伊作城跡(読み)いざくじようあと

日本歴史地名大系 「伊作城跡」の解説

伊作城跡
いざくじようあと

[現在地名]吹上町中原

伊作川下流域右岸沿い、北東から南西に延びるシラス台地の先端に位置し、標高七三メートルを最高地点とした山城中山なかやま城・中原なかはら城ともいう。「薩隅日三州他家古城主来由記」は一三世紀初頭の和田親純を伊作城の築城者とするが、これは和田の田中わだのたなか(和田)城を伊作城にあてたものと思われる。元亨四年(一三二四)八月二一日の伊作庄日置北郷領家地頭和与状(島津家文書)に記載がないので、それ以前には築城されていなかったと推定される。建武四年(一三三七)伊作庄の南隣阿多あた(現金峰町)の領主益山氏・古木氏らが「中原城」を構えたので、同庄地頭伊作島津氏が押寄せ攻め落した(同年八月三日「島津道意合戦手負注文」同文書)。その後南朝方が当地の坂元さかもと田尻たじり今田いまだ三ヵ所に築城し籠城したので、貞和二年(一三四六)地頭が名主ら住人と「中山城」に入り三城を攻め落し、八月南朝勢が来るとの報に領家代官と名主らは中山城に籠城した(同年九月日「伊作庄名主等連署注進状案」同文書)。この中山城は中原の東側にあり、中原城と重なる。地頭伊作島津氏は一三世紀後半に入部し、伊作川の南に地頭屋敷を構え(前掲元亨四年和与状)、一四世紀前半に宗久が合戦のなかで住民とともに当城を築き、これを本城としたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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