保田町(読み)やすだまち

日本歴史地名大系 「保田町」の解説

保田町
やすだまち

[現在地名]安田町保田

阿賀野川右岸に位置し、北は寺社じしや村、東は籠田かごだ村・福永新ふくながしん村・沢田新さわだしん村、南は久保くぼ村・新保しんぼ村、西は野田のだ新田に接する。古くは安田と記したが、貞享二年(一六八五)に保田に改められた(正徳二年「村鑑帳」安田家文書)。安田ダシ(阿賀野川の峡谷から吹く南東風)による大火が多かったためという。中世白河しらかわ庄地頭大見氏、次いでその子孫の安田氏の支配下にあった。文永九年(一二七二)八月二五日の鎌倉将軍家(惟康親王)政所下文(大見安田氏文書)に「白河庄上条内安田条」とみえ、同七年一〇月二一日に大見時実より子の平若鶴丸(頼資)へ譲られた安田条地頭職が安堵されている。乾元二年(一三〇三)六月二九日、頼資は次男名徳に安田条のうちの一部を、長女摩尼王に安田条のうちの岩鷲の田・在家を譲る(「大見頼資所領配分目録」同文書)。元亨二年(一三二二)三月七日、上条惣領資家の代官平連資は白河庄上条分の伊勢神宮役夫工米の所課を庶子配分(「平連資大神宮役夫工米配分状案」同文書)、そこに「安田 拾四町半、延定、三拾一丁弐段六十歩」とある。正中二年(一三二五)二月八日、資家は子息資宗に安田条などの地頭職を譲る(「大見資家譲状」同文書)。この後、資宗は安田条をめぐって家兼(時実の弟である行定の孫)を訴えているが(「大見・小諸両氏所領相伝系図」同文書)、結果は不詳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報