常磐津節(読み)トキワズブシ

デジタル大辞泉 「常磐津節」の意味・読み・例文・類語

ときわず‐ぶし〔ときはづ‐〕【×磐津節】

浄瑠璃の流派の一。延享4年(1747)常磐津文字太夫が創始。江戸で歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展した。時代物にすぐれ、曲風は義太夫節に近い。

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精選版 日本国語大辞典 「常磐津節」の意味・読み・例文・類語

ときわず‐ぶしときはづ‥【常磐津節】

  1. 〘 名詞 〙 浄瑠璃節の一流派。江戸浄瑠璃の祖となった豊後節の創始者宮古路豊後掾の門人であった宮古路文字太夫が延享四年(一七四七)にはじめた曲調で、彼が常磐津文字太夫と名乗ったところからの称。この曲調は、半ば唄い半ば語るもので、新内のように情緒本位ではなく、劇的であるために、歌舞伎の所作事と深く結びついて今日に至る。常磐津。〔随筆・守貞漫稿(1837‐53)〕

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改訂新版 世界大百科事典 「常磐津節」の意味・わかりやすい解説

常磐津節 (ときわづぶし)

浄瑠璃の一流派。豊後系浄瑠璃豊後節)のうち,いわゆる豊後三流の一。江戸の歌舞伎音楽(出語り)として発達した。

1734-37年(享保19-元文2)ころ江戸で一世を風靡(ふうび)した豊後節は,風紀を乱したという理由で全面的に禁止された。流祖宮古路豊後掾は帰京してしまうが,江戸にとどまった有力な門弟のうち,豊後掾の養子となった宮古路文字太夫は43年(寛保3)から再び劇場に出演し,豊後節にくふうを加えて一流を創始した。47年(延享4)姓を関東としたが幕府より差し止められ,再度改めて常磐津文字太夫を名のり,志妻,小文字両太夫,三味線初世佐々木市蔵を連れて中村座に出演,ここに常磐津節が成立した。

常磐津節成立の翌年,常磐津小文字太夫は独立して富本節を創始,以後両者はつねに勢力を競うことになる。文字太夫は順調に活躍を続けたが,1768年(明和5)に立三味線初世市蔵が死没,その後継者に初世岸沢式佐が選ばれたため,佐々木派と組んだ志妻,造酒(みき)両太夫が豊名賀と,若太夫が富士岡と改姓し一派を樹立した。ただし後者は1代で消滅,前者は3代限りで初世常磐津兼太夫のとき常磐津に再統一された。

 2世文字太夫(初世兼太夫)は造酒太夫,2世兼太夫,三味線初世鳥羽屋里長(りちよう),2世岸沢式佐という陣容で活躍するが,1791年(寛政3)に初世鳥羽屋里長が,99年には2世里長が富本へ走った。さらに同年,実力第一人者であった2世兼太夫が,常磐津一門の内政的な面を当時担当していた,太夫として実力のない常磐津芳太夫の家元第一主義のために破門され,吾妻国太夫と名のり独立するなどの紛争も起こった。国太夫は1802年(享和2)横死を遂げ,これも1代で終わった。その後しばらくは富本の勢力に及ばなかったが,文化・文政年間(1804-30)からは3世文字太夫,4世文字太夫が活躍する。

 しかし,1860年(万延1)4世文字太夫(豊後大掾)と4世岸沢古式部(5世式佐)が対立,岸沢派が袂を分けて独立した。通説では1857年(安政4)に大当りをした《三世相錦繡文章(さんぜそうにしきぶんしよう)》の功名争いをその原因とするが,《三世相》上演後2年は同席しているのでそれだけではなく,岸沢古式部に独立の意志があり,それがたまたま文字太夫との紛争をきっかけとして表面化したと推測される。分裂後文字太夫は2世佐々木市蔵を,小文字太夫は初世常磐津文字兵衛三味線方とし,岸沢古式部は太夫となり6世式佐を三味線方としたが,82年7世小文字太夫(常磐津林中)により和解が成立,その記念として《釣女》《松島》が作られている。ところが,1906年林中が死没すると両派は再度対立,7世岸沢式佐・仲助兄弟は〈新派〉を樹立した。しかし,27年の常磐津協会設立によってこれも解消された。以後は3世常磐津松尾太夫,駒太夫,千東勢太夫,3世文字兵衛らが活躍した。幕末から明治にかけて名古屋では岸沢式治らが活躍している。式治はまた玉沢屋新七と名のって常磐津等の正本を出版し邦楽隆盛に寄与した。

 1981年4月常磐津は重要無形文化財に指定され,24人が資格保持者に認定された。おもな保持者は8世文字太夫,清勢太夫,4世文字兵衛,政寿郎,文字登和,文字増らであり,近年は若い後継者も増えつつある。

