「甲」は「カフ」と入声音に表記されていても「カッ」と促音に発音することがある。
戦士が胴部と頭部の防御具として着用する甲(よろい)と冑(かぶと)の総称。時代とともに,その素材は皮革などから金属に変わり,戦士の〈命を守る〉ことを目的として,堅牢度や機動性を高めるために,さまざまの改良が加えられたが,銃砲類が戦場に登場するにいたり,急速にその実用性は失われていった。
日本の場合,古墳時代の遺存例の大半は,鉄製甲冑であるが,まれに,鉄地金銅張り製,金銅製のものがある。また,弥生時代後期には木製短甲,古墳時代においても革製甲冑が確認されている。さらに,諸民族の例にみられた樹皮や皮革などでつくった胴甲の存在も考えれば,遺存しにくい有機質の甲冑が普及していた可能性を否定することはできない。古墳時代の甲には,短甲と挂甲(けいこう)がある。短甲は各種の鉄板をつないでつくった短い甲で,腰から上を覆う。主として,4世紀から6世紀前半にかけて用いられた。最初,鉄板を革紐で綴じ合わせていたが,5世紀中葉以降は,鉄鋲で留めるようになる。一方,挂甲は短冊形の小札(こざね)を革紐や組緒で威(おど)してつくっているため,短甲に比べて動きやすい。騎馬の風習と関連して5世紀中葉に出現し,正倉院に伝わる挂甲を経て平安時代の大鎧へと変化する。冑には衝角付(しようかくつき)冑,眉庇付(まびさしつき)冑のほかに,小札を革紐で綴じ合わせた冑が4世紀代にある。衝角付冑は5世紀から奈良時代に近い時期まで用いられているが,眉庇付冑は5世紀中葉以降の限られた期間のものである。甲と冑の組合せについては,出土例からみると,衝角付冑は短甲・挂甲に,眉庇付冑はほとんどの場合短甲に伴っており,甲冑の系統から考えられる挂甲と眉庇付冑という組合せの少ない点が注意される。付属具については,冑の場合,頸部を守るための錣(しころ)が伴う。甲には,頸鎧(あかへよろい),肩鎧,籠手(こて),草摺(くさずり),臑当(すねあて)などがあり,なかには,草摺のように革製漆塗の例が確認されているものがある。草摺は挂甲の場合,胴部の小札に続けて縅し,一体のものとしてつくっていることが多いが,この小札草摺の部分だけが短甲に付属することがあるというように,本来は挂甲に付属するものが,短甲に伴うこともある。埴輪では,5世紀代に短甲や衝角付冑をかたどったもののほかに,肩鎧や草摺までも表現したものがある。6世紀以降になると,衝角付冑,挂甲を着用した武人埴輪がみられる。なお,和歌山市大谷古墳では馬甲と馬面が出土したが,近年,朝鮮半島でそれに先行する時期の古墳からも出土しており,注目される。
執筆者:小林 謙一 律令制下における短甲・挂甲は官製の甲冑で,諸国の府庫に納められ,私蔵が禁じられていた。その材料,製造法は《延喜式》に記載されており,平安時代前期まで用いられたことが知られるが,形状・意匠とも変化は少なかった。一般に日本では,短甲・挂甲に対しては〈甲〉を,以後のものに〈鎧〉の字を当て,前者に付属する〈かぶと〉には〈冑〉,後者に付属するものに〈兜〉の字を用いる。9世紀末から荘園が大規模に発展し,律令制が崩れると,地方に土着した受領層を核に武士団が勃興した。この頃から戦闘の形態,そして甲冑にも変化が起こる。ことに東国では各地に牧があり,馬が飼われ武力が蓄えられていたが,運送に従った業者が〈僦馬(しゆうば)の党〉と呼ばれる群盗となって横行するなど治安が乱れ,騎馬と弓射を中心とする戦闘が各地に行われた。武士団として最初の大規模な反乱となった平将門の乱(935-940)では,将門が常陸の国府を襲って武器を奪い,馬の機動性を利した弓射戦によって短時日のうちに関東を制圧した。また前代から引き続き行われてきた東北の経営は,弓馬の戦闘に長じた〈蝦夷〉によって失敗を繰り返していたが,東国武士団の成長とともに彼らが動員され,いっそう騎射の戦闘が重要となった。こうした戦闘形態の変化とともに甲冑もまた大きく変貌する。また954年(天暦8)武器私有の禁令が出されており,10世紀中ごろまでには広く武器武具が私蔵されるようになっていたことが知られる。
