伊作庄(読み)いざくのしよう

日本歴史地名大系 「伊作庄」の解説

伊作庄
いざくのしよう

鎌倉時代初頭に摂関(近衛)家領として立券された庄園。現在の吹上町南部と金峰きんぽう町の一部にあたる。伊作郡は平安時代末期には島津庄の寄郡であったが、文治三年(一一八七)三月、平重澄(重純)が摂関(近衛)家に寄進(同年三月日「平重澄寄進状案」旧記雑録)、翌四年一〇月、日置南ひおきなん郷の外小野そとおの(現小野)も加えて一円庄として立券された(「伊作庄立券状案」島津家文書)。重澄の寄進の背景には一族の間で確執があったようである(建長七年一二月二五日「関東下知状」島津家文書)。当地は阿多宣澄の所領であったが、平家に与同して没官され、島津忠久地頭に補任された(建久三年一〇月二二日「関東御教書」島津家文書)。重澄と宣澄は同一人物または一族と考えられる。薩摩国建久図田帳には島津庄一円領のうちの伊作郡二〇〇町(うち大隅八幡宮との係争中の田二二町五段余)とあり、地頭は島津忠久となっている。領家は奈良興福寺一乗いちじよう院である(元亨四年八月二一日「伊作庄日置北郷領家地頭和与状」同文書)。惣地頭職は忠久―常陸後家―忠時―久経と島津惣領家に相伝され(建治二年八月二七日「将軍家政所下文」同文書など)、その後庶子家の久長―宗久―親忠―久義が受継ぎ、伊作氏(伊作島津氏)を称しこの地域を支配した(応安三年二月二三日「島津道壱譲状」同文書など)。下司職については当初重澄と則純の対立があり、元久二年(一二〇五)幕府は則純に同職を安堵した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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