世保、陸軍の小倉の両工廠(こうしょう)に象徴される兵站(へいたん)基地的性格を強く擁し、八幡(やはた)製鉄所は、その象徴である。そして、筑豊・三池の炭田や豊富な石灰石等の資源を基盤とした三菱化学(現、三菱ケミカル)、三井化学、三菱マテリアル、旭硝子(あさひガラス)(現、AGC株式会社)、三井三池製作所など九州北部のいわゆる重化学工業や、朝鮮半島への展開の源泉もなした電気化学の熊本県水俣(みなまた)のチッソや宮崎県延岡の旭化成が九州南部に展開してきた。こうした九州の工業の根底には古くからの地場産業も存在するが、中京地域やその他の中部地方のように地場産業が近代産業の発展に寄与した先行産業としての役割は小さく、ほとんどみられないといっても過言ではない。
伝統・在来の地場産業としては、九州・沖縄でも他の地方同様に繊維と陶磁器産業が卓越する。このほかにも、大分の別府竹細工や長崎のべっこう細工をはじめとした特色ある地場の風土文化産業もある。なかでも竹細工は、その典型として特筆に値する。
博多織(はかたおり)は、黒田藩の殖産政策と結びついて興隆し、企業合同、協業化・団地化によるいわゆる中小企業近代化を果たし、製品の多様化、デザインの高度化を経て大都市産業として存続しうる機構をつくりあげた。久留米絣(くるめがすり)は、備後(びんご)・伊予(いよ)と並ぶ日本三大綿絣産地の一つであるが、タオルに加えて、地域の近代地場産業であるゴム工業と提携して生地綿布を開発、体質を強化してきた。
大島紬(つむぎ)は、沖縄の久米島(くめじま)から奄美(あまみ)大島に伝承され、さらに鹿児島に移住した職人たちが地場産業にまで発展させたものだが、今日では親機のある中核地から離れた生産の場所としての出機(ではた)圏をさらに地方に広げつつ、近代企業による革新性と組合による中間組織媒体の緩衝機構によって成長を維持している。そして伝統的泥染(どろぞ)め技法を保持しつつ、集散地から遠いという弱点を克服して銘柄性を向上させてきている。同様に、琉球絣(りゅうきゅうがすり)、芭蕉布(ばしょうふ)、八重山上布(やえやまじょうふ)、宮古(みやこ)上布、久米島紬、沖縄紅型(びんがた)なども、伝統技法を支えに観光産業とも関連して縮小均衡ながらも残存している。
陶磁器は、有田や伊万里(いまり)の陶磁器産地や炉材企業の黒崎播磨(はりま)をはじめとした企業集積を福岡広域都市圏の縁辺に擁している。その研究機関としては、鳥栖の産業技術総合研究所九州センターや有田の佐賀県窯業技術センターなどがある。しかしながら、名古屋大都市圏のような自主的な専門的研究検査機関はなく、ファイン・セラミックスの発達はまだまだ弱い。
熊本は天草の靴下・シャツ工業が展開し、繊維・衣服工業でも特異な生産地域をなしているが、製造品出荷額がもっとも大きいのは、二輪車製造開発の世界的拠点となり、四輪車エンジン生産の拠点をもつ本田技研工業と鋼船製造の日立造船が展開した輸送用機械である。半導体製造装置の東京エレクトロン九州などの電気工業や化学のチッソ(水俣市)もあるがその比率は小さい。
輸送用機械が最大なのは福岡県(2兆4185億円、2014年時点)である。福岡には1975年(昭和50)の日産自動車苅田(かんだ)工場に続いて同じ産炭地域の宮田(宮若市)に1984年トヨタ自動車九州が進出した。北九州は、周知のように新日鉄住金八幡製鉄所(現、日本製鉄九州製鉄所)、三菱ケミカルを中核とする臨海工業地帯であるが、1980年代後半以降、製品転換を伴った縮小均衡を遂げるだけでなく、テーマパークの「スペースワールド(2018年1月閉園)」に象徴される新たな接遇環境創設による都市改造計画が推進され、また「北九州市ルネッサンス構想」の遂行と、「地域産業の高度化に寄与する特定事業の集積の促進に関する法律」(頭脳立地法)による集積促進地域の指定を受けて、ようやく産業地域構造の変革が進展することとなった。響灘(ひびきなだ)の福岡大学資源循環・環境制御システム研究所を中枢とした資源リサイクル環境工業地域計画もその一つである。また、1994年(平成6)鋼材加工の韓国浦項(ほこう)製鉄(現、ポスコ)の子会社ポスメタルの進出や、北九州テクノセンターの設立なども、九州の産業の構造変革を推進するであろう。
一方で、八幡製鉄所以来福岡の工業の柱であった鉄鋼の割合は、2014年時点では10.7%にとどまり、食品工業と並んでいる。
食品工業が基礎産業部門をなしているのは、佐賀(18.6%)、宮崎(20.7%)、鹿児島(34.3%)と沖縄(23.8%)である(2014年時点)。これらのうち宮崎と鹿児島は、食料品工業のほか、半導体をはじめとする電子部品・デバイス製造業の割合も高い。なお、佐賀には、単一企業都市的性格をもつ久留米から拡散したブリヂストン鳥栖工場や、ブリヂストン佐賀工場、熊本には、半導体・液晶の東京エレクトロン九州、宮崎には、延岡の旭化成、鹿児島には、京セラやソニーセミコンダクタマニュファクチャリングの工場がある。さらに、伝統的焼酎(しょうちゅう)産業を食肉加工や水産物加工などと組み合わせた地場のリサイクル型産業地域育成計画も進展している。
[宮川泰夫]
九州各県の第一次産業就業者比率は、福岡の3.5%を除くと全国平均(4.8%)を上回る(2005)。もっとも高いのは、宮崎(12.7%)で、これに鹿児島、熊本、佐賀が続く。大分と長崎は、これらに比べると相対的に低い。
2005年の九州・沖縄の合計農業粗生産額は1兆7713億円で全国の20.1%を占める。鹿児島、宮崎、熊本の九州南部の3県が農業生産の中心で、これに大都市近郊農業の発達もみられる福岡が続く。米どころの佐賀や輸送園芸の発展の著しい沖縄も、そのシェアは小さい。畑地面積が北海道を除くともっとも多い鹿児島は、販売農家数が5万4332戸、主業農家割合は28.8%で全国的にみても高い比率である。福岡は九州1位の5万4515戸、主業農家比率は23.7%、熊本5万4298戸、主業農家比率36.6%で、九州ではもっとも高い比率である。
2005年の都道府県別作物生産額を指標にすると、福岡、佐賀は小麦産出額で全国2位と3位、大麦収穫量では4位と2位を占め、今日でも日本の重要な麦作地帯をなしている。甘藷(かんしょ)で鹿児島が圧倒的地位を占め、宮崎も千葉、茨城、徳島に次ぐことは知られているが、馬鈴薯(ばれいしょ)でも北海道に次いで鹿児島が第2位、長崎が第3位であることは意外と知られていない。大根では、宮崎、鹿児島、トマトは熊本(1位)、キュウリは宮崎(1位)と野菜栽培でも地域性が認められる。宮崎は、1879年(明治12)の移住招致政策で、愛知県から先進農業技術を導入し、戦前から半促成栽培を推進してきたが、ハウス栽培や野菜の促成栽培が急激に発展したのは、1971年(昭和46)に大消費地の首都圏や近畿圏との間にフェリーが開設されて以降である。
