佐治村(読み)さじそん

日本歴史地名大系 「佐治村」の解説

佐治村
さじそん

面積:七九・八九平方キロ

八頭郡の西端に位置し、東は用瀬もちがせ町、北は河原かわはら町、西は東伯とうはく三朝みささ町、岡山県苫田とまた上齋原かみさいばら村、南は同郡加茂かも町・阿波あば村および用瀬町に接する。かつて阿波村とは八本はちほん越・険所けんそ峠を越えて交流があった。当村南西端の辰巳たつみ峠に源を発し、村内を東流する佐治川は急峻なV字谷を形成し、河川の両岸に集落が発達した。村域は古くから「佐治谷七里」といわれるが、東西一六キロ・南北八キロで、西部には高鉢たかはち山・三国みくに山など標高一二〇〇メートル級の山がそびえ、周辺にはトチ、ブナなどの原生林が残る。佐治川南の三原みはら台地や北の棚原たなばら台地などの高原があり、山陰・山陽の分水嶺を形成する山々が連なる。村名は古代の佐治郷に由来し、日本の三大愚か村話の一つに数えられる佐治谷話が伝わる。

葛谷かずらたにの集落からは縄文中期の深鉢や後期の鉢・石鏃が出土。飯盛いもり(五六〇・一メートル)の南斜面の大段おおだんでは磨製石斧、はたのイヤノだにでは呪術・祭祀に使われたとみられる石棒が採集されており、いずれも縄文時代の遺物と考えられる。大井おおい古墳群にある大井三号墳の周辺は弥生中・後期から古墳時代にかけての遺跡で、弥生式土器・柱状片刃石斧・石包丁が出土。金鋳原かないばら遺跡や大井聖坂おおいひじりざか遺跡、高山の一軒原たかやまのいつけんばら第三遺跡からは弥生後期頃の土器を検出。これらは古墳時代の遺跡でもあり、集落遺跡の大井聖坂遺跡からは墨書土器も出土。ほかに古墳時代の遺跡として、葛谷古墳群・一軒原第一―第三遺跡・高山古墳群・貝尻かいじり古墳がある。

律令制下において、当村域は「和名抄」にみえる智頭ちず郡佐治郷に比定され、明治二九年(一八九六)の八頭郡の成立まで智頭郡の所属であった。奈良時代を中心とした遺跡も多く、葛谷遺跡は縄文期から奈良期に至る遺跡で、刈地鳥居原かるちとりいばら遺跡は奈良・平安期の集落とみられる。

佐治村
さじむら

[現在地名]青垣町佐治

村中を佐治川(加古川)が流れ北は小和田こわだ村、南は岩屋いわや(七一八・三メートル)。山陰道(京街道)が通り播磨への往還が分岐する。新町しんまち中町なかんちよう上町かみんちよう横町よこちよう上浦町かみうらまち・下浦町・東角とうがく下市場しもいちばよりなる。古代佐治郷(和名抄)、中世佐治庄の遺称地。「延喜式」兵部省に山陰道佐治駅がみえる。星角ほしずみ駅と但馬国粟鹿あわが駅の間に位置し、国境の遠坂とおざか峠を控え駅馬八匹が置かれた。佐治・中佐治付近に比定されているが、遺跡は発見されていない。

丹波が羽柴秀吉の支配下に入った天正一〇年(一五八二)六月、「佐路市場」に羽柴長秀(秀長)が禁制(小島文書)を掲げている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報