戦闘形態が騎射戦を中心とするものとなり,武士が甲冑を私蔵するようになって,騎馬・弓射に適した形状と武士の好みを反映した意匠をもった鎧が作り出された。騎乗の安定と騎射への適応を図るため,挂甲のゆるぎ札から,小札は各段横綴じして板状に漆で塗り固めて小札板とし,伸縮性を有するよう縦取り威(縅)(おどし)から縄目威となり,裾は前後左右四間の草摺に分けられた。また,冠板などの金具廻りによって防御性を高め,両肩の肩鎧は幅広の楯状に変化し,大袖となった。左手に持たれていた手楯は小型化して鳩尾(きゆうび)板となり,栴檀(せんだん)板とともに胸部と高紐(たかひも)の空隙を防御する装置となった。鎧を肩につる綿嚙(わたがみ)(肩上(わたがみ))に障子板を立てて頸部を保護し,胴正面から左脇にかけて弦走韋(つるばしりのかわ)を張って,弓射の際,小札が弦の邪魔にならないようにしている。さらに挂甲が正面で右衽(みぎまえ)の引合せとなって,左右から両脇・背面までひと続きとなっていたのに対し,鎧は衝胴(かぶきどう)(胴廻り)を前面・左脇・背面とつらね,右脇の闕(あき)に,壺板に蝙蝠付(こうもりづけ)をもって草摺一間を垂れた脇楯(わいだて)を当てる。早く《類聚三代格》弘仁6年(815)条に〈脇楯,小手,脚纒(きやはん)〉の名が見え,9世紀にはすでに式正鎧(しきしようのよろい)(大鎧)が成立していたとする見方もあるが,この脇楯が伝存する鎧の脇楯とどう一致するかは明らかではない。このように騎射の戦闘に便で,短甲の板金の堅牢性と,挂甲における裲襠(りようとう)式小札の伸縮性を合わせ,また文化・風俗が国風化する中で大陸的な形式から和様化して形成されたのが鎧である。こうした古式を伝える遺品としては,愛知県猿投神社の《樫鳥糸威鎧》がある。これら鎧には衝角付冑にかわって星兜が付属した。鉄板を縦に矧(は)ぎ合わせ大きな鋲(星)を打つことからこの名があり,天辺(てんひん)の孔を大きくあけ,後ろに𩊱(しころ)を垂れて頸部を保護し,正面左右の端は吹き返して染韋(そめかわ)で包んだ。
鎧の形状・機能性が武士の実戦経験から形成されたのに対して,平安時代後期になると武士が中央に進出し,甲冑の意匠に貴族的趣味が反映されるようになった。末期の源平時代には,豪壮華麗をきわめた日本的甲冑の一頂点を迎える。小札板を威す威毛は染韋や組糸をもってし,漆塗の革札の要所に鉄札を配して,都門上﨟(じようろう)の小袿(こうちぎ)(袿)の重ね色目にも比較されるような,優雅な意匠が施された。また鍍金や銀による金物が菊,蝶,扇面,車輪などをかたどって,鳩尾板,栴檀板や大袖の化粧の板,菱縫の板,また草摺の裾板などに打たれた(裾金,据金物)。この時代は,単なる防御武器であった鎧に重要な伝統的認識,一門の結合の象徴的意義が付加されるようになり,美術的にも優れた作品が作られるようになって,名甲と呼ばれる鎧が現れた。源氏には月数,日数,源太産衣(げんたうぶぎ),八竜,沢瀉(おもだか),薄金,楯無(たてなし),膝丸など,平家には唐皮,薄雲などの鎧が重代の名甲として知られた。こうした大鎧の優品として伝存するものに,東京都御岳神社の畠山重忠寄進と伝える赤糸威鎧,広島県厳島神社の伝源頼朝奉納小桜威鎧,愛媛県大山祇神社の伝河野通信奉納紺糸威鎧などがある。
