今市村(読み)いまいちむら

日本歴史地名大系 「今市村」の解説

今市村
いまいちむら

[現在地名]今市市今市

今市扇状地の中央部、北西から南東へ下る比較的平坦な地を占める。東流する大谷だいや川南岸の今市宿が中心で、北岸に大谷向だいやむこう、その対岸に川原かわはら、東部に七本桜しちほんざくらなどの集落がある。ほぼ東西に日光街道が走り、宿の南東端で壬生みぶ通が合流、中央部から北へ会津西街道が分岐する。いずれの街道も杉並木が続く。また鬼怒川を渡って塩谷方面へ向かう日光北街道も大谷向で分れ、交通の要衝である。都賀つが郡に属し、北は瀬尾せのお村、西は瀬川せがわ村。元和六年(一六二〇)の徳川秀忠の日光山領寄進状(日光山御判物之写)に、日光山光明こうみよう院・座禅ざぜん院の所領の一として、今市村七〇〇石がみえる。日光街道の宿として、家並が整えられたものと考えられる。慶安郷帳では畑のみ三一三石余で、寛文六年(一六六六)の日光領検地を受けて村高は五六三石余となる(元禄一四年「日光領目録」)。寛文六年の町屋敷検地帳(松島孝夫文書)では二一七筆の屋敷地が、二寺院を含む一三七人に名請けされている。

元禄九年(一六九六)の町の長さ六町、家数一八六(うち問屋一・年寄八・馬指役一・馬役一〇七・歩行役六九)で、その他三七軒の水呑が歩行役半役を勤めた。馬一〇七。同八年には日光への御用通行に当宿では延べ人足一万三千五五〇人・馬一万八千六六〇疋を動員し、助郷寄人馬は人足一千四四人・馬一千九二疋となっている(「今市村高并道法改帳」文挟富司文書)

今市村
いまいちむら

[現在地名]出雲市今市町・今市町北本町いまいちちようきたほんまち今市町南本町いまいちちようみなみほんまち

出雲平野の中央、現出雲市の中心部にあり、高瀬たかせ川が村内を西流する。同川南方をほぼ東西に走る山陰道に沿って、今市町が形成されていた。宝徳三年(一四五一)に毎月七日・一〇日を市日として市場が開かれたといわれ(出雲鍬・雲陽誌)、今市の名は塩冶えんや弓原ゆんばらの古市、古志こし町の古市に対する呼称と考えられる。正保五年(一六四八)の今市村御検地帳が残り、正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高一千三九〇石余、寛文四年(一六六四)の本田高一千三六七石余・新田高六石余。「雲陽大数録」では高一千二〇〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)によれば高一千一六〇石、田六一町余・畑八一町余、家数二三六・人数一千二五一、人夫(四分万高役夫)七〇六人、紺屋一軒・畳屋一軒があり、大工八人・舟大工一人・木挽一人・綿打二人・桶屋一人がいた。「郡村誌」によると田九七町余・畑一七町余・宅地一六町余、山林二四町余、戸数六六四・人数二千三七九、馬二〇・牛二、人力車五・荷車二、民業は農業一一四・商業一六〇・大工一八・鍛冶七・左官三・木挽六・畳刺六・理髪六・石工五、米一千六六九石と綿一千三三〇貫を当村と今市町で供用、酒四〇七石・醤油四二〇石・酢五四三石を産し、瓦二万五千枚を神門かんど郡内に、木綿一万八千反を大坂・京都へ輸送していた。

