朝日日本歴史人物事典 「令子内親王」の解説
令子内親王
生年:承暦2.5.18(1078.6.30)
平安後期の皇族。白河天皇と右大臣源顕房の娘・中宮藤原賢子の子。摂関家の藤原師実・源麗子夫妻に養育される。応徳1(1084)年准三宮。寛治3(1089)年賀茂斎院に卜定され,康和1(1099)年本人の病気により退く。弟の堀河天皇が死去した嘉承2(1107)年,幼少の甥鳥羽天皇の准母として皇后に立てられる(非妻后の皇后)。大治4(1129)年父白河法皇の死去により出家。長承3(1134)年太皇太后となる。御所が二条堀川にあったことから二条太皇太后または二条の大宮と呼ばれた。師実夫妻に養われたことから摂関家の文化圏を受け継ぎ,斎院のころより和歌サロンが形成され,源国信ら母方の村上源氏の歌人たちも加わり,蹴鞠など華やかな雅会が繰り広げられた。また斎院を退いてのちは内裏の弘徽殿を占めたことから,令子内親王の女房歌人たちと源俊頼などとの交流が生じ,堀河天皇歌壇の一端を担う形となった。皇后となってのちは父白河上皇の後援を受け,そのサロンに白河上皇近臣の藤原顕季らの歌人も加わって歌会が開催された。この令子内親王の和歌サロンは,のちに摂関家の藤原忠通家歌壇に移行してゆく。令子内親王の許に仕えた女房には摂津(藤原実宗の娘),大弐(藤原通宗の娘),美濃(源仲正の娘)またのちに待賢門院堀河と呼ばれた六条(源顕仲の娘)などの著名な女流歌人のほか,式部,少将,女別当,右衛門佐,甲斐,丹後など後世に和歌を残す女性たちがいた。<参考文献>塚谷多貴子「皇后宮令子歌壇論」(『国語国文研究』52号)
(渡辺晴美)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報