惟康親王(読み)コレヤスシンノウ

精選版 日本国語大辞典 「惟康親王」の意味・読み・例文・類語

これやす‐しんのう‥シンワウ【惟康親王】

  1. 鎌倉幕府第七代将軍。後嵯峨天皇の孫。第六代将軍宗尊(むねたか)親王の子。文永三年(一二六六)、三歳で将軍職を継ぐ。源姓を受けて臣籍に下ったが、のち親王宣下を受けた。文永元~嘉暦元年一二六四‐一三二六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「惟康親王」の意味・わかりやすい解説

惟康親王
これやすしんのう
(1264―1326)

鎌倉幕府第7代将軍。第6代将軍宗尊(むねたか)親王の子。母は前摂政関白(せっしょうかんぱく)近衛兼経(このえかねつね)の女(むすめ)宰子。1266年(文永3)父宗尊親王が北条時宗(ときむね)のために将軍の地位を追われた後を受けて征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、70年に元服、ついで臣籍に下り源姓を賜った。79年(弘安2)正二位、87年中納言(ちゅうなごん)兼右大将(うだいしょう)。同年皇籍に復し、親王宣下(しんのうせんげ)を受けた。89年(正応2)北条貞時(さだとき)のため将軍の地位を追われ、帰京して嵯峨(さが)で出家、晩年の惟康親王については知るべき史料なく、嘉暦(かりゃく)元年、63歳で世を去った。

[新田英治]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「惟康親王」の意味・わかりやすい解説

惟康親王
これやすしんのう

[生]文永1(1264).4.29. 鎌倉
[没]嘉暦1(1326).10.30. 京都
鎌倉幕府7代将軍 (在職 1266~89) 。父は後嵯峨天皇の第2皇子で第6代将軍となった宗尊親王。母は摂政藤原兼経の娘宰子。文永3 (66) 年父宗尊親王が北条時宗に追われたあとをうけ,3歳で征夷大将軍となり,文永7 (70) 年には臣籍に下り勅旨をもって源姓を賜わった。その後左近衛中将右近衛大将を歴任し,弘安 10 (87) 年親王に復して二品に叙せられたが,正応2 (89) 年執権北条貞時に将軍を退けられて京に帰り,嵯峨に住し,出家して生涯を終えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「惟康親王」の解説

惟康親王 これやすしんのう

1264-1326 鎌倉幕府7代将軍。在職1266-74。
文永元年4月29日生まれ。3年執権北条政村(まさむら)によって父の6代将軍宗尊(むねたか)親王がしりぞけられたあと,3歳で7代将軍に任じられる。弘安10年右近衛(うこんえの)大将,親王となる。正応(しょうおう)2年執権北条貞時(さだとき)に将軍の座を追われた。嘉暦(かりゃく)元年10月30日死去。63歳。

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367日誕生日大事典 「惟康親王」の解説

惟康親王 (これやすしんのう)

生年月日:1264年4月29日
鎌倉時代後期の鎌倉幕府第7代の将軍
1326年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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