佐賀郷
さがごう
古代令制下の海部郡佐加郷(和名抄)の系譜を引く中世の郷で、現佐賀関町全域および大分市の坂ノ市・木田・久原・東上野・細一帯に比定される。元暦元年(一一八四)七月佐賀惟憲らは平家方の宇佐宮宝殿などを破却したが(「吾妻鏡」文治元年一〇月一六日条)、その復興(仮殿造営)に際して作成された宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)に郷名がみえ、置路甃六八丈五尺のうち若宮鳥居内三丈など九件に及ぶ一国役を命じられている。佐伯庄とともに諸郷庄中最大の負担である。なお惟憲はこの乱暴狼藉により配流となったが、文治元年(一一八五)一〇月赦免された(「吾妻鏡」前掲条)。佐賀惟憲は佐賀郷を名字の地とする武士で、当郷を知行していた(年未詳「賀来社年中行事次第」柞原八幡宮文書)。豊後国弘安田代注進状には「国領佐賀郷 地頭相模守殿、佐賀関拾壱町 関宮殿、地頭大友兵庫頭入道殿」とある。豊後国弘安図田帳は脱文があり、「国領佐賀郷百五十町 地頭職亀谷刑部大輔」となっている。
佐賀郷
さかごう
「和名抄」に「佐賀」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今ノ新治郡坂村ナリ」とあり、現新治郡出島村坂に比定する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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