平安時代に形成された鎧は騎乗用に整えられ,大型化しまた華麗な装飾が施されて武将の武威を表したが,徒歩の従卒用には軽快な胴丸が作り出された。脇楯を用いず胴を右脇で引き合わせ,草摺は歩行しやすいように八間と細かく分け,肩に杏葉を当てて防御した。さらに簡略軽快な造作で小型化した腹巻も生まれた。これは胴を背面で引き合わせ,草摺を七間あるいは五間に作り,丈も短く衣の下に着込まれることもあった。またいっそう簡略化して胴の前半部のみを防御したものが腹当である。しかし右脇引合せの胴は中世初頭から多く用いられており,当時の記録ではこれを腹巻と呼んでいる。その後,室町時代に当世具足が起こった頃に混乱し,胴丸と腹巻の呼称を取り違えて今日にいたったとする見方もある。
鎌倉幕府は全国に御家人を配備したが,これに従って西国武士の間でも鎧が多く用いられるようになった。やがて胴丸に大袖,筋兜を付して武将も用いるようになり,大鎧はしだいに威儀化していく。こうした中で文永・弘安(1274,81)両度の元寇(モンゴル襲来)が,戦法と武具に大きな影響を与えた。元軍の集団戦法は従来の弓射と一騎打ちという武士の戦いを覆し,集団戦における軽快な活動性が甲冑にも求められ,胴丸や腹巻が主要なものとなった。続く南北朝の争乱では,大軍による集団戦に対して山岳戦法がとられ,甲冑はよりいっそう軽快さを求められることになった。腹当を拡大し草摺を付して背面で引き合わせる腹巻が盛行し,これにも大袖,筋兜を付して武将の間でも着用され,大鎧はまったく威儀化する。
室町時代には応仁の乱(1467-77)後,全国に群雄が割拠し,戦国の争乱に突入した。戦国大名は従来の騎射戦に対して,歩兵による大軍を運用して戦い,槍が多く用いられることになった。そして団体戦において簡略で同一形式の具足の量産が必要となる一方,各武将はそれぞれ自己の存在を示す旗差物,誇張された兜の前立,そして個性豊かな甲冑をもって自己主張する。こうして伝統にとらわれない当世具足が生まれ,従来の鎧は昔具足と呼ばれた。その中にあって,1543年(天文12)種子島に鉄砲が伝えられると,戦法・防御武器ともに大きな変化を余儀なくされた。槍と鉄砲は甲冑の材料をより堅固な鉄の多用化へ向かわせ,南蛮鎧(西洋の甲冑)の渡来がこれに拍車をかけた。鉄の多用は重量を増したので,虚飾的な装飾金具は極端に整理され,重量を支えるため綿嚙に肩当,襟廻りなどが付された。小札,威毛も合理的に整理されて板札,素懸(すがけ)威となり,さらに小札2枚・3枚分をまとめた伊予札,切付札から各段横板状になった最上胴(もがみどう),桶側胴(おけがわどう)が生じた。またいっそうこれを発展させたのが一枚板による仏胴,南蛮胴である。従来右脇あるいは背面で引き合わせた胴も,鉄板による固定化した形態のために蝶番(ちようつがい)が付され,前後2枚となる二枚胴,縦割を加えた四枚胴,五枚胴が作られた。袖も動作の敏速性を要求されて,大袖から中袖,壺袖へと小型化し,綿嚙に鞐(こはぜ)留めして前後の揺れを防いだ。
桃山時代には豪壮華麗な時代風潮を反映して絢爛たる加飾が施され,金箔押,銀箔押小札,文様打出胴,蒔絵を施した金具廻りなどがあり,小札を革包みして漆塗を施すなど多種多様となった。兜も室町時代には阿古陀(あこだ)形(カボチャの形)の筋兜が盛行したが,天辺の孔のない桃形,椎の実形や烏帽子形,頭巾形,唐冠形,さらに器財や山岳をかたどるなど各種各様で,そのうえ前立も鍬形のほかに脇立や後立を立てたり鹿角,水牛角など各種のものをかたどって,個性豊かな自己表現が盛んに行われた。しかし江戸時代に入って戦乱が終息すると,形式的な踏襲が行われ,技術的には一段と緻密化するものの,実戦とはかけ離れてゆき,一方で故実の研究が盛んとなって大鎧,胴丸など復古的な模造復原が行われた。
なお甲冑の工人は,古くは甲作(よろいづくり),鎧作と呼ばれ,近世には物具細工(もののぐざいく),具足細工あるいは鎧師,具足師などと呼ばれた。彼ら工人が銘を刻み,流派を唱えるようになるのは戦国時代にいたってからで,奈良の岩井派,春日派,紀州の雑賀(さいが)派,京都の明珍派などが隆盛となった。その中でも徳川将軍家のお抱え具足師となった岩井派の岩井与左衛門や,刀装具にも手腕を発揮した明珍派の信家などが著名である。
