日本歴史地名大系 「伊佐沢村」の解説
伊佐沢村
いさざわむら
天文七年(一五三八)の段銭古帳に「三十六〆仁百廿五文 いさゝハ」とみえ、うち一二貫四〇〇文は御中館引。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、平大学助は本領屋敷・手作地を安堵され、加恩として伊佐沢郷内の八幡田「くほの在家」・不動田・「松さハさいけ」などを与えられ、梅津又四郎は居屋敷・手作を安堵され、陣役をはじめ棟役・田銭・諸公事を免除された。大塚将監は伊佐沢郷芦沢よりの年貢一五貫文と「四郎兵衛やしき」「大石在家三分一、あくと在家一間」からの年貢三貫文に漆二盃・蝋二斤の上納を命ぜられ、芦沢の「河前在家」「岩穴在家」を与えられ、伊佐沢郷の総成敗権を認められた。「つほね
近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一千五六八石余、免四ツ一分、家数八九(うち役家四七、肝煎・小走九)・人数四八四、役木として漆・桑・紅花・青苧をあげる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報