佐野郡
さやぐん
遠江国の中央部東寄りに位置、古代から中世にかけての郡域はほぼ現在の掛川市から袋井市の東部に相当する。
〔古代〕
「続日本紀」養老六年(七二二)二月一六日条によると、「遠江国佐益郡八郷」を割いて初めて山名郡を置いたという。立郡当初はのちの山名郡の地域(和名抄では六郷)をも含んでいた。この記事や天平一〇年(七三八)の駿河国正税帳(正倉院文書)など奈良時代の史料では「佐益」と表記されている。「和名抄」名博本などでは「サノ」の訓がみえるが、「佐益」という表記からみても「サヤ」と読むべきである。
佐野郡近辺では逆川・原野谷川流域にそれぞれ七六〇基・五〇〇余基の古墳が五世紀以降に造られており、全体として一つの地域圏をなしていた(静岡県史)。「国造本紀」には、遠淡海国造・久努(くの)国造に続いて「素賀国造」の名がみえ、逆川の南、のちの曾我庄(現掛川市)を本拠としたと考えられている。「和名抄」には山口・小松・邑代・幡羅・日根・駅家の六郷が掲載されている。郡家は袋井市の坂尻遺跡、掛川市の原川遺跡・梅橋北遺跡などが候補となっている(静岡県史)。坂尻遺跡からは「佐野厨」「日根駅家」などの墨書土器が大量に出土。条里は逆川・原野谷川流域に復原されているが、これは西方の山名郡・周智郡域にもまたがる三郡統一の広域条里で、郡内を東西に走る東海道がその東西基準軸とされたと考えられている。「延喜式」では横尾駅に一〇疋の駅馬、佐野郡に五疋の伝馬が設置されていた。その東端には、平安時代に歌枕として詠まれた難所佐夜中山(小夜中山)があり、蓁原郡との境をなしていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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