→冑,兜 →当世具足 →胴丸 →腹巻 →鎧
執筆者:鈴木 友也
甲冑は民族と時代によって著しい特徴を示し,製作技術によって規定されると同時に,攻撃用武器や戦法の変遷に対応して発達した。甲冑の歴史を通じて,重量と防護の完璧性の点で発達の極点に達したのは中世末期で,17世紀初頭からは急速に軽装化,次いで廃止の方向をたどった。歴史的に,甲冑のうち頭部を保護する兜(冑)が早く現れ,また長く存続する傾向がある。身体に密着する防具のあり方は,身体から離して携帯操作する楯との関係に規定された。耐え得る重量の限度や活動の自由の制約だけでなく,強い衝撃に耐える点でも,楯の方が効果的であったからである。
古代オリエントの事情にはよくわからない点が多く,彫刻や絵画から推測するほかない。きわめて古い例では前24世紀に牛角の付いた円錐形の兜を戴いた王の像があるが,実戦用の防具なのか権威の象徴なのか定かでない。エジプトの図像には,上縁が半円形でしかも円形ののぞき窓の開いた大きな楯を携える槍兵が見られるが,弓兵は楯をもたず防具らしいものも着用していない。ギリシアでは,ホメロスの叙事詩に登場するアカイアの兵士たちは,青銅の胸甲を帯びている。古典期,諸ポリスの民主政治の担い手であった市民は,重装歩兵(ホプリテス)として出陣した。彼らの標準装備は兜,胴鎧,脛当,楯であり,武器として槍と剣を携えた。青銅製の兜には,下部を延長して頰や鼻梁を保護できるように工夫したものや,自由に上げ下げできる眉庇をつけたものもあった。頂部に美しく染色した馬毛を配して装飾とした。胴鎧は青銅の胸甲と背甲からなり,肩と両脇を留金や尾錠でとめた。下端には革製の草摺を垂らして大腿部を保護した。楯は,はじめ木枠に皮革を張ったものであったが,金属製となると同時に小型化が進んだ。このような重装備の歩兵が密集戦列を組むのが,当時の戦術の基本であった。ただし,武器武具ともに自弁が原則であったから,装備は斉一化されるとは限らず,貧しい戦士は兜と脛当を着けるだけで胴体の保護はもっぱら楯に依存したのである。
ローマ人はギリシアの甲冑を踏襲することから出発したが,軍制の著しい整備と,大帝国版図内諸民族の習俗や技術の採用によって甲冑にも発達が見られた。共和政期には軍団正規兵の武器として槍(ピルム)が一般化したが,構造が強化されたため貫徹力は古い型の槍(ハスタ)に比べてはるかに大きい。これはもっぱら投げるための武器で,その後近接戦で初めて剣を用いたのである。これに対応して,楯は円形ないし楕円形から半円筒形に近い,反りのついた長方形に変わり,また脛当が廃止された。ローマ時代における大きな進歩は,一方では鎖帷子(くさりかたびら),他方では小札鎧の登場である。前者はケルト起源,後者はイベリア起源と言われている。ことに後者(ロリカlorica)は金属や皮革の小片を重ね合わせて紐で連結した精巧なもので,帝政期の軍団正規兵の胴体と肩を保護した。この段階で,後世の甲冑の構造原理はほとんど出尽くしたと言ってよいが,ただ古代には両腕は露出したままである。
ゲルマン系諸民族は剣や投槍のほか,戦斧を重要な武器として用い,これに対応する防具はもっぱら楯であった。初めは柳の枝を編み上げた上に皮革を貼った長方形の大きな楯を用いたが,のちに鉄板を張った円形の,表面にいくつか突起をつけた楯が出現する。
