鹿児島県西部の市。2005年5月伊集院(いじゅういん),東市来(ひがしいちき),日吉(ひよし),吹上(ふきあげ)の4町が合体して成立した。人口5万0822(2010)。
日置市東部の旧町。旧日置郡所属。人口2万3961(2000)。薩摩半島の頸部に位置し,東は鹿児島市に接する。標高150m前後のシラス台地と西流する神之川が刻んだ谷底平地からなり,集落の多くは低位段丘面にある。伊集院は古代にこの地方に置かれた官倉のことで,のちに地域名に転訛した。日置郡衙も当地に置かれた。鎌倉時代に島津忠経が地頭として入り,伊集院氏を称し,城を築いて支配した。のち島津氏の直轄領となり,江戸初期には参勤交代で藩主が休む御仮屋も置かれた。鹿児島市に近接し,JR鹿児島本線が通じるため近年はベッドタウンとしての性格を強めており,徳重には大規模な住宅団地の造成も進展している。主産業の農業は米作が中心であるが,茶,イチゴなどの施設園芸,畜産にも力が注がれている。旧暦9月14日には関ヶ原の戦で島津義弘が敵中突破した故事にちなんで薩摩三大行事の一つ妙円寺詣りが行われる。
日置市北部の旧町。旧日置郡所属。人口1万3623(2000)。薩摩半島北西部に位置し,西は東シナ海に面する。重平山,中岳などの山地とシラス台地が町域の大半を占め,平地は中小河川沿いに限られる。南西部をJR鹿児島本線と国道3号線が,海岸沿いを270号線が通る。近世期には九州街道(西目街道)に沿う要地として栄えた。産業の中心は農業で,平地部では米作,台地上ではイチゴ,野菜,スイカの栽培が行われる。江口漁港を中心に沿岸漁業も行われ,いりこを産する。美山は近世以来の伝統をもつ薩摩焼の産地である。湯之元温泉があり,海岸は吹上浜県立自然公園に含まれる。湯田はヤッコソウ(椎などの半ば露出した根に寄生する植物)発生地(天)。
日置市西部の旧町。旧日置郡所属。人口5934(2000)。薩摩半島中西部に位置し,西は東シナ海に面する。東部は山地からなり,南部および北西部の大半は平たんな台地で集落と耕地が点在し,ほぼ中央を大川が南流する。海岸に沿って国道270号線が走る。中世は日置荘に属し,やがて島津氏の支配下にくみこまれた。近世には日置郷と吉利(よしとし)郷の2郷とされた。明治以降出稼ぎが多く,吉利賃馬とよばれた運送人夫や日置カタメ(かつぎ)とよばれた沖仲仕に従事していた。近年は鹿児島市などへの通勤者も増加している。台地上で野菜,タバコ栽培,大川沿いの低地で稲作が行われる。日置瓦,漁網の特産がある。6月6日に八幡神社で行われる田植祭は〈せっぺとべ祭〉ともよばれ,白装束の男たちが田に入って〈せっぺとべ〉と声をかけ泥を浴びせ合って豊年を祈る。
日置市南部の旧町。旧日置郡所属。人口9873(2000)。薩摩半島西岸中央に位置し,吹上浜の砂丘地帯が開け,その内側には薩摩湖などの湖沼が点在する。海岸沿いを国道270号線が通る。中世には伊作は伊作荘に,永吉は日置南郷に属し,ともに島津氏の直轄領として栄えた。江戸時代には伊作荘は伊作郷,日置南郷は永吉郷となり,伊作郷の中原には島津氏の居城亀丸城が置かれ,城下町として栄えた。基幹産業は農業で,稲作,タバコ,野菜栽培を主とし,養豚,ポンカン栽培も行われる。1979年永吉川上流に永吉ダムが完成し,台地上の畑地灌漑に利用される。吹上浜やさつま湖公園は吹上浜県立自然公園に属する。伊作川沿いに吹上温泉がある。
執筆者:吉成 直樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鹿児島県、薩摩半島(さつまはんとう)の中西部に位置する市。2005年(平成17)日置郡東市来町(ひがしいちきちょう)、伊集院町(いじゅういんちょう)、日吉町(ひよしちょう)、吹上町(ふきあげちょう)が合併して市制施行、日置市となった。市名は、かつて市域が属していた日置郡の郡名による。東は鹿児島市、南は南さつま市、北はいちき串木野市、西は東シナ海に面する。市域の大部分はシラス台地と中生層の丘陵地で、中央部を神之川(かみのかわ)が西流する。東シナ海に臨む西部は砂丘地帯で、この砂丘と背後の薩摩(さつま)湖などは吹上浜(ふきあげはま)県立自然公園に含まれる。JR鹿児島本線、南九州西回り自動車道、国道3号、270号が通り、県道20号、22号、24号、35号、37号などによって周辺都市に通じる。
中世、市域の大半は伊集院に属した。同院は、はじめ紀姓伊集院氏の勢力が強く、ついで、鎌倉時代後半に入部した地頭島津氏が台頭。室町後期には、南薩と北薩を結ぶ要衝であった当地をめぐり、島津氏同族間で対立が生じ、戦闘が行われた。この戦いに勝利した島津忠久・貴久父子は伊集院城(一宇治城(いちうじじょう))を拠点とする。のち島津本宗家の家督を継いだ貴久は、鹿児島城に本拠を移し、下谷口村(しもたにぐちむら)(伊集院町下谷口)には地頭仮屋(御仮屋)が置かれた。1709年(宝永6)に薩摩焼を鹿児島藩の重要産業として奨励・保護するため、御仮屋は苗代川村(なえしろがわむら)(東市来町美山(みやま)地区)に移り、その周辺に郷士(ごうし)集落である麓(ふもと)が形成された。現在も美山は薩摩焼の本場である。
鹿児島市に近いことから近年はベッドタウン化が進展。野菜、サツマイモ、イチゴ、茶などの栽培、肉牛やブロイラーなど畜産が主産業で、江口(えぐち)漁港の煮干しも有名。鹿児島の三大行事の一つである妙円寺詣り(みょうえんじまいり)は、関ヶ原の戦いにおける島津軍奮戦の故事にちなみ、毎年10月第4土・日に島津義弘(よしひろ)を祀る伊集院の徳重神社(とくしげじんじゃ)(義弘の菩提寺妙円寺の跡地に建つ)で行われ、参拝客で賑わう。面積253.01平方キロメートル、人口4万7153(2020)。
[編集部]
山口県北西部、大津郡にあった旧町名(日置町(ちょう))。現在は長門市(ながとし)の北西部を占める地域。旧日置町は、1978年(昭和53)町制施行。2005年(平成17)長門市と合併。日本海に臨み、大津平野の東部を占める農村地帯。JR山陰本線と国道191号が東西に走る。『和名抄(わみょうしょう)』の日置郷(ひおきごう)、中世の日置庄(へきしょう)(三条家)の地。北長門沿岸第一の米どころで、古市(ふるいち)は大津平野の宿駅、市場町として発達した。海岸一帯は北長門海岸国定公園の一部で、二位ノ浜(にいのはま)のハマオモトは自生北限地。北西部にある草原台地の千畳敷(せんじょうじき)には展望台やキャンプ場がある。また、深川(ふかわ)湾岸に黄波戸(きわど)温泉がある。
[三浦 肇]
『『日置町史』(1983・日置町)』
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…人口5185(1995)。日置川中・下流域に位置し,紀伊山地に属する山地が紀伊水道に面した海岸に迫る。蛇行する日置川の谷底に小集落が点在し,河口西岸に中心集落の日置がある。…
※「日置」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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