今市村
いまいちむら

[現在地名]旭区今市一―二丁目・千林せんばやし二丁目、城東区関目せきめ二丁目・同四丁目・同六丁目・古市ふるいち一―三丁目、鶴見区みどり一丁目・鶴見五丁目

東成ひがしなり郡北東端、河内国茨田まんだ郡との国境付近に位置する村で、西は森小路もりしようじ村、南は千林村、北は淀川に接する。南方、貝脇かいわき上辻かみのつじ馬場ばば三ヵ村錯雑地と、今福いまふく(現城東区)との間に、飛地として今市・千林両村の錯雑した耕地がある。森小路村との間を京街道(東海道)が通る。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には、村名と並んで「今市ノ茶屋」が記され、街道沿いには早くから茶屋もあったようである。同絵図によれば「和泉堺大小路ヨリ今市茶屋マテ四里二七町一反」であった。国境付近の字伊勢地いせじと、淀川対岸の西成にしなり天王寺庄てんのうじしよう(現東淀川区)を結ぶ平田へいだ渡は、今市渡ともいわれた。

今市村
いまいちむら

[現在地名]香芝町大字北今市きたいまいち

逢坂おうさか村東北に所在。現磯城しき郡田原本町から馬見うまみ丘陵経由西方の河内国国分こくぶ(現大阪府柏原市)に通ずる関屋せきや峠の要所にあたり、徳川時代はさかい(現大阪府堺市)の魚介類を今市村・関屋村に運び市の開設をみ、市の守護神恵比須えびす神社が鎮座。

近世初期は上里かみさと村のうち。万治二年(一六五九)の西山預け山証文(北今市区有文書)に村名がみえるので、この頃までに上里村から分離独立したものであろう。

今市村
いまいちむら

[現在地名]越生町越生・越生東おごせひがし

現越生町の南東部、大高取おおたかとり山の東麓の山裾で、越辺おつべ川右岸台地に立地。中世の越生郷の中心地。古くから上野国と相模国を結ぶ街道上の要衝で、市場が開かれ、今市と称されたことからの村名という(風土記稿)。応永三二年(一四二五)二月九日の宏伝譲状写(報恩寺年譜)に「入西郡越生郷是永名内栃嶋」とみえ、越生憲高から買得した当地栃島とちじまの田畠を報恩ほうおん(法恩)寺住持曇秀に譲与し、曇秀死後は同寺に寄進するとしている。永享八年(一四三六)五月尼禅音が越生郷内「栗坪」の田一段ほかを同寺に寄進している。栗坪は地内栗坪くりつぼに比定される。

今市村
いまいちむら

[現在地名]高砂市今市一―二丁目・中島なかじま一―三丁目・緑丘みどりがおか一―二丁目・末広町すえひろちよう

中島村の西、荒井あらい村の北に位置し、あらい(現法華山谷川)河口に立地する。印南いなみ郡に属した。慶長国絵図に今市とみえる。領主の変遷は中島村に同じ。正保郷帳では田方八三石余・畑方二九石余。元禄郷帳では高一八四石余。以後村高は幕末までほぼ変わらない。宝暦元年(一七五一)中島村とともに洗川の用水・舟運路をめぐり高砂町など四ヵ町村を訴えている(→洗川。同四年には当村の庄屋与右衛門・年寄孫三郎は中島村・曾根そね村の庄屋とともに一橋領の一千五〇〇石の蔵元を引受けることを申出たが許されなかった(「願書」高砂市蔵)

今市村
いまいちむら

[現在地名]寄居町今市

牟礼むれい村の東に位置し、北は本田ほんだ(現川本町)江南こうなん台地にあり、南西部は比企丘陵に連なる尾根となる。村の中ほどを市野いちの川が東流する。中世の鎌倉街道上道が通り、この道は江戸期には中山道の脇往還とおおむね重なる。かつては比企郡高見たかみ村のうちに含まれていたといわれる(風土記稿)。天正二〇年(一五九二)三月、武川衆は徳川氏から「今壱郷内」で一三一石余を宛行われた(記録御用所本古文書)

今市村
いまいちむら

[現在地名]富山市今市

神通川下流左岸、神通古じんづうふる川左岸の河岸段丘上に位置。「婦負郡志」によれば中世の頃馬市が開かれ、初め馬市うまいち村と称したという。婦負郡に属する。江戸時代初期の神通川は村の東側を流れ、慶長一四年(一六〇九)の前田利長書状(高岡市立博物館蔵)によると、当村は対岸の草島くさじま村・千原崎ちわらざき村とともに、往還の船渡しを命じられた。加賀藩主の通る浜往来は、富山湾に面する四方よかた町・西岩瀬にしいわせ町から南下し、くぼ村を経て同渡場に達した。

