信貴山(寺)(読み)しぎさん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「信貴山(寺)」の意味・わかりやすい解説

信貴山(寺)
しぎさん

奈良県生駒(いこま)郡平群(へぐり)町信貴畑(しぎはた)、信貴山の南東中腹にある信貴山真言(しんごん)宗の総本山。正式の名は信貴山歓喜院(かんきいん)朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)であるが、一般には信貴山、「信貴山の毘沙門(びしゃもん)さん」の名で親しまれている。本尊毘沙門天開基の時期は不明であるが、寺伝では587年(用明天皇2)に聖徳太子物部(もののべ)氏討伐のために河内(かわち)(大阪府)稲村城に向かう途中、当山上で毘沙門天を感得し勝利を祈願。のち物部守屋(もりや)との戦いに勝利を得たので、太子は当地に毘沙門天を祀(まつ)り、信ずべき貴ぶべき山、すなわち信貴山と称したのが当寺の起源と伝えられている。712年(和銅5)以後一時荒廃したが、延喜(えんぎ)年間(901~923)命蓮(みょうれん)が再建し中興となった。その後、皇室武家の尊崇厚く、楠木正成(くすのきまさしげ)は、母が当寺の毘沙門天に祈って誕生したので幼名を毘沙門天の別名多聞(たもん)天からとって多聞丸と名づけたと伝える。中世以後は興福寺の末寺となる。1577年(天正5)織田信長が松永久秀(ひさひで)の信貴山城を攻略したときに当寺も焼失したが、1602年(慶長7)豊臣秀頼(とよとみひでより)が再建し、徳川氏も外護(げご)した。江戸時代以降は金剛峯寺(こんごうぶじ)末寺となるが、1951年(昭和26)信貴山真言宗として独立した。広大な境内には、懸造(かかりづくり)による豪壮な本堂、朱塗りの三重塔、多宝塔など多くの堂宇塔頭(たっちゅう)がある。寺宝の『信貴山縁起絵巻』(国宝)は、命蓮の徳行と毘沙門天の霊験(れいげん)を説いた物語で、絵画上の優品。そのほか、武具類、金銅鉢などの国重要文化財、楠木正成の甲冑(かっちゅう)類など多数を蔵する。本尊の毘沙門天は開運、心願成就の仏として信仰され、縁日の寅(とら)の日にはとくに参詣(さんけい)者が多い。正月初寅の日に初寅大法要、7月3日に毘沙門天王御出現大祭が行われる。

[祖父江章子]

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