果物では、熊本のメロン(3位)や、熊本、佐賀のミカンが有名で、ハッサク、ネーブル、ポンカンなどの雑柑(ざっかん)でも九州は卓越している。このほかにも長崎の茂木(もぎ)ビワや熊本のクリやスイカなども有名である。鹿児島、宮崎は、茶の生産量でも全国有数で、静岡に次ぐ茶どころをなし、福岡の八女(やめ)茶をはじめ銘柄の確立した茶産地も多い。葉タバコでは、宮崎を中心に熊本、鹿児島を両翼とした九州南部は、岩手、福島をはじめとした東北と並ぶ全国有数の産地をなしている。
畜産業では、鹿児島、宮崎、熊本の肉牛飼育とそれに呼応した牧草収穫量が九州の特色としてあげられる。豚の飼養でも鹿児島、宮崎は全国最大級の産地で、鹿児島の黒豚はその銘柄性を全国的に確立している。ブロイラーの出荷羽数でも鹿児島、宮崎は、全国的に卓越した産地で、鹿児島は鶏卵生産量でも全国第4位である。
沖縄農業を特色づけてきたサトウキビ、パイナップルは、第二次世界大戦後も1965年(昭和40)の「砂糖の価格安定に関する法律」の公布以来保護されてきたが、1975年の国際価格の下落以降、その構造調整を強いられている。マンゴーなど熱帯性果実の栽培も試みられているが、最近の沖縄農業を特色づけているのは、ランやキクの花卉(かき)栽培などの輸送園芸で、とくにキクでは愛知に次いで、全国第2位の作付面積を示している。
林業では、宮崎が素材生産量で全国第2位(96万立方メートル)で、第7位が熊本である。それぞれ、製材用が大半を占める。これに大分が続く。鹿児島は竹材の生産量が全国一である。
大分の日田(ひた)、熊本の小国(おぐに)、宮崎の飫肥(おび)とならび鹿児島の屋久のスギは全国的銘柄を確立している。また鹿児島はヒノキやマツも多い。
宮崎、鹿児島、大分は北海道に次いで広葉樹の人工林が多い。宮崎には王子製紙日南(にちなん)工場が、鹿児島には中越パルプ工業川内(せんだい)工場が、熊本には日本製紙八代(やつしろ)工場がある。林業関連では、藩政時代以来の久留米、田主丸(たぬしまる)の植木や、鹿児島、熊本、大分の豊富な竹材を基礎とした竹工芸、大分、宮崎の干しシイタケ栽培などが九州では著名である。
水産業では、長崎が九州だけでなく全国的にも突出している。経営個体数では、長崎は1万0756(2003)、うち1万0377が個人で、会社・組合など非個人よりも小零細漁業を根底に置いているといえよう。中間暖水の東シナ海と冷水の黄海を漁場の中心としている。第二次世界大戦後、日中、日韓の漁業協定で大陸棚漁業の規制を受けたとはいえ、多くの離島を抱え、今日でも対馬(つしま)海流に沿った底引き網漁業と巻き網漁業の中心地をなしている。
鹿児島は、非個人経営個体数283で長崎を上回る。枕崎(まくらざき)を主要漁港としている。日本海流に沿ったカツオ一本釣りやマグロ延縄(はえなわ)、全国有数のブリ養殖を主とする。熊本は、ムツゴロウで有名な遠浅の有明海の板海苔(いたのり)栽培を基礎とする。海苔栽培では、周防灘(すおうなだ)に面した豊前(ぶぜん)の海海苔や熊本水前寺(すいぜんじ)の川海苔(スイゼンジノリ)が有名で、このほかにも銘柄性の確立したものとして、豊予(ほうよ)海峡の速吸(はやすい)瀬戸に面した佐賀関(さがのせき)の「関さば(せきさば)」、「関あじ(せきあじ)」がある。
海面漁獲量では、長崎が30万5424トン(2005)と北海道に次いで全国第2位であるが、それ以外は、15万トンを超えて全国10位内に入る県はなく、鹿児島と宮崎が九州のなかでは海面漁業の中心をなしている。内水面漁業では、熊本が全国第8位と九州内での一つの水産業の特性を示しているが、内水面養殖では、鹿児島が愛知と並んで全国最大級の産地である。海面養殖では、ブリ類で鹿児島が全国一で、長崎、大分も多く、熊本、宮崎がこれに続き、海面養殖が盛んであることを物語っている。海面養殖としては、熊本、長崎の真珠も有名である。
[宮川泰夫]
九州は古くから畿内(きない)と朝鮮の間に位置し、日本の門戸をなしてきた。陸上交通路はむろんのこと、海上交通路の整備も古くから行われてきた。明治維新以降の日本近代化の過程でも、日清戦争前の1891年(明治24)には門司(もじ)―久留米(くるめ)間の鉄道が開設され、日清戦争の終結した1896年には八代(やつしろ)まで開通している。しかし、鹿児島本線の開通は1909年で、東海道本線(1889年)はむろん、東北本線(1893年)、中央本線(1908年)に比べても遅かった。
こうした状況は、新幹線の建設でもみられる。すなわち、1964年(昭和39)の東海道新幹線の開通後、1975年に博多までの山陽新幹線の開設はみながらも、九州新幹線の工事着工は、1982年の東北新幹線、上越新幹線に遅れ、1987年の日本国有鉄道の民営分割化で九州旅客鉄道(JR九州)が発足した後の1991年(平成3)である。福岡と鹿児島を結ぶ九州新幹線鹿児島ルートは、2004年(平成16)3月、まず鹿児島中央―新八代間が開通し、2011年3月に全線が開通した。鹿児島ルートに遅れをとった長崎ルートは、武雄(たけお)温泉―大村間の路線発表が1997年になされ、博多―長崎間に新幹線規格新線を敷設することとしたが、その後、博多―武雄温泉間は当面在来線を活用することとなった。
長崎本線は、1891年に鳥栖(とす)―佐賀間が九州鉄道によって開設され、大村線経由で1898年に開通した。1934年には現在の長崎本線が開通し、長崎を起点とした上海(シャンハイ)航路と接続し、関釜(かんぷ)連絡船、大連(だいれん)航路とともに中国大陸に向けての重要な交通路の結節点をなした。1942年に関門(かんもん)海底トンネル(関門トンネル)が開通すると、東京―長崎間に九州初の特急「富士」が開設された。これに比べ、1895年に豊州鉄道として開設された日豊(にっぽう)本線の整備は遅れている。
九州旅客鉄道発足後は、福岡、北九州の二大都市圏をはじめ、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎といった県庁所在都市圏の列車本数を増便した。小倉―博多間や博多―久留米間では、民営化後10年ほどの間にそれぞれ快速を含め約100本も増やした。延岡―宮崎、宮崎―都城(みやこのじょう)間でも増便を含めた輸送力の改善を推進している。新駅の開設も41を数え、新生車両率も高まった。都市間輸送も鹿児島本線、長崎本線、日豊本線の特急・急行を増設した。湯布院(ゆふいん)(由布(ゆふ)市)では、由布院駅の改造や特急「ゆふいんの森号」の運行など観光地開発にも寄与している。