バイユーのタピスリーはノルマン・コンクエスト(1066)の情景を描いた長大な絵巻物で,当時の,少なくとも製作当時(12世紀初め)の甲冑を知る貴重な材料である。すでに,そこには長槍を構えた騎士の突撃戦が描かれているが,騎兵歩兵を問わず甲冑はまだ比較的簡単である。戦士たちは円錐形の兜をかぶっていて,その前面中央から伸びた舌片が鼻梁を保護している。ワンピース型の長衣についている網目状の模様は,それが鎖帷子,あるいは一面に金属片を縫いつけてあることを示している。袖は前腕の半ば,裾は膝頭に達し,前後にスリットが入っている。脛当らしきものは見当たらない。上が丸く下のとがった縦長の楯を携えている。中世初期の装備は,一般には厚手に織り上げ,場合によってはキルティングを施した戦衣に若干の金属片や環を縫いつける程度であったと考えられている。鉄環を精密に連結した鎖帷子が普及するのは12世紀で,14世紀まで体軀防護の一般的な形式であった。これに接合する兜には,円錐形で縁から鎖帷子を垂らして頰から下顎に至る部分を覆う形式や,円筒形で首から上を完全に覆い隠し,のぞき窓を開ける形式のものがあった。年代的には円筒形が新しい。騎士の長槍による馬上衝突戦が決定的な力を発揮したこの時期に,鎧が意外に軽量であったことは注目に値する。長槍の衝撃は楯以外のものでは受けきれず,また巧みに楯で受け止めれば槍の柄を砕くことができたからで,鎧は剣と矢を想定しているにすぎないからである。楯の形は縦がしだいに短くなって,いわゆる楯型に近づいてゆくが,これは重量化するに伴って小型化せざるを得なかったことのほかに,鎖帷子が発達して裾回りを保護できるようになったこととも関係している。14世紀半ばから15世紀初頭にかけては,金属板を鎖帷子の要所に装着したものが普及し,いわば金属板の鎧の時代への過渡期に当たっているが,その一因は弓矢の発達で,鎖帷子のみでは矢の被害を防げなくなったからである。
15世紀初めから16世紀末までは重甲の黄金時代で,甲冑の発達はこの間に史上おそらく最高の段階に達した。100以上の鋼片を組み合わせ重ね合わせて内側から紐で連結し,全身残るくまなく鋼鉄で覆い尽くすにいたり,兜にも可動式の面頰が付けられる。胸甲と背甲の下縁には細い輪形の鋼片をつづり合わせた腰覆いが取り付けられたが,これは従来にないくふうである。この段階で初めて,下肢はつま先まで防護された。しかも,甲冑にある種の優美さが要求されるようになった。装甲は乗馬にまで及ぶ。13世紀の軍馬は厚手の毛織物や鎖の馬衣で覆われていた。コルテヌオーバの合戦(1237)には鎖帷子式の馬衣をつけた軍馬6000頭が参加したと伝えられる。これらの馬衣は裾が長く,歩兵の襲撃に対して最も弱い四肢の防護を意図していたが,速度を減殺する欠陥があった。
16世紀には騎乗者の甲冑と一そろいになった鋼板による馬鎧が出現する。これは四肢を露出するが,新しい問題は重量であった。馬鎧40kg前後,騎乗者の甲冑25~30kg,それに騎乗者の体重を加えて130kgに達する荷重の下で,騎兵本来の利点たる疾走は不可能となる。このような装甲の徹底の結果,楯は廃止される。刀槍の刃の入る隙間が皆無となったため,闘争の主眼は直接の殺傷でなく,敵を落馬させることにおかれた。一度落馬すれば重甲が自由な活動を妨げたので,歩兵でも比較的容易に重量のある矛で撃ち殺し,あるいは捕虜とすることができたのである。甲冑鋼材の表面は平滑に磨き上げ,光を受けて輝くように仕上げるのが普通で,そのためにオール・ホワイト型(アルネ・ブラン型)甲冑と呼ばれたが,15世紀末以降は線刻,浮彫,金銀象嵌を施したものが出現する。鋼材に縦に微細な褶曲を入れることによって,材質を厚くすることなく強度を増す技術が開発されると,特に1510年ごろから30年ごろまでマクシミリアン型甲冑と呼ばれて流行した。技術史的には,おそらく最高の傑作である。甲冑愛好家で技術面にも詳しかったハプスブルク家のマクシミリアン1世がお抱え鎧師ゾイゼンホーフェルに命じて試作させたという,真偽必ずしも定かでない伝承によってこの名がある。