今市村
いまいちむら

[現在地名]福井市今市町

じよう山の東方、北陸街道に沿い、中荒井なかあらい村の南にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では荒井之郷に含まれ、正保郷帳から村名がみえる。同帳によれば、田方八九九石余・畠方一二一石余。当村の枝村上荒井は、かつては今市村の本村であったと思われ、後に浅水あそうず宿に隣接して発達した市場集落の今市のほうが本村になったと考えられる。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によると、村高のうち三〇石余が本多筑後の知行所。

今市村
いまいちむら

[現在地名]龍野市揖保町今市いぼちよういまいち

なか村の南に位置し、同村とは山陽道の道筋が村境であった。西は揖保川を挟んで正条しようじよう(現揖保川町)、同川対岸の宝記ほうき(現同上)に草山の飛地がある。揖西いつさい郡に属する。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に「今井村」とみえ、小出吉政は同村の四三四石余などを与えられている。慶長七年(一六〇二)の今市村検地帳(出田家文書)では高四四五石余、反別は上田二町四反余・中田七町九反余・下田一二町三反余・下々田四町三反余・荒田二町余、上畑一町三反余・中畑一町六反余・下畑一町五反余・下々畑八畝余・荒畑一町四反余・居屋敷五反余。

今市村
いまいちむら

[現在地名]旭町今市

家古屋かこや川に沿い、東は和田わだ村、北は丸原まるばら村、西は久佐くざ(現金城町)石見安芸道および津和野奥筋往還が通る交通の要地。正保国絵図に村名がみえ、高四四三石余。古高も同高で、寛永一四年(一六三七)の検地高五三四石余(明治四年万手鑑)。当村は石見安芸道の宿駅に指定され、駅馬五疋を常備していた(三家本家文書)。目代も詰め、高札場が置かれた(石国秘集)

今市村
いまいちむら

[現在地名]益田市乙吉町おとよしちよう・あけぼの本町ほんまち下本郷町しもほんごうちよう

益田川下流右岸にあり、東と北は下本郷村、南は乙吉村。「石見八重葎」には小野おの郷の内、市之原いちのはらよりここに市を引いたとある。市が始まった起源は益田氏が七尾ななお城へ移住後、益田の町の繁栄とともに益田川河畔のこの地を交易場とし、今市としたという(益田町史)。天正一九年(一五九一)一月一一日の美濃郡益田元祥領検地目録(益田家文書)に「代弐貫三百十文 今市屋敷銭」とみえるが、当地の市の成立はもっと以前にさかのぼると考えられている。

今市村
いまいちむら

[現在地名]高岡市今市

祖父そふ川の下流左岸に位置。射水いみず郡の南西境に近く、北は小竹おだけ村、東は本保ほんぼ村、西は上開発かみかいほつ村。慶長九年(一六〇四)一〇月五日の前田利長判物(「内嶋組御判物等」五十嵐家文書)に「いまいち村」および「いまいち野」とみえる。同一〇年の検地帳写(川合家文書)では、反別一二町一反余で分米一八一石余。正保郷帳では高九〇石余、田方六町余、新田高二六石余。

今市村
いまいちむら

[現在地名]余呉町今市

東野ひがしの村の北に位置し、南西部を南流する余呉川に沿って北国街道が通る。東方山麓のきつね塚とよばれる小丘は、天正一一年(一五八三)賤ヶ岳の戦で柴田勝家が佐久間盛政大岩おおいわ山攻めに呼応して内中尾うちなかお山本陣から出陣した跡と伝える。慶長七年(一六〇二)の検地では田六町三反余・高九三石余、畑二四町一反余・高一〇五石余(山畑一所)、屋敷一反余・高一石余(伊香郡志)。寛永石高帳では膳所藩領(幕末に至る)佐味さみ神社は「延喜式」神名帳の伊香郡「佐味サミノ神社」に比定する説があるが、現高月たかつき柏原かしはらの同名社ともいい明らかではない。

