古くより水陸交通上の要地で、桂川を通じ丹波よりの材木の揚陸地であった。「延喜式」(木工寮)に、丹波材が
梅津の名は、天暦一〇年(九五六)の山城国山田郷長解(東文書)に出るが、これによると、この地に修理職の木屋がおかれ、秦氏一族が管掌していたことが知られる。
延喜七年(九〇七)九月一〇日の宇多法皇大堰川行幸に、紀貫之が記した「大堰川行幸和歌序」に「月の桂のこなた、春の梅津より、御舟よそひて、渡し守を召して、夕月夜小倉山のほとり、行く水の大堰の川辺に行幸し給へば」とある。梅津より乗船し、大堰川を遡航したのである。貴紳の山荘もつくられ、大宮人の往来も盛んであった。
「山槐記」永暦二年(一一六一)四月四日条には「大殿梅津殿御渡云々、故顕親朝臣山庄也、而召取有御造作
云々」、同八月四日条には「今朝皇嘉門院自
高倉殿
御
幸梅津殿
、中納言中将
渡給云々」とあり、梅津殿とよばれる山荘があったし、関白藤原忠通の山荘もこの地にあり、忠通は「長安十二衢辺宅、都督納言昔引
朋、西北亀山郊県外、東西鴈塔両三層、立望
仙洞
雲披閲、老訪
禅林
嵐響応、桂水梅津尤有
意、花如
白浪
月如
水」(本朝無題詩)ほか、梅津の情景を多くの詩に詠んでいる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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