1991年の熊本駅、1992年の博多駅、1993年の宮崎駅と順次進めた駅舎の改造は、1995年着工、1998年開設の新小倉駅に象徴されるように、モノレールの北九州高速鉄道との直結、8階建の小倉ターミナルビルを大規模アミューズメント、ショッピング、ホテルの複合施設とするなど、クロスロード構造の確立を視野に入れた都市開発が進められている。北九州では、1993年の福岡市営地下鉄の福岡空港延伸や1996年のJR宮崎空港線開設にならって、2006年沖合人工島に移転した北九州空港への新線計画がある。福岡市営地下鉄は貝塚で西日本鉄道・貝塚(かいづか)線と、姪浜(めいのはま)でJR築肥線と接続し、広域都市圏の基幹鉄道網をなしている。
九州では、福岡のほか、熊本と鹿児島に市営鉄道が残存し、長崎にも長崎電気軌道が走っている。日本国有鉄道の民営化に伴って、公共資本を投下したいわゆる第三セクターとしては、甘木(あまぎ)鉄道、平成筑豊(へいせいちくほう)鉄道、松浦鉄道、南阿蘇鉄道、くま川鉄道、高千穂(たかちほ)鉄道(2008年12月廃止)、肥薩(ひさつ)おれんじ鉄道がある。
道路は太宰府(だざいふ)を中枢に古くから整備されていたが、江戸時代の脇(わき)街道としての長崎道以外は東西の道路整備は遅れていた。しかし1958年(昭和33)の関門国道トンネルの開設を機にしだいに整備され、1966年には天草五橋(あまくさごきょう)が開設、別府・阿蘇(あそ)のやまなみハイウェイに代表される観光道路整備も進展した。1973年開通の関門橋に次ぐ、第二関門橋の計画も立案されている。
北九州を起点に鹿児島・宮崎に向かう南北の幹線高速道九州縦貫自動車道は、1981年の部分開通以来15年、1995年(平成7)人吉(ひとよし)―えびの間の開通で全線開通となった。東西の幹線高速道である九州横断自動車道長崎―大分線は、1990年鳥栖―長崎間、1996年日田―湯布院間が開通して全線開通、東九州自動車道も一部で開通した。これによって都市間交通だけでなく、観光地開発も一段と進展した。
「高速自動車国道法」による関門自動車道や那覇(なは)―名護(なご)間の沖縄自動車道も供用開始となっており、九州・沖縄は高速自動車道時代に入ったといえよう。一般国道自動車専用道路は、福岡―武雄間の西九州自動車道と八代―鹿児島間の南九州西回り自動車道、那覇空港自動車道があり、いわゆる都市高速道としては、福岡と北九州で整備が進展している。
大都市圏の高速道路網の整備は進展しているが、道路の整備率と舗装率を指標としてみると、福岡は、1995年現在で、それぞれ52.8%、14.8%(簡易舗装率79.8%)と県域全体としては、必ずしも高くない。九州の中心的な都市福岡がそうであるから他は推して知るべしで、九州全体の舗装率、整備率はまだまだ低い。
九州の海上交通路は古くから整備されてきたが、さらに北九州港、博多港の両特別重要港湾が、響灘(ひびきなだ)の大水深港湾や博多湾のアイランドシティに象徴されるように国際中枢港湾として整備されており、重要港湾の志布志(しぶし)港も南の国際中核港湾として位置づけられている。国際コンテナ埠頭(ふとう)は、北九州、博多が圧倒的に多く、大分、細島(ほそしま)、長崎の重要港湾も1バース(係留施設)の外貿埠頭をもつ。1993年に前年の北九州、長崎空港に次いで輸入促進地域(FAZ(ファズ))の指定を受けた大分港は、3バースの整備を行っている。
国際フェリーは、博多―釜山(ふざん/プサン)間、大阪―志布志―上海間などの便がある。1991年には九州旅客鉄道が博多―釜山間に高速水中翼船「ビートル号」を就航させ、旅客輸送の主力をなしてきている。しかし、国際貿易では、長崎にはかつての繁栄はなく、門司も1995年の輸出で4746億円(全輸出額の1.1%)と四日市、豊橋などに次いで全国14位で、3位の名古屋(13.6%)にはるかに及ばない。輸入でも3905億円(1.2%)と四日市に次いで全国15位で、豊橋(1.1%)をわずかに上回るに過ぎない。
九州は、1998年に佐賀空港が開港して、すべての県がジェット化した空港を有することとなった。福岡空港の2004年の総乗降客数は約1851万人で、東京国際空港(羽田空港)、成田国際空港、大阪国際空港(伊丹空港)に次ぐ第4位。そのうちの国内線旅客数は約1634万人で、羽田、伊丹、新千歳空港に次ぐ第4位、国際線旅客数は約217万人で、成田、関西国際空港、名古屋空港に次ぐ第4位であり、国内有数の規模を有している。
那覇空港は、国内旅客数では福岡に次ぐ第5位であり、名古屋を上回る。鹿児島は600万を超え長崎、宮崎、熊本、大分も内外合わせて200~300万人ほどの乗降客数を示している。九州は第3種のいわゆる離島航空路の発達も目覚ましく、長崎で5、鹿児島で7、沖縄で12の離島空港がある(一部閉鎖中の空港を含む)。そのほか、市営の枕崎(まくらざき)、県営の天草(あまくさ)、大分県央、村営の薩摩硫黄島(さつまいおうとう)、諏訪乃瀬(すわのせ)島(閉鎖中)などの各路線が展開するが、経営上の問題も少なくない。
海外に向けての門戸をなしてきた九州は、通信分野でも先進性を示している。1871年(明治4)に長崎―上海(シャンハイ)間の海底電信線が敷設され、1873年には長崎―東京間の電信の架設が完了し、長崎は日本と中国の上海、ロシアのウラジオストクを結ぶ重要な結節点をなすに至った。電話も1899年(明治32)には福岡とともに長崎で開設され、門司、熊本、小倉と広がり、1910年には那覇に電話局が開かれた。電話の自動化は1933年(昭和8)の大牟田(おおむた)、1934年の久留米、1936年の小倉が、1937年の福岡、佐世保に先行しているが、これを地域産業や軍工廠(こうしょう)の配置と関連づけてみると興味深い。また九州・沖縄の1998年(平成10)の加入電話都道府県間通話動向では、自県内がすべて第1位であるが、第2位は福岡と沖縄が東京で、それら以外は福岡となり、福岡の広域中心性を示している。
[宮川泰夫]
2005年(平成17)の九州・沖縄の人口は、1471万4528人(うち九州1335万2934人、沖縄136万1594人)と全国の約11.5%を占める。県別では、福岡が504万9908人で約39.5%を占め、その人口密度も1015人/平方キロメートルと全国第7位で東京、大阪、神奈川、埼玉、愛知、千葉に次ぐ。沖縄も598人/平方キロメートルと兵庫に次ぎ、全国第9位を占める。沖縄は高齢化の進む一方で、15歳未満人口では全国第1位で、佐賀(3位)、熊本(5位)とともに特異な人口構成を示している。65歳以上人口と15歳未満人口の比率の老年化指数では沖縄が全国でももっとも低く、大分がこの地方ではもっとも老齢化が進んでいる。