男女の心情を美声で写実的に細やかに語って成功した豊後節の良さを継承し,さらに歌舞伎所作事にあうように間拍子を正確にし,時代物(合戦,仇討にいたる経緯,変化(へんげ)の見顕し等)には重厚な節を,世話物(廓話,口説,道行等)には情緒豊かな節を付けるようにくふうを加えた曲調で,豊後浄瑠璃中最も中心となるべきものである。三味線は中棹(ちゆうざお)を用いるが,胴の棹の付け根近くの撥皮(ばちかわ)の部分を皮と撥との角度を小さくして弾き,しかも糸を打つように,打った後すぐにはね返すようにする弾き方は,高い音から低い音まで,重厚な感じから軽妙な感じまでを表すことができ,これが語りを十分助けることになっている。語り口はなるべく自然な声を出し,義太夫ほど極端な誇張することなく,清元のように歌的要素を重視するものでもない。節の特徴を示すオトシは,基本的には4段階あるいは3段階に落とし,これに装飾音がつく。

宝暦~明和(1751-72)ころの初世文字太夫時代は道成寺道行に長唄とは別の曲節をつけた最初の曲である《駒鳥恋の関札》や,常磐津舞踊劇最初の大作とされる時代変化物《蜘蛛の糸》,祝儀物の《老松(おいまつ)》等がある。ほかに《伝授の雲竜》等豊後節の面影を伝える作品も多い。この期の代表的作者には壕越二三治(ほりこしにそうじ),金井三笑らがいる。天明~寛政(1781-1801)ころの2世文字太夫時代は華やかで幻想的な時代変化舞踊劇の大作《関の扉(せきのと)》をはじめ,《双面(ふたおもて)》《古山姥(ふるやまんば)》,顔見世常磐津舞踊劇の型を破ったとされる変化物ではない《戻駕(もどりかご)》,祝儀物の《子宝三番叟》等がある。その後の2世兼太夫時代は《夕霧》等がある。作者には宝田寿来,初世桜田治助,木村円夫らがいた。文化・文政(1804-30)ころの3世文字太夫時代は長唄との組合せや掛合による変化(早替り)物が多く作られた。たとえば《倭仮名色七文字(やまとがないろのななもじ)》等がそれである。4世文字太夫時代は同じ長唄との競演物でも市井の風物を素材にしたものが多く,《大和団子》《水売》等がある。作者は2世桜田治助らである。同じく天保~安政(1830-60)ころは再び《宗清》《将門》《乗合船》等の大曲が作られた。軽い曲では《屋敷娘》《どんつく》等がある。作者には3世桜田治助,三升屋二三治,宝田寿助らがいる。明治~大正ころの林中・松尾太夫時代は,謡曲,狂言仕立ての作品や義太夫物が多く,一方,明治の新作物が現れた。《竹生島》《紅葉狩》《釣女》《忠臣蔵》《伊賀越》等は前者,坪内逍遥の《お夏狂乱》は後者の例である。このほかに《戻橋》《松島》等がある。1945年以後には古典の継承のみにとどまらず,流派の枠を超えた新しい型の邦楽も作られるにいたった。4世文字兵衛の《鳴弦鹿踊》《夢十夜》等はその代表作品である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「常磐津節」の意味・わかりやすい解説

常磐津節
ときわずぶし

浄瑠璃(じょうるり)の流派名。常磐津文字太夫(もじたゆう)を始祖とする。富本(とみもと)、清元(きよもと)とともに豊後(ぶんご)三流の一つ。1739年(元文4)宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の浄瑠璃(豊後節)は幕府から禁止され、江戸に残った高弟の文字太夫は1747年(延享4)新しい流派を名のり、再出発にあたって関東と名づけたところ奉行(ぶぎょう)所から差し止められ、初め常盤津のち常磐津と改め一流を樹立した。

[林喜代弘・守谷幸則]

沿革

常磐津は創流以来内部抗争が絶えず、小文字(こもじ)太夫(1716―1764)が翌1748年(寛延1)に独立して富本節をおこし、以後両派の闘争時代が続いた。他方、1768年(明和5)初世文字太夫の立(たて)三味線であった初世佐々木市蔵(?―1768)の没後、後継者に岸沢式佐(しきさ)(2世古式部(こしきぶ))を起用したことから、門人の志妻(しづま)太夫(?―1773?)と造酒(みき)太夫(?―1783)は豊名賀(とよなか)を、若太夫(生没年不詳)は富士岡を名のり佐々木派と組んで離反独立したが、豊名賀派は1783年(天明3)常磐津に帰参し、富士岡派は一代で消滅した。その決着後、2世文字太夫の晩年には、実弟の2世兼(かね)太夫(1755―1802)が家元相続の争いから、1799年(寛政11)に離脱して吾妻国(あづまくに)太夫を名のり一派をたてたが、一代で終わった。なお1791年には鳥羽屋里長(とばやりちょう)が富本に転じている。

