佐治郷(読み)さじごう

日本歴史地名大系 「佐治郷」の解説

佐治郷
さじごう

和名抄」にみえる智頭ちず郡佐治郷を継承した中世郷。郷域は現在の佐治村全域に比定される。開発は古代から行われていたが、本格的なものは鎌倉時代になってからと推定され、その担い手尾張氏を祖とする開発領主佐治氏であった。「因幡志」によると、当地で切明きりあけ大明神として尊崇されている佐治四郎はまず郷内苅地かるちを開き、次いで加瀬木かせぎに開発を進め、徐々に奥部に向かい栃原とちわらにまで至ったという。そのため江戸後期になっても苅地を「一ノ小屋」、加瀬木を「二ノ小屋」とよんだと伝える。

〔鎌倉期の所領相論〕

建暦三年(一二一三)と推定される年欠七月三〇日の関東御教書案および同年と推定される後欠の同御教書案(ともに東洋文庫所蔵弁官補任裏文書)に因幡国「佐治郷」とみえるが、これらは同国御家人佐治四郎重貞が「佐治郷司地頭等職」について相論を起こした際のものである。これによれば重貞に至る佐治氏は佐治郷の郷司職を代々相伝していたと考えられ、重貞は父道貞より当郷を譲与されたが、幼少であるため兄安貞(曳田太夫康貞)が当郷の沙汰をすることになった。しかし安貞は重貞の成人後も所務を返さず自分の息子重久にこれを譲ったため、重貞は佐治郷の返付を求めて鎌倉幕府に訴え出た。幕府は重貞の主張を認め同年一一月三〇日佐治郷地頭職を安堵しているが、重貞勝訴の背景には同年五月に発生した和田義盛の乱に際し、重貞が北条義時方として勲功をとげたことがあげられる(「関東下知状案」同文書)。西国に本領をもつ御家人の所領が地頭職として幕府から安堵されている例はまれとされるが、佐治氏は代々相伝してきた佐治郷の所職を勲功の賞によって地頭職として安堵されている。

佐治郷は佐治川を挟んで北方南方に分れていた。正嘉二年(一二五八)七月二三日に尾張忠重が譲与されたのは佐治郷の「かハよりみなみの、ちとう」で(「某譲状」因幡民談記)、これがのちの佐治郷南方にあたると考えられる。


佐治郷
さじごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・名博本は「佐治」、東急本は「佐沼郷」とする。ともに訓を欠く。平城宮跡出土木簡に「佐治郷猪甘部君□庸」と記すものがあるが、「和名抄」には因幡国智頭ちず郡にも同名郷が載り、いずれをさすか不明。現青垣あおがき町佐治が遺称地。山陰道が通り但馬国との境をなす遠坂とおざか峠をひかえ、佐治駅が置かれた。


佐治郷
さじごう

「和名抄」高山寺本は「佐治」、東急本は「佐沼」と記し、ともに訓を欠く。平城宮跡出土木簡に「(佐)治郷猪甘部君□」とあるが、当郷をさすかどうかは不詳。現佐治村の佐治川流域一帯に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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