伝法村(読み)でんぽうむら

日本歴史地名大系 「伝法村」の解説

伝法村
でんぽうむら

[現在地名]此花区伝法一―六丁目

中津なかつ川が下流の中洲によって伝法川と正蓮寺しようれんじ川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法きたでんぽう(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島しかんじま村。地名仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある。

当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口でんぽうぐちと称された。「陰徳太平記」によると石山いしやま本願寺(跡地は現東区)を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長一九年(一六一四)大坂冬の陣では、大坂城に籠る豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留(大阪市史編纂所蔵)所収の慶長八年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一として当地があげられている。同一〇年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。元和元年(一六一五)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同六年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永一一年(一六三四)から加子扶持七石を支給されている。寛文一〇年(一六七〇)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)

伝法村
でんぼうむら

[現在地名]富士市伝法・浅間本町せんげんほんちよう浅間上町せんげんかみちよう国久保くにくぼ一―三丁目・吉原よしわら三―五丁目・永田北町ながたきたちよう日乃出町ひのでちよう

吉原宿北西から西にかけて位置する。慶長九年(一六〇四)の井出正次手形(富知六所浅間神社文書)に「伝法」とみえ、地内の三〇石は富士下方しもかた五社別当の東泉とうせん院領であった。もと摂津の住人渡辺氏が中村一氏に仕えて当地に領地を与えられ、故郷の地名を付け伝法村と称した。元亀―天正(一五七〇―九二)頃には甲斐の武田氏の臣下が地内に移住して開拓したといい、当村の後藤氏はその後裔という(吉野家文書)。寛永改高附帳に伝法村とみえ、田方八三六石余・畑方六三四石余、ほかに樋領一二石・浅間社(現富知六所浅間神社)領三三石余・保寿ほうじゆ(現曹洞宗)領八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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