 幕末期の1857年(安政4)にまたもや一大紛擾(ふんじょう)がもちあがった。大評判をとった『三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう)』にまつわる功名争い、それに加えて三味線方の太夫に対する報酬配分の不満も募り、4世文字太夫(豊後大掾)と4世岸沢古式部が不和となり、1860年(万延1)岸沢派は独立し、作曲者である古式部は自ら太夫に転向して出演した。しかし1882年(明治15)7世小文字太夫(後の常磐津林中(りんちゅう))の時代を迎え両派の和解が成立、翌年その記念の曲として『釣女(つりおんな)』、1884年に『松島』がつくられた。7世小文字太夫は1886年家元家より離縁となったため林中と改名、1896年より9世市川団十郎に招かれて出勤、名人とうたわれ常磐津節の隆盛に力を発揮、一時代をつくった。その林中の没後にふたたび常磐津、岸沢両家の対立が再燃し、7世岸沢式佐と仲助の兄弟は「新派」を名のったが、1927年(昭和2)常磐津協会設立にあたりようやく解消した。明治以後の動きをみると、浄瑠璃の巧妙さでは名人とうたわれた林中にひけをとらなかった6世文字太夫が小音で声がたたなかったことから、林中の門弟3世松尾(まつお)太夫(1875―1947)が明治末年から劇場に出演し、大正・昭和初期にかけてレコード吹き込みも多く、業績を残した。そしてその子の常磐津三東勢(みとせ)太夫(1907―1983)と千東勢(ちとせ)太夫(1916―1978)、三味線方の菊三郎(1897―1976)らは劇場や放送で活躍し、第二次世界大戦後の常磐津界を支えた。1981年(昭和56)4月には、8世家元文字太夫を代表として二十数名が重要無形文化財常磐津節の総合指定を受けている。

[林喜代弘・守谷幸則]

代表作と特色

常磐津節初期創流のころには豊後掾の芸風を踏襲し、持ち味のくふうは凝らしても、大差のない似通った曲節であったと思われる。しかし歌舞伎(かぶき)劇の舞踊地としての新生面の開拓に専念するにつれて、従前の豊後節から徐々に脱皮を試み、重厚壮麗な時代物の世界に優れた実力を発揮し、明和(めいわ)期(1764~1772)には『蜘蛛(くも)の糸』、天明(てんめい)期(1781~1789)には『関の扉(せきのと)』『古山姥(ふるやまんば)』『戻駕(もどりかご)』などの代表曲が生まれた。文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~1830)には変化(へんげ)舞踊の流行に伴い、風俗描写の小品舞踊曲がつくられ、長唄(ながうた)との交流もあり、なかでも掛合い形式の『角兵衛(かくべえ)』が佳品で、いまなお単独曲として流行している。さらに天保(てんぽう)~安政(あんせい)期(1830~1860)に入って、しゃれたおかしみの作品『乗合船(のりあいぶね)』『三世相』の「十万億土」や「堕地獄(だじごく)」のほか、『将門(まさかど)』『新山姥』などの傑作もつくられた。幕末から明治にかけては義太夫種ものが常磐津化されたほか、能狂言を題材に取り入れた『釣女(つりおんな)』『紅葉狩(もみじがり)』があり、坪内逍遙(しょうよう)作の『お夏狂乱』は時代の流れの特色を反映している。

 常磐津は豊後三流のなかでも舞踊の伴奏に適したテンポとリズムが終始保たれ、発声も際だった技巧を用いず、ごく自然であり、むしろ声自体に味をきかせるところにその本領があるといえよう。

[林喜代弘・守谷幸則]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常磐津節」の意味・わかりやすい解説

