今市町(読み)いまいちちよう

日本歴史地名大系 「今市町」の解説

今市町
いまいちちよう

[現在地名]出雲市今市町

今市村のうちに形成された町場。ほぼ東西に延びる山陰道沿いに町並がみられ、同街道は西方で南西に折れて下塩冶しもえんや村に至る。「出雲鍬」所載の町割根元記録写によれば、宝徳三年(一四五一)二月領主の正会が毎月の市日を七日・一〇日に定め、町並は東西一町余、東端はつか山の東、西端は慈眼じげん寺の小路付近とされる。市日はのち五日と一六日に変わったが、永禄一二年(一五六九)毛利氏の出雲進攻に際して兵火にかかり、のち町割を改めて屈曲がつけられたという。慶長一四年(一六〇九)の今市町帳によると町屋敷三町一反余・家数八八、地子銭は銀一貫五〇目、ほかに中村なかむら町がみえ、町屋敷一町七反余・家数五四、地子銭は九九匁。正保五年(一六四八)の今市本町中村町御検地帳が残る。元禄年中(一六八八―一七〇四)には町の長さも五町となり(出雲鍬)ほん町から西のなか町へかけて発展した。


今市町
いまいちまち

[現在地名]山口市米屋こめや町・道場門前どうじようもんぜん二丁目・駅通えきどおり一―二丁目の各一部

石州街道沿いの米屋町(晦日市)西端から分れて南に折れる御成道(萩街道)沿いの縦町。北はしん町に続く。南の突当りを御成道に沿って西へ折れると今道いまみち町である。現在の駅通りにあたる。

今市の名称について「山口県風土誌」は「按るに米屋町を晦日市と云ふ。其晦日の市立ありし後に、またここにて立市せしより起れる名なるべし」と記す。

山口古図によればこの通りの南半分に下今市とあり、石州街道を南折して西側に万徳まんとく寺、南行して性善しようぜん(正善寺)、下今市東側に正福しようふく寺・禅正ぜんしよう(善正寺)を描く。


今市町
いまいちちよう

[現在地名]堺市宿院しゆくいん西にし一丁

宿院町の西、中浜なかはま筋を挟む両側町。応永八年(一四〇一)四月二三日足利義持寄進状(開口神社文書)にみえる引接いんじよう寺の敷地の四至に「北従今市 南三拾八町」とある。天文四年(一五三五)四月二八日念仏寺築地修理料差文(同文書)に「今市町」とあり、「あまのや」「えちこや」「こしまや」「扇や」「たちめや」「ふるてや」などの屋号をもった町人一〇人が各一貫文を修理料として出しているが、そのなかに「与四郎殿せん」とみえるのが千利休である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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