日本歴史地名大系 「仲地村」の解説 仲地村なかちむら 沖縄県:久米島・渡名喜島・粟国島久米島町仲地村[現在地名]久米島町仲地(なかち)具志川(ぐしちやー)間切中央部に位置し、北は具志川(ぐしちやー)村、南は山里(やんざとう)村。北部から東部にかけて標高二三一メートルの大(うふ)岳ほかの山脈が連なる。オモロに「中ちあやみや(仲地綾庭)」にあると謡われた君南風殿内(ちんべーどうんち)がある。絵図郷村帳に「中地村」とみえる。琉球国高究帳でも中地村とみえ高頭三一三石余、うち田一七〇石余・畠一四二石余。康熙三〇年(一六九一)の久米具志川間切諸地頭作得帳(与世永家文書)によると、当村に里主所(脇地頭)が配置されており、采地高一七石余。乾隆一一年(一七四六)久米島検地により諸村が再編されたが、翌年の村高は田一三四石余・畠四〇石余、うち君南風大あむしられの采地八石余(「久米具志川間切諸村取納帳」同文書)。 仲地村なかつむら 沖縄県:宮古諸島伊良部町仲地村[現在地名]伊良部町仲地(なかち)伊良部島の南西部に位置し、北は国仲(ふんなか)村、南は伊良部(いらう)村に接する。村域は西の下地(すむず)島の一部を含む。当地の祭祀は伊良部村から分立したこともあって伊良部中取(いらうなかどう)御嶽や乗瀬(ぬーし)御嶽を中心に行われており(平良市史)、伊良部中取御嶽は比屋地(ぴやーず)御嶽より勧請したという。乾隆三一年(一七六六)伊良部村の北半分を割いて仲地村が建立されたという(「球陽」尚穆王一五年条)。宮古島の諸村位定では布上・石(穀)中(里積記)。明和大津波では耕地の多くを失い、砂川(うるか)間切南部の新里(あらだてい)村(現上野村)などに移住させられた者もあった(「球陽」尚穆王二〇年条)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by