常磐津節
ときわずぶし

三味線音楽の一流派。一般には単に「常磐津」と呼ぶ。豊後節から派生した浄瑠璃で,広義の豊後節の一派。創流者は1世常磐津文字太夫。師である宮古路豊後掾の始めた豊後節が江戸幕府から禁止されたため,延享4 (1747) 年改名独立して新流を開いた。初め関東文字太夫と称したが,奉行所から関東の姓を差し止められて常磐津と改めた。以後代々の家元はほとんど常磐津文字太夫の名を継ぐ。流派結成の翌年家元のワキを語っていた常磐津小文字太夫 (富本豊前掾〈1世〉 ) が独立して富本節を樹立,以後勢力争いが絶えず,分派と復帰 (合流) を繰り返した。特に万延1 (1860) 年4世常磐津文字太夫のときに起こった5世岸沢式佐を中心とする三味線方の岸沢派の独立は大きな事件であった。7世常磐津小文字太夫 (常磐津林中 ) の時代に両者の和解がなったが,死後再び分裂。 1927年常磐津協会のもとにその対立は解消した。今日常磐津の演奏家は,ほとんどが常磐津か岸沢の姓を名のる。創流以来常磐津節は歌舞伎と提携しながら舞踊音楽として発展した。その結果,舞踊に適した音楽であることを第一義とし,リズムやテンポの変化は少なく,語り方も清元節のように細かい技巧を凝らさず,発声法も比較的自然で,全体に重厚で素朴な味を特色とする。広義の豊後節のなかでは最も語り物的要素が強い。三味線は中棹を用いる。『蜘蛛の糸』『関の扉』『双面』『戻駕』『将門』など武張った豪快な時代物舞踊劇に優れた作品が多いと同時に,『乗合船』『三世相』など市井風俗を盛り込んだ陽気で滑稽な内容の曲にもぬきんでている。明治・大正期には名人常磐津林中の出現によって常磐津節は隆盛期を迎えるが,同時に明治の高尚趣味を反映した新作活動も盛んとなった。『竹生島 (→竹生島物 ) 』『紅葉狩』『釣女』『お夏狂乱』『駕屋』『狐火』『戻橋』などの名曲が生まれた。代表曲としては以上のほかに『靫猿』『老松』『角兵衛』『三人生酔 (さんにんなまえい) 』『道中双六』『宗清』『山姥 (やまんば) 』などがある。

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百科事典マイペディア 「常磐津節」の意味・わかりやすい解説

常磐津節【ときわづぶし】

浄瑠璃の流派名。江戸時代中期に宮古路豊後掾(ぶんごのじょう)が始めた豊後節は風俗を乱すという理由で幕府から禁止されたが,豊後掾の高弟宮古路文字太夫は1747年姓を常磐津(常磐津文字太夫)と改めその復活をはかり,歌舞伎と結んで舞踊音楽を受け持つことになった。これが常磐津節の起源で,明確な拍子は舞踊音楽に適し,歌舞伎から喜ばれ,以後多くの名曲が生まれた。温和で中庸を得た浄瑠璃で,清元節などより重厚,発声法も自然である。三味線は中棹(ちゅうざお)を用いる。
→関連項目富本節

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「常磐津節」の解説

常磐津節
ときわづぶし

豊後節系浄瑠璃の一つ。常盤津節と書いたこともある。江戸中期の幕府による豊後節の弾圧後,弟子の常磐津文字太夫が1747年(延享4)に語り始めた。歌舞伎音楽の一つで,中棹(ちゅうざお)三味線を使い,三味線2人,浄瑠璃3人の2挺3枚を原則とする。演奏家には常磐津・岸沢の2姓がある。浄瑠璃の発声は自然で,言葉の自然な抑揚を重視し,清元節にくらべ語りの性格が強い。1曲のなかでのテンポはほぼ一定しているが,曲の終結部分で急激にテンポを早くする傾向がある。旋律法には義太夫節の影響も多い。代表作に「将門」「関の扉(せきのと)」「戻駕(もどりかご)」「蜘蛛の糸」などがあり,市井の風俗を描いた「乗合船」「屋敷娘」「年増」,義太夫狂言をとりいれた「梅川」「お三輪」や,大作「三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう)」もよく知られる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「常磐津節」の解説

常磐津節
ときわずぶし

江戸中期,浄瑠璃節の流派
常磐津ともいう。豊後節 (ぶんごぶし) の宮古路文字太夫が京から江戸に下り,豊後節禁止後,常磐津文字太夫と改名し,再興した。江戸歌舞伎の所作 (しよさ) や狂言浄瑠璃の伴奏として欠かせぬものとなった。曲風は豊後節より上品で,拍子が明確である。

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世界大百科事典(旧版)内の常磐津節の言及

【浄瑠璃】より

… また京の都太夫一中の弟子宮古路豊後掾の曲節は江戸で豊後節として流行したが,風紀を乱すとして1731年(享保16)と36年(元文1)に自宅の稽古を禁止され,39年には一部劇場以外厳禁された。その後,門弟宮古路文字太夫が常磐津節を広め,富本豊前掾が富本節を語ったが,同系の清元延寿太夫も1814年(文化11)に清元節の流派を立てた。これを豊後三流という。…

【日本音楽】より

…なかでも浄瑠璃は江戸時代の初期に,人形と結びついた人形浄瑠璃の音楽と,歌舞伎と結びついた歌舞伎の音楽とに分かれて発展した。前者の代表は義太夫節であり,後者の代表は常磐津節(ときわづぶし),清元節などである。歌のほうは,三味線組歌を最古の三味線芸術歌曲とし,これから京坂地方の三味線歌曲である地歌が発達した。…

※「常磐津節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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