2000年に比較しての2005年の人口増加率は、沖縄が3.3%と東京(4.2%)、神奈川(3.5%)に次いで高く、福岡は1.7%だった。人口減少は沖縄、福岡をのぞく6県である。
福岡県には、1963年に小倉、若松、門司(もじ)、八幡(やはた)、戸畑の5市合併で誕生した北九州市と1972年に川崎、札幌とともに指定された福岡市の、二つの政令指定都市がある。1994年の地方自治法の改正で、人口30万人以上、面積100平方キロメートル以上の都市(2000年までは「人口50万人以下の市では昼夜間人口比が100%を超える都市」との要件が定められていた)を中核市に指定し、都市計画などで政令指定都市に類似した地方事務が県から移管されることになった。九州では、1996年の一次指定で熊本市と鹿児島市が、1997年には長崎市と大分市が、1998年には宮崎市、2008年には久留米市がこれらに加わった。その後、熊本市は2012年に政令指定都市に移行した。
福岡市は、第二次世界大戦後、とくに高度成長期において、行政機能の集積を基底としたいわゆる支店経済の拠点として急激に発展した。しかし、それまでの福岡市の地位はそれほど高いものではなかった。1886年(明治19)に第五高等学校が開設された熊本市や翌年に第七高等学校造士館の開学された鹿児島市などに比べても、その中心性の確立には後れをとった。日清戦争を経て、日露戦争に備えて九州北部の兵站(へいたん)基地化が進展する過程で、1903年に京都帝国大学福岡医科大学が開設され、1910年に九州帝国大学(仙台の東北帝国大学は1907年開設)となるに至って、その中心性構築の契機をつかんだ。しかし、九州地方での行政的、政治・経済的中心性の回復は、第二次世界大戦下の1943年(昭和18)に福岡市に地方行政協議会が設置され、1945年に九州地方総監府、管区警察本部、地方軍需管理局が置かれることで、ようやくその萌芽(ほうが)をみるのである。
戦時体制下、その司法関連機関が福岡市へ移設され、その中心性を喪失してゆく転機がおとずれたのが長崎市である。1945年まで長崎市は、税関、上等裁判所、控訴院、林区出張所、一等郵便局が置かれ、明治維新政府の九州における行政拠点をなしていたのである。
長崎市とその拠点性を分かち合っていたのが熊本市である。農政局、営林局(森林管理局)の残存した農林と、郵政局、電波管理局、電気通信局、NHK九州本部などが存続した郵政(逓信)の拠点が成立した。明治維新後も1871年(明治4)の廃藩置県での県庁の設置に加え、鎮台を開設したことも熊本市の中心性を高め、八代(やつしろ)、白川両県を合わせ1876年に熊本県となった。県庁所在都市熊本市は1877年の西南の役での熊本籠城(ろうじょう)でその名声を全国に広めた。1886年第五高等学校開設、1889年には市制が敷かれ、同年第六師団司令部が設置された。1897年には熊本高等工業学校が創設され熊本市の中心性をさらに強めた。その後も大林区署(森林管理局)、土木出張所(地方建設局)、税務管理局(国税局、財務局)などが次々と置かれた。そして1921年(大正10)に周辺11か町村を合併、九州では長崎市に次ぐ大規模な都市となった。熊本市は長崎市と異なり、今日でも人口(2005年市人口67万人)は増加しており、九州では、福岡市、北九州市に次いで第3位である。
北九州市は、小倉を中核とした活発な都市再開発計画の実施にもかかわらず、人口(2005年99万4000人)は減少している。製鉄を基幹とした産業都市からの脱皮が遅れていることの現れである。石炭鉱業都市大牟田(おおむた)市も同様で、1889年(明治22)に官営から三井に払い下げられ、石炭化学、鉱山機械を育んできた三井三池鉱業所も1997年(平成9)にはついに閉山している。
佐世保市は、1886年の第三海軍区鎮守府設置以来の軍港で、1897年の佐世保造船廠(ぞうせんしょう)設置以来の造船都市であり、人口は微増している。県庁所在都市の大分市の人口も増えている(2005年46万2000人)。宮崎市も大分市と並ぶ人口増加を示している(2005年31万人)。九州の主要な都市のなかでは、旭化成の単一企業都市である延岡市、観光都市別府などが人口を減らしている。
1921年に琉球(りゅうきゅう)王朝以来の首都首里(しゅり)とその外港那覇が合併して市制を敷いた那覇市は、長崎と同じく県庁所在都市でありながらも人口(2005年には31万2000人)は横ばい状態である。これに対し沖縄市は人口を急増させた(同21万6000人)。同市は第二次世界大戦後、市域の半分以上を軍用地が占める基地の街(まち)として発展し、1956年に日本初の片仮名市名として市制を敷いたコザ市を母体としている(1974年に美里(みさと)村を合併)。こうした米軍基地は沖縄の都市計画や都市発展に複雑な影を落としている。
[宮川泰夫]
九州・沖縄は、日本の南西の縁辺をなし、古くから大陸と大洋の間にあって種々の影響を受けてきた。長崎の福井洞窟(ふくいどうくつ)や大分の早水台(そうずだい)の先土器遺跡、沖縄の居住跡、鹿児島のフミカキ遺跡の平織(ひらおり)の布目跡など縄文遺跡が多数分布する。1986年(昭和61)に工業団地開発に伴って発掘された佐賀吉野ヶ里(よしのがり)の遺構は、望楼(ぼうろう)、掘建(ほった)て柱建物、大型倉庫、青銅器工房、墳丘墓(ふんきゅうぼ)、水田跡を擁した弥生中期の巨大な環濠(かんごう)集落である。これは、1991年(平成3)に特別史跡指定を受け、1992年に閣議決定で54ヘクタールが国営吉野ヶ里歴史公園となり、1993年に県営公園63ヘクタールが付け加えられた。長崎県の離島壱岐(いき)にある80ヘクタールの原の辻多重環濠集落遺跡(はるのつじたじゅうかんごうしゅうらくいせき)は、1993年に長崎県教育委員会によって一支(いき)の国の首都と判断され、大陸貿易を示す貨幣も発見された。博多(はかた)湾の志賀島(しかのしま)の金印も古代小国家の成立を物語るものとされている。
壱岐・対馬(つしま)は博多などからの朝鮮半島に向けての経路にあたり、九州と一体となった国防、外交上の重要な地域をなしていた。4世紀には畿内(きない)型古墳が豊前(ぶぜん)から展開し、瀬戸内海に面した豊(とよ)の国の豊前と横穴式石室をもった大陸式古墳の展開する有明・八代(やつしろ)沿岸の火(ひ)の国との地域差が顕著になった。5世紀に入ると、北の筑紫(つくし)、南の日向(ひむか)と大国造(おおくにのみやつこ)の配置も定まり、しだいに大和(やまと)政権の地方行政組織も形成された。527年に新羅(しらぎ)と結んで、百済(くだら)と結んだ大和に対抗したとされる磐井(いわい)の乱(527~528)を経て、535年(安閑2)の屯倉(みやけ)の配置、536年(宣化1)博多の那津官家(なのつのみやけ)の設置で大和政権の九州統治はほぼ完成された。
