ささき‐いちぞう【佐々木市蔵】
- 邦楽家。常磐津三味線方。
- [ 一 ] 初世。初名梅津見馬。前名佐々木幸八。鳥羽屋三右衛門の門弟で、初め江戸節の三味線方であったが、のち宮古路文字太夫の相方となる。延享四年(一七四七)文字太夫が常磐津と改称のときに市蔵と改名し、常磐津節の確立と興隆に貢献。作曲にもすぐれ、「蜘蛛の糸」などの名曲を残す。明和五年(一七六八)没。
- [ 二 ] 二世。本名西村徳蔵。二世岸沢九蔵の門下。初名岸沢八五郎。のち同市蔵と改称し、天保一一年(一八四〇)佐々木姓を復活して二世となる。名人とうたわれ、「明烏」などの曲も残す。寛政一〇~文久元年(一七九八‐一八六一)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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佐々木市蔵(2代) ささき-いちぞう
1798-1861 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
寛政10年生まれ。常磐津(ときわず)節。3代岸沢式佐の門弟で,文政4年江戸市村座で初舞台。天保(てんぽう)11年2代佐々木市蔵を襲名した。「お三輪」「堀川」などを作曲。弟子に3代鳥羽屋里長(とばや-りちょう)らがいる。万延2年2月8日死去。64歳。本名は西村徳蔵。初名は岸沢八五郎。前名は岸沢市蔵(造)。
佐々木市蔵(初代) ささき-いちぞう
?-1768 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
初代鳥羽屋(とばや)三右衛門の弟子で江戸節の三味線方であったが,宮古路豊後掾(みやこじ-ぶんごのじょう)の相方をつとめ,のち常磐津(ときわず)節の創始者初代常磐津文字太夫(もじたゆう)の立(たて)三味線をつとめた。明和5年2月死去。初名は梅津(都)見馬。前名は初代佐々木幸八。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の佐々木市蔵の言及
【老松】より
…【横道 万里雄】(2)三味線声曲の曲名。常磐津節は秦の始皇帝の故事を扱い,佐々木市蔵作曲。常磐津創立時の曲。…
【岸沢式佐】より
…常磐津節三味線方岸沢派家元。初世[常磐津文字太夫]の三味線方は初世佐々木市蔵であったが,1768年(明和5)市蔵没後後継者争いが起こり,佐々木派は文字太夫と決別,代わって初世岸沢式佐が文字太夫の三味線方となった。(1)初世(1730‐83∥享保15‐天明3) 宮古路数馬太夫の三味線方右和佐古式部(うわさこしきぶ)の門弟で,初め佐々木古流・常磐津志妻太夫に従っていたが,のちに文字太夫の三味線方となり,69年に立三味線となって岸沢古式部と改名。…
【常磐津節】より
…流祖[宮古路豊後掾]は帰京してしまうが,江戸にとどまった有力な門弟のうち,豊後掾の養子となった宮古路文字太夫は43年(寛保3)から再び劇場に出演し,豊後節にくふうを加えて一流を創始した。47年(延享4)姓を関東としたが幕府より差し止められ,再度改めて[常磐津文字太夫]を名のり,志妻,小文字両太夫,三味線初世佐々木市蔵を連れて中村座に出演,ここに常磐津節が成立した。
[展開]
常磐津節成立の翌年,常磐津小文字太夫は独立して[富本]節を創始,以後両者はつねに勢力を競うことになる。…
※「佐々木市蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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