今市村
いまいちむら

[現在地名]野津原町今市 上町かみまち下町しもまち白家しろかなど

せり川と七瀬ななせ川の間を通る肥後街道に沿う村で、宿駅があった。北東は同街道で大分郡湛水たまりみず村に通じる。江戸時代を通じて岡藩領で、文禄二年(一五九三)の検地では村位は中、石盛は上田一石二斗で以下一斗下り、上畑一石で以下二斗下り、屋敷一石(地方温故集)。慶長六年(一六〇一)の中川秀成知行方目録案(中川家文書)直入田北なおいりたぎた之内として村名がみえ、高三八一石余。正保郷帳によると田高一三〇石余・畑高一九八石余、阿蘇野あその郷に含まれ、柴山有、日損所と注記される。

今市村
いまいちむら

[現在地名]武蔵町古市ふるいち

内田うちだ村の南に位置し、武蔵川左岸の平野部から丘陵部に立地する。東は古市村。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三八六石余、家数四九、うち百姓八、名子・牛屋・うら屋三五、人数五九、うち百姓八・名子一〇、牛一五・馬三。正保郷帳では武蔵郷に属し、田方二八〇石余・畑方二六石余、新田がある。天保郷帳では高四五六石余。庄屋は溝部氏が務めていた。

今市村
いまいちむら

[現在地名]鹿野町今市

西志加奴にししかぬ村の北西、浜村はまむら川流域、勝見かちみ谷の奥部に位置する。南は玉川たまがわ村、北は寺内てらうち村。伯耆中道に沿う。拝領高は四八九石余、本免は六ツ二分。藪役銀二匁七分が課せられ(藩史)、山下氏・香河氏、東館家家臣の小倉・楠原・山田・宮川の各氏、および西館家家臣の大島・大野・杉本各氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数七〇。村中の真っすぐな道(伯耆中道)は鹿野城主亀井茲矩葬送のとき造られたものという。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高五五三石余、竈数七三。集落から二町ほど離れた字西方寺谷口さいほうじだにぐちの当村善十郎所持の田地で往古から湯が湧き、村人の怪我人などが使用していた。

今市村
いまいちむら

[現在地名]阿南市宝田町たからだちよう

立善寺りゆうぜんじ村の北東に位置し、北はおか川を境に柳島やなぎじま村。慶長二年(一五九七)の分限帳に那西なさい郡今市村とみえ、田川権右衛門知行分二五一石余。同九年に検地が行われた(「那賀郡今市村検地帳」宝田村誌)。正保国絵図では高二五七石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方一〇五石余・畠方一五二石余。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)では男一二〇・女一二一・僧一・山伏一。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高二六二石余。「阿波志」では土田は水陸田七六町余、高三二七石は三分の二が采地。家数六一・人数二九七。

今市村
いまいちむら

[現在地名]當麻町大字南今市

大畠おばたけ村西方の街村。慶長郷帳の村高三七六・五〇六石、幕府領(代官小堀政一)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領、のち同藩の二割半無地高増政策で村高四七〇・八〇一石。廃藩置県に至るまで郡山藩領。葛下郡内に今市村がもう一村(現香芝町)あり、同じく郡山藩領であったので当村は幕末に南今市村と改名。

享保九年(一七二四)の和州御領郷鑑(柳沢文庫)によると、反別二六町二反二畝歩、家数九七(本百姓六五、水呑三二)、人数四三二(男一九八、女二三一、僧三)、大工二、紺屋一、鍛冶屋一、塗師一、表具師一、穀物口入屋三、米売一、肥米売一、金物商一、茶屋旅籠屋二、牛八、馬二、除地は庄屋屋敷・浄土真宗現得げんとく寺・地蔵堂・蔵王ざおう権現・春日明神からなっていた。