663年(天智2)に朝鮮の白村江(はくそんこう)で新羅・唐の連合軍に百済・大和の連合軍が敗れると、大和政権は、対馬、壱岐に加え、筑紫にも防人(さきもり)を配置し、烽(とぶひ)を設置し、水城(みずき)を築いた。665年には大野城、椽(きい)(基肄(きい))城を築城し、当時の九州全域の地方行政府で外交の第一線をも担った大宰府(だざいふ)が配置され、条坊制(じょうぼうせい)が敷かれ道路体系も整備された。688年(持統2)には鴻臚館(こうろかん)が謁見(えっけん)の場所として開設された(その遺構が福岡市の平和台球場で発掘された)。筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、豊前、豊後(ぶんご)、肥前、肥後、日向(ひゅうが)の筑紫七国が確立し、『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると702年(大宝2)には日向から薩摩(さつま)の前身唱更(はやと)の国が分かれ、713年(和銅6)にはさらに大隅(おおすみ)の国が、802年(延歴21)には多禰(たね)の国が置かれた。多禰や奄美(あまみ)は薩摩の坊津(ぼうのつ)とともに遣唐使(けんとうし)の経路として栄えた。大隅には道鏡(どうきょう)に対抗し宇佐(うさ)の八幡宮に参り、平安遷都を進言した和気清麻呂(わけのきよまろ)が769年(神護景雲3)に流されている。
779年(宝亀10)に、新羅使が唐使とともに来日して以降、新羅は813年(弘仁4)に肥前を、869年(貞観11)には博多を侵攻し、大宰府の権威も失墜してきた。遣唐使は894年(寛平6)、菅原道真(すがわらのみちざね)の派遣中止の建議を契機に廃止された。その菅原道真は、901年(延喜1)大宰府に左遷されている。
唐、渤海(ぼっかい)に代わって、宋、高麗(こうらい)が博多に入り、997年(長徳3)には高麗が侵攻し、1019年(寛仁3)には刀伊(とい)が入寇(にゅうこう)しており、薩摩には南西諸島民が侵攻している。1177年(治承1)には平氏(へいし)に対抗した後白河(ごしらかわ)法皇の近臣、僧俊寛(しゅんかん)が喜界島(きかいじま)に流刑されている。1180年に宋の船が摂津(せっつ)大輪田泊(おおわだのとまり)に入り、清盛(きよもり)が対宋貿易を掌握したころには源頼朝(みなもとのよりとも)は鎌倉に入り、新たな政権の確立に第一歩を踏み出している。平氏の地盤をなした九州は源平(げんぺい)の戦いに敗れた平氏の落人(おちゅうど)集落が山間離島の僻地(へきち)に形成された。鎌倉時代に入ると薩摩、大隅、日向は島津(しまづ)が、肥後、豊後、筑後は大友が、筑前、豊前、肥前は鎮西(ちんぜい)奉行となった少弐(しょうに)が支配した。蒙古(もうこ)の来寇した1274年(文永11)の文永の役(ぶんえいのえき)後の1275年(建治1)、金沢実政(かねざわさねまさ)が九州探題(きゅうしゅうたんだい)となり、1281年(弘安4)の弘安の役(こうあんのえき)後の1293年(永仁1)には、北条兼時(ほうじょうかねとき)が鎮西探題となった。
南北朝時代には、懐良(かねよし)親王が菊池(きくち)氏などに支えられ八女(やめ)の奥の矢部(やべ)に征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)を置いて南朝の拠点とした。北朝の九州探題は府内(大分)に配置され、守護大名が割拠し、1226年以来倭寇(わこう)として活動した松浦党(まつらとう)も一時なりを潜め、近世大名平戸松浦(ひらどまつら)氏によって統合された。
1514年のサラゴサ条約で、ポルトガル、スペインの世界分界協定の分界線上に日本が位置すると、1543年(天文12)に種子島(たねがしま)にポルトガル人が鉄砲を伝来させ、1549年には鹿児島にザビエルが布教に訪れている。1551年には大友氏の日出(ひじ)をも訪れ、九州に大友、大村、有馬、松浦、黒田、宗(そう)、寺沢、筑紫、小西といったいわゆるキリシタン大名を育て、1569年(永禄12)、前年に入京した織田信長に宣教師ルイスが謁見し、日本に時代を変革する契機を生むイコン(イコノグラフィ)をもたらし、教会、病院、学校を核とした新たな城下町をつくり上げている。1581年(天正9)に教会領となった長崎はその象徴である。博多も豊臣秀吉に支援され、日本人の海外進出とともに信長が支えた堺(さかい)に類似した自由貿易の自治都市となっていった。
この間、沖縄では1429年(永享1)に中山王(ちゅうざんおう)が統一して、奄美(あまみ)から先島(さきしま)までを琉球王府とし、日本と中国に朝貢貿易を行って、貿易立国をなした。足利(あしかが)幕府も琉球奉行を置いてその中継貿易に干渉した。1609年(慶長14)には薩摩が沖縄を間接的に支配し、奄美群島を自らの領土とした。1641年(寛永18)に鎖国が完了し、出島(でじま)が表玄関となると、沖縄の那覇は薩摩の裏木戸となり、薩摩に徳川に対抗しうる富と最新の海外情報を与え続けた。これは1844年(弘化1)に琉球での対仏貿易を薩摩藩に限り許可せざるをえない源ともなった。そして、琉球貿易で得た紡績などの先端技術習得のため五代友厚(ごだいともあつ)らを英国に派遣し、1863年(文久3)の薩英戦争後積極的に近代化をはかり、鹿児島紡績所などの近代殖産工業を興した。
明治維新以降は、こうした先端産業は、薩摩藩の堺紡績所の接収や東芝の開祖である久留米の田中久重(たなかひさしげ)の上京に象徴されるように東海道メガロポリス形成の原動力として吸収された。そして、払い下げられた三菱(みつびし)の長崎造船所や三井の三池炭鉱、佐世保の海軍工廠(こうしょう)や小倉の陸軍工廠、官営八幡(やはた)製鉄所と炭田を基盤とした九州北部の兵站(へいたん)基地化が進展し、南部では日本窒素を中核とした水俣(みなまた)と延岡(のべおか)での電気化学が進展した。
1940年(昭和15)の満州国総務庁企画処による総合立地計画策定要綱を嚆矢(こうし)とした戦時国土計画は、河水統制事業とともに、第二次世界大戦後の国土計画の基本を構築していった。企画院による1942年の「工業規制地域及び工業建設地域に関する暫定措置要綱」では、関東、愛知、関西に加えて北九州関門規制地域が設定された。山口県の下関と福岡県の若松、八幡、戸畑、小倉、門司の5市などが規制地域とされた。関東、関西と同様に県境を越えた地域が画定されただけでなく、5市を一体とした北九州という計画地域がすでに確立させられ、大分、鶴崎を中心とした大野川地域、福岡、熊本など六つの先行した工業建設地区も設定され、苅田(かんだ)にも言及されていたことは注目に値する。
1943年に入ると今日の国土計画の基礎をなした15か年計画としての「中央計画素案・同要綱案」が企画院より発表された。この「第二部地域別方針」のなかで、北九州は京浜・阪神と同等に規制地域として扱われ、中京とは差別化されていた。これは北九州での工作機械工業の高度化育成を計画するもので、横浜、神戸、長崎の開港地の造船業などにもうかがえ、地方別計画、河水統制事業、都市指定、景観厚生地区指定でも戦後計画の基本を呈示している。
国土総合開発が法制化されたのは、1950年の「国土総合開発法」である。この法律に基づき、1951年に全国で18か所の「特定地域総合開発計画地域」が指定され、防災、電源、農林開発を目的とした南九州、農林開発の阿蘇(あそ)、水産業、鉱業開発と福祉向上の離島対馬(つしま)、これらと対照的な鉱工業立地条件整備に力点を置いた北九州の4特定地域の指定がなされ、1955年の大隈半島での笠野原(かさのはら)国営畑地灌漑(かんがい)第一号事業、1957年の大山川上流の松原ダムでの蜂の巣城(はちのすじょう)反対運動など歴史に残るできごとが起こった。1952年の「特殊土壌地帯災害防除および振興臨時措置法」は、台風や集中豪雨の被害にあったシラス台地の広がる南九州では、とくに大切な特定地域振興法である。1953年の「離島振興法」も離島の多い九州の地域開発にとっては重要な地域開発の法律である。1958年の「台風の常襲地帯における災害の防除に関する法律」も九州にとっては重要である。
1962年の「第一次全国総合開発計画」では地域間の均衡発展と拠点開発が強調され、産業地域振興計画として「新産業都市建設促進法」が公布された。1964年にはこの法律に基づき大分、日向・延岡、不知火(しらぬい)・有明・大牟田の三つの新産業都市が指定された。大野川左岸臨海部を基幹とする大分は、寡占競争のもとで八幡製鉄に対峙(たいじ)した富士製鉄、昭和電工など臨海工業の集積を生み、当初の意図は貫徹したが、産業構造の変革と環境問題の変質に適応するまでには至っていない。日向・延岡も先端産業への脱皮と単一企業都市からの脱却を図っているが、細島臨海工業地域も旭化成を基幹としており、その道程はまだなかばである。不知火、有明、大牟田の新産業都市は日立造船有明工場などの誘致はあったものの臨海工業地帯の造成、高度化では後れている。
こうした工業の高度化の後れは、1961年公布の「低開発地域工業開発促進法」での工業開発地区でも同様である。工業開発区は、北では中津豊後高田、豊前、日田(ひた)、菊池、甘木(あまぎ)、筑後、佐賀東部、武雄有田鹿島、唐津、大村湾、島原と帯状に東西に点在している。南は、宮崎中南部、鹿児島中東部、球磨(くま)の巨大な塊状(かいじょう)地域と北薩(ほくさつ)の地区から低開発地域工業開発地区は成り立っている。豊後水道に面し、日豊海岸国定公園を擁する大分県の佐伯(さいき)もこうした孤立した工業開発地区である。
1969年の「新全国国土開発計画」は、こうした状況にもかかわらず全国的高速交通通信網の確立と縁辺地域での大規模臨海開発を提案した。この大規模開発は、北の周防灘(すおうなだ)では未完に終わり、南の志布志(しぶし)湾では計画に沿った埋立てで造成は進展したが、地方港湾整備を地場需要と結び付けて地方展開した飼料コンビナートと1975年の「石油備蓄法」による国家石油備蓄基地以外はまだ当初の意図は達成されていない。
石炭から石油へのいわゆるエネルギー革命は、筑豊、三池、松島、高島などの産炭地に大きな変革を強いた。1961年の「産炭地域振興臨時措置法」(産炭法)は、1966、1971、1981、1991年(平成3)と期間延長がなされ、2001年に失効後も5年間の激変緩和措置がとられているように、産炭地域の構造変革は一朝一夕にはいかない。産炭法のもとで福岡県では、核心的石炭産業地域における鉱工業振興と密接な関連をもった産炭法2条地域の北九州市を核とした筑豊東・中産炭地域、同じく福岡市を核とした筑豊西産炭地域、1997年に閉山した三井三池鉱業所のあった6条(疲弊の著しい地域で、地方税の課税免除および不均一課税を行ったときに地方交付税の基準等を変更する)の核心地域大牟田を囲む筑後産炭地域の3地域があった。熊本はこれに隣接する6条の荒尾市を核とした有明産炭地域があった。長崎には、2001年に閉山した松島炭鉱池島鉱業所をもつ、2条の大村を核とした長崎産炭地域が展開していた。
九州の産炭地域の多くは、北海道ほどではないが農山村地域である。1965年の「山村振興法」や1971年の「農村地域工業等導入促進法」は、こうした地域の振興にとって重要である。1970年の「過疎地域対策緊急措置法」をうけた1990年の「過疎地域活性化特別措置法」や1993年の「特定農山村地域における農林業等の活性化のための基盤整備の促進に関する法律」はこうした農山村地域の内発的開発への契機をあたえるものとして、九州でも観光開発と連動させて計画の立案が進展しつつある。
1985年の時限立法「半島振興法」と1987年の「総合保養地域整備法」(リゾート法)も理念的には現代産業革命の遂行にとって重要な地域振興計画ではあった。しかし、地域環境や風土文化への配慮が欠け、成功したものは少ない。この基本構想が早くから立案され、法的に承認されていたのは、1988年の宮崎を皮切りに、1989年の福岡、大分、1990年の熊本、1991年の沖縄、1992年の鹿児島であった。
宮崎・日南海岸の第三セクターによる海浜コンベンション・リゾートの総合施設「シーガイア」の倒産(2001)は、長期的視点にたった観光地域の再生・更新計画の困難性を物語っている。民間の「ハウステンボス」計画も県市や九州旅客鉄道の基盤整備と一体となって初めて厚生・環境に配慮した都市的テーマパークとして、長崎エキゾチック・リゾート構想の中核となるに至った。最盛期の1996年(平成8)には420万もの観光客を引き入れた。ところが、ハウステンボスもバブル経済崩壊の影響を免れることはできず、それ以降入場者は漸減し、2003年会社更生法の適用を受けることになった(長崎県等の支援もあって営業は続けられている)。別府九重(べっぷくじゅう)や天草、鹿児島サンオーシャン計画でも、シーガイア、ハウステンボスの事例を反面教師として地域に根づいた風土文化を革新する総合保養地計画であることが望まれる。
1972年の「工業再配置促進法」を契機とした一連の産業・地域高度化関連法でも、風土文化に留意した計画の再考が望まれている。工業再配置促進法で、九州では北九州、福岡、大分、長崎の4市が誘導除外地域とされ、残りはすべて工業誘導地域とされた。とくに北九州は工業敷地の全国比が、1985年の6.8%から2000年には7.8%と、南東北とともに大きく増大する地域として位置づけられた。