今市村
いまいちむら

[現在地名]奈良市今市町

きたしよう村の南東にあり、かみ街道の街村。帯解おびとけ寺の所在地。もともと今市・柴屋しばや付近の総称を帯解といい、「大乗院雑事記」寛正四年(一四六三)条には「帯トキ」、「多聞院日記」天正一四年(一五八六)四月六日条には「寺僧衆各帯解迄迎ニ被下了」とみえ、文暁編の「芭蕉翁反古文」には「かねて案内知りたる近道にかゝり、大和の帯解までに、急ぎに急ぎたれど(中略)その夜の明けがたに帯解につく」とみえる。

今市村
いまいちむら

[現在地名]木造町豊田とよた

岩木川の西側堤防に沿って発達し、北は支村の「今市」に続き、田圃を隔てて西に永岡ながおか村、南に豊田村。

天保一三年(一八四二)蓮花田れんげた村の小山内家由緒書(津軽新田開発者の系譜)によれば、二代目の作右衛門清光が延宝五年(一六七七)に自費で今市村を開き、家数一四とある。享保一二年(一七二七)広須組に属し、川通三二ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて三八町六反六畝一六歩、村高一九五・五〇七石であった。うち田方は二五町五反四畝二五歩で一七六・四〇三石、上田から下々田まで設定され、下々田が八町四反八畝余、下田が一〇町八反一畝二二歩、七五・七二三石とあり、畑方は一三町一反一畝二一歩で一九・一〇四石、下畑と下々畑のみで、下々畑が一一町四反一畝一九歩、一一・四一七石とある。

今市村
いまいちむら

[現在地名]新旭町熊野本くまのもと

北は辻沢つじさわ村、南は平井ひらい村。天正二年(一五七四)六月の定林坊田畠帳(饗庭文書)に今市とみえる。寛永石高帳に高二八八石余とあり、支配者名の位置に「石川現」とあるので、膳所藩領であったと思われる。慶安高辻帳では田方二四三石余・畑方二四石余、永荒二一石余、大溝藩領。年貢のほかに大豆四俵、安永九年(一七八〇)より夫役四人(高島郡誌)

今市村
いまいちむら

[現在地名]守山市今市町

播磨田はりまだ村の北西に位置。寛永年中(一六二四―四四)赤野井あかのい村の山本久兵衛と川田北かわたきた村の北村又十郎が播磨田村の北西の荒野を開墾し、正保二年(一六四五)に一村をなしたという。元禄郷帳には「播磨田村之枝郷」とあり、高四六七石余で、山城淀藩領。

今市村
いまいちむら

[現在地名]豊前市今市

八屋はちや村の南東に位置する。南境を中津街道(宇佐勅使街道・上往還)が通る。江戸時代は初め小倉藩領、貞享二年(一六八五)から小倉新田藩領。元和八年人畜改帳に村名がみえ御蔵納分・御姫様分・給人分、家数一三・人数二八(うち百姓四・名子四)、牛四・馬四。延享三年(一七四六)の御案内覚帳(稲葉文書)では高三三五石余、免三ツ三厘、竈数二四、家数三六・人数一八五、牛一五・馬三。

今市村
いまいちむら

[現在地名]丸岡町今市

八丁はつちよう村の東にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では磯部北いそべきた保に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方三〇五石余・畠方一〇五石。正保二年(一六四五)に松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領となった。

安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によれば、高四一〇・〇四石で、田一二町三反、畑一町二反余。

今市村
いまいちむら

[現在地名]小国町今市

尻無沢しりなしざわ村の北、あら川右岸にある。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録に小国のうちとして「今市」とみえ、守屋監物に与えられた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一四三石余、免二ツ、家数六(うち役家三・肝煎一)・人数三〇、役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下。

今市村
いまいちむら

[現在地名]波賀町今市

引原ひきはら川の左岸に位置し、対岸は安賀やすが村、東はたに村。慶長国絵図に「いま一村」とみえる。領主の変遷は谷村と同じ。正保郷帳に今市村とみえ、田方三四石余・畠方一二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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