1983年の「高度技術工業集積地域開発促進法」は、先端産業集積を企図したもので、九州各地のいわゆるテクノポリスはそれなりの集積を生んでいるが、まだ技術開発能力の集積や地場の資本との連動による内発的先端産業育成能力は相対的に乏しい。人間文化を強調した久留米、鳥栖(とす)もその一つである。海洋文明の環大村湾も、佐世保重工業から分離独立した西日本海洋開発のような特異な企業は育ちつつあるが、地域産業として主導するまでには至っていない。情報産業を銀河状に育成しようとする県北国東(くにさき)もアメリカに先導された情報産業革命の成熟期で、まだ世界的中枢になるには遠く、次々とたてられる地域振興計画を十分地域化するまでには至っていない。バイオテクノロジーの萌芽(ほうが)を有し、地場の特異な技術中枢育成の可能性をもった熊本、宮崎、国分隼人(こくぶはやと)でもまだ内外を連携させて、世界的中枢を確立するまでには時間を要する。
1987年の「第四次全国総合開発計画」における交流ネットワークは、九州の広域中心として福岡や県庁所在都市の計画的基盤強化を生んだ。しかしながら九州は、海洋エネルギーの交流拠点いわき市を有した東北や、バイオフィット生活文化圏構想を示した高知と異なり、1988年の「多極分散型国土形成促進法」による地方振興拠点地域計画は立案されていない。
九州は国際政治や経済の変化に影響されやすい地域である。1992年の「輸入の促進及び対内投資事業の円滑化に関する臨時措置法」に基づく輸入促進地域(FAZ)は、ヤオハンの倒産などによって北九州国際物流センターやアジア太平洋インポートマートの計画に遅れをきたしている。同様に長崎空港、大分港、熊本港でも、国際的政治経済構造の変革に翻弄(ほんろう)され、計画の実現は容易でない。こうした事態は、1974年のニューメディア・コミュニティ構想やテレトピア構想を生かして1970年以来の「広域市町村圏振興整備措置」を作動させるむずかしさを物語っている。
沖縄も同様の事情を抱えており、1971年の「沖縄振興開発特別措置法」や1975年の「沖縄海洋博覧会」が、本土並みを意識しすぎるあまり、韓国・台湾、中国・アメリカの連携による国際平和環境問題の解決の要衝としての自由な沖縄の復権を二義的なものにしてしまった。その結果、軍事基地問題の根本的、現実的解決を遅らせることになった。国際化、情報化時代において、自然と文化を大切にした、厚生・環境に留意した行政のあり方が必要となっている。そして、本島だけでなく石垣などの諸島の特性にも留意し、現実的な「地域開発計画」を、九州・沖縄自らがつくりあげることが必要とされている。
[宮川泰夫]
イネの道の終着地としての北部九州は、さらにその後、大和(やまと)国家の対外活動の基地ともなったから、神功(じんぐう)皇后にまつわる伝説が多く、志賀海(しかうみ)神社(福岡市東区志賀島)の祭儀や、八幡古表(はちまんこひょう)神社(福岡県吉富(よしとみ)町)の傀儡(くぐつ)、県内各地の八幡神社の安産信仰を生んだ。近世になると福岡のような城下町には町人による祇園山笠(ぎおんやまがさ)(福岡市博多(はかた)区)も盛んであった。
福岡県には、特異な年中行事、民間信仰は少ないが、英彦山(ひこさん)のように、九州全域にわたり、修験者(しゅげんじゃ)の信仰を集めた霊山もあった。
佐賀県の生業で特異なものは、有明(ありあけ)海の干満の差を利用した干潟(ひがた)漁であろう。民俗芸能の面でも田舞(たまい)、田楽(でんがく)、念仏踊、浮立(ふりゅう)が都市、農村を問わず、県下各地で盛んに伝承されてきた。
長崎県は、地理的には、九州本島の西部および大小さまざまの半島(長崎、西彼杵(そのぎ)、北松浦)、岬、離島(壱岐(いき)、対馬(つしま)、五島(ごとう)列島)からなっており、民俗の諸相も一様ではないが、特異なものを一、二あげるとすれば、古代神道に天道童子(てんどうどうじ)の伝説が習合した天道信仰の分布であろう。対馬(対馬市厳原町(いづはらまち))の多久頭魂(たくずたま)神社をはじめ、壱岐、平戸(ひらど)に密教と習合した神社がある。また、百合若(ゆりわか)大臣の伝説も、壱岐をはじめ、佐賀県、大分県同様広く残っている。
大分県の地形は複雑で、海岸部には国東(くにさき)半島をはじめ多くの半島、岬、内陸部には中小河川の形成する平野や数多くの盆地が分布し、それぞれの地域に独自の民俗文化を継承してきた。その代表例は石風呂(いしぶろ)、憑(つ)き物といえよう。石風呂の効用は、おそらく僧侶(そうりょ)らによって、温泉の湯治とともに農民たちに説かれたものであろう。阿蘇(あそ)凝灰岩をくりぬいた横穴に薬草を入れた水ためを設け、焼いた石を投げ入れて湯気をたてる一種のサウナ風呂で、疲労回復、神経痛、リウマチに効くといわれた。横穴式のほかに二階式のものもある。憑き物の典型はイヌガミで、県南の豊後(ぶんご)水道沿岸に多いという。このほかヘビガミ、サルガミもあった。
熊本県は、九州のほぼ中央に位置し、その地理的条件と歴史的条件によって、本島側が阿蘇、矢部(やべ)、五家荘(ごかのしょう)、球磨(くま)の山村を含む農村と、玉名(たまな)市、熊本市、八代(やつしろ)市などの町方を含む農村に大きく二分され、それに八代海を隔てた天草(あまくさ)の島々の漁村からなっている。各地域の民俗にはそれぞれ特色がみられるが、たとえば球磨地方のように、南東部が日向(ひゅうが)と、南西部が薩摩(さつま)の民俗と類似しているように、人や物の交流がおのずから隣接地域との共通性を生んだ地域の例もある。民俗分布上、興味をひく一例をあげよう。宇土(うと)半島から阿蘇南部に延びる地帯以南においては、天草を含んで1月7日「オニビ」を焚(た)くが、北の方では「ドンドヤ」とよんで1月14日に焚く所が多い。一方、十五夜綱引の分離帯は、すこし北に寄っており、白川流域以北が旧正月15日、以南が旧8月15日になっている。
宮崎県の民俗は、「神話と伝説」にその特色をみることができよう。天孫降臨、天岩戸(あめのいわと)、国生み、神武(じんむ)天皇の東征、日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲(くまそ)征伐のような壮大な神話をはじめ、海幸(うみさち)・山幸(やまさち)、木花開耶姫(このはなさくやひめ)のようなものまで、県下各地に伝承されている。また、神話に縁の深い岩戸神楽(かぐら)が、東臼杵(ひがしうすき)、西臼杵の両郡の農村部では、秋の刈り入れが終わる11月から翌年2月にかけて、頭屋(とうや)宿を神楽宿にして毎夜のように行われる。とくに有名なのは西都(さいと)市東米良(ひがしめら)の山中にある銀鏡(しろみ)神社の奉納神楽であろう。
宮崎県は、朝日を海から迎える国、つまり「ヒムカ」の国として日本建国の檜(ひのき)舞台とされたが、宮崎平野を除けば山村的要素が多く、『稗搗(ひえつき)節』にみるような平家落人(おちうど/おちゅうど)伝説や、過酷な生業が生んだ多くの労働歌(『刈干切唄(かりぼしきりうた)』など)をもっている。
鹿児島県は、鎌倉時代以来島津氏のみによって支配され、その間、外城(とじょう)制度や門割(かどわり)制度により階層的で強力な管理社会が続いたので、年齢集団のような民俗に特色あるものが発達した。子供組(トオハン―8歳から14歳まで。地区によって若干違う。以下同じ)と二歳(にせ)組(15歳から25歳まで)があるが、二歳組が平民の組織であるのに対し、士族には郷中(ごじゅう)の制度があり、年齢が進むにしたがい、稚児(ちご)組(7、8歳から14、15歳まで)から二歳組(15、16歳から23、24歳まで)、大兄(おせ)組(24、25歳以上)に上っていった。門割制度はまた、門(かど)を主要な構成メンバーとするウッガンの信仰(長島では氏(うじ)祭とよんでいる)を生んだ。
鹿児島県は本土のほかに種子島(たねがしま)、屋久島(やくしま)、吐噶喇(とから)列島、奄美(あまみ)諸島の南西諸島を含むので、かつての風葬の葬制や、祭りのとき神に仕えたり、祈祷(きとう)をする巫女(みこ)(呼称はモノシリ、イノリ、ネーシ、ユタなど各島で違う)が分布するのも本県の民俗的特色ということができよう。なお、沖縄県の民俗は「沖縄(県)」の項を参照されたい。
[牛島盛光]
九州は民話の豊かな伝承地帯である。しかもこの地方には、日本の民話研究史上見逃すことのできない記録が残されている。具体的には、明治30年代に『福岡県童話』がまとめられ、さらに昭和に入ってからはすでに第二次世界大戦前に『玉名(たまな)郡民話抄』『球磨(くま)民話抄』『甑島(こしきじま)昔話集』『島原半島民話集』『壱岐(いき)島昔話』『肥前北高来(ひぜんきたたかき)郡昔話集』などの資料集が刊行された。この勢いは現在にまで及んでいる。同時に沖縄県にあっては1663年(寛文3)に編まれた『遺老説伝(いろうせつでん)』があり、日本最南端における伝承の位相が確実にとらえられていた。同書に収められた古物語や伝説、世間話は、南方説話の原質的な意味をもっている。しかも今日の沖縄地方における伝承には、それらがそのまま生命力をもって機能している。つまり同書に認められる伝承を現在なお事実そのものとして継承していこうとする心意が濃厚である。一方、南九州の島嶼(とうしょ)部や半島には「猿の生肝(いきぎも)」「塩吹臼(しおふきうす)」「金の瓜(うり)」や竜宮説話、または兄妹始祖説話など、暖流に洗われる土地がららしい話が語られる。それとともに南の島らしく、笑話の発達を大きな特徴にしている。肥後(ひご)の彦一(ひこいち)、日向(ひゅうが)の半ぴ、薩摩(さつま)の日当山侏儒(ひなたやましゅじゅ)、唐津勘右衛門(からつかんえもん)、大分は野津の吉四六(きっちょむ)、中津の吉吾(きちご)はよく知られた笑話の主人公たちである。自由奔放でしたたかな生きざまを、土地特有の愛すべき狡猾(こうかつ)者として語り続けたのである。ときには実在の人物としての処遇を受けたりした。また盲僧の活動によって流布した語り領域も忘れてはならない。盲僧は竈祓(かまどはら)いや病気平癒の「盲僧経(もうそうきょう)」を読み「盲僧由来」をもち盲僧寺を拠点に宗教活動を行ってきた。福岡市高宮の成就(じょうじゅ)院や宮崎県日南市の常楽(じょうらく)院は、盲僧の本寺としてよく知られる例である。
[野村純一]
『木村毅編『九州風土誌』(1947・金文堂出版部)』▽『西日本新聞社文化部編『九州むかしむかし』(1957・文画堂)』▽『『風土記日本1 九州沖縄編』(1960・平凡社)』▽『網野善彦ほか編『日本民俗文化大系 全14巻・別巻1』(1994・小学館)』▽『竹内理三編『九州史研究』(1968・御茶の水書房)』▽『『日本の地理7 九州編』(1961・岩波書店)』▽『『図説日本文化地理大系第1、2巻 九州Ⅰ・Ⅱ』(1961、62・小学館)』▽『日本地誌研究所編『日本地誌19巻 九州地方』(1987・二宮書店)』▽『大明堂編集部編『新日本地誌ゼミナールⅦ 九州地方』(1985・大明堂)』▽『宮川泰夫著『平和の海廊と地球の再生Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(1997・大明堂)』▽『宮川泰夫著『国際工業配置論 上・下』(1988、1989・大明堂)』▽『宮川泰夫著『工業配置論』(1977・大明堂)』
九州・沖縄地方地勢図
九州・沖縄地方位置図
雲仙岳平成新山
阿蘇山(中岳の火口群)
桜島
宮之浦岳
青島
屋久島スギ原始林の縄文杉
原の辻遺跡
大宰府政庁跡
九州新幹線
関門橋
吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里歴史公園)
三井三池炭鉱跡(三池炭鉱宮原坑)
博多祇園山笠
べっこう細工
別府竹細工
博多織の手織り作業
久留米絣
大島紬
芭蕉布
宮古上布
紅型
伊万里焼
関さば、関あじの刺身
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…フォッサマグナを境とする日本列島の東半部と西半部とは,植生などの自然条件に大きな差異があり,旧石器時代からすでに文化の違いがみられた。縄文時代,それはさらに鮮明になり,狩猟,漁労,採集の条件に恵まれた東日本には成熟した採集・漁労民の社会が形成されるが,西日本には朝鮮半島南東部ともかかわりをもつ漁労民の文化など,人口は東日本に及ばないながら独自な文化を保持したといわれる。そして縄文晩期,西北九州に稲作の技術が伝播したのを契機に始まる弥生文化が西日本に急速に広がったのに対し,東日本がしばらく縄文文化にとどまったことは,この差異をさらに著しいものにした。…
※「九州地方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
他の人にすすめること。また俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物。「推しの主演ドラマ」[補説]アイドルグループの中で最も応援しているメンバーを意味する語「推しメン」が流行したことから、多く、アイ...
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