いうまでもないが,この段階の甲冑は,素材の鍛造(冷鍛法)から設計,仕上げに至るまで高度の技術の総合の上に成り立つ精巧な工芸品である。産地としてはニュルンベルクとアウクスブルクの名が特に高く,コルマン,ジーベンビュルガー,ロヒナー,ペッフェンハウザーらの名工の作が珍重された。イギリスでは王室の庇護下にグリニジのジェーコブ・ホールダーの名が聞こえたし,ミラノのネロリ,チェリニ,ピチニーニらの作は華麗な装飾で名声を博した。実用品であると同時に,王侯貴顕の間では好んで贈答の対象とされた。一種の宝物,美術品として愛好されたので,16世紀初頭すでにルイ12世がアンボアーズ城に甲冑のコレクションをもっていたというが,王侯の中に収集家が現れたこともこの間の事情を物語っている。ところで,この重甲完成期は,戦術上しだいに歩兵隊の重要性が卓越してくる時期でもある。華麗な甲冑は指揮者の身を飾って全軍に威容を示すには適したが,一般兵士はこの種のものを用意する資力がないのももちろんだが,実戦上重装備がかえって不利になるのを嫌って,多くはブリガンディーヌ(ブリガンティーヌ)を着けた。これは二重の皮革または織物の胴着で,間に鋼の薄板をはさんだ防具である。
17世紀初頭は甲冑の時代の終末を告げる画期である。それ以後も騎兵は胸甲を着用し続け,近接戦での刀剣に対して防護効果を発揮したが,もはや前代には比すべくもない軽装である。最大の要因は火器の普及である。1476年ごろ火縄銃が発明されると戦術は一変した。銃弾に対抗して甲冑をさらに重甲化する試みもなされたが結局実用化せず,甲冑を極度に簡素化,次いで全廃する方向に進んだ。防護より機能が選択されたのである。第1次世界大戦で鉄帽の効果が再確認されて以来,現在でも各国軍装に採用されているし,防弾チョッキを用いることもあるが,これはもはや甲冑の名で呼ぶにはふさわしくない。中世末黄金時代の甲冑のコレクションとしては,パリのアンバリッドの軍事博物館,マドリードのアルメリア博物館のものが有名である。
→ヘルメット
執筆者:渡邊 昌美
中国においても甲冑は将兵が自己の肉体を敵の武器から守るために身につけるものであり,戦いがあり,武器が使われるとともに発達した。現在知られる最も古い鎧は殷代の皮製のもので,断片が発掘されただけで詳しくはわからないが,胸だけを保護する短いもので,何枚かの皮革を縫い合わせて作られた。殷の兜は青銅製の卵型の深いなべのようなもので,虎頭形ともいわれる。前方が切り取られて顔が出るようになっていた。これ以外に革製の頭巾のような兜もあった。西周時代の甲冑についての考古学的な発掘はない。春秋時代になると,うろこのような小さな札を縫い合わせた鎧が使われた。動物の骨をけずって札のようにつくり,これをつづり合わせたものであったが,骨の札の端が重なり合っていないから,突き刺す武器には弱かった。春秋時代の中期になると,革製の札をつづり合わせた鎧が使用された。使われた革には犀(さい),兕(じ)(水牛に似た一角獣),牛などがあり,さらに合甲と称して革を貼り合わせて強度を増した鎧もあった。これらの皮革は小さな札の形に切られ,それぞれの小札をまず横につづり合わせ,その後で上下に何段かをつなぎ合わせて鎧にしあげた。このころの鎧は,胸を覆う〈胸甲〉と肩を守る〈肩甲〉と足をかばう〈腿甲〉との三つの部分に分かれていた。兜も革でつくられていた。戦国時代も大勢として皮革製の甲冑が全盛を極め,銅製の甲冑がときに使われた。また春秋の魯の国では貝製の鎧が作られた。
戦国時代から使用されるようになったもう一つの甲冑の素材は鉄であった。戦国時代から鉄製の武器が使われはじめ,それ以前の青銅製武器にくらべて,殺傷能力が飛躍的に増大した。この状況に対抗して鉄製の甲冑が出現し,秦・漢時代になると鉄製の甲冑が多くなった。近年発見された秦始皇陵の兵馬俑坑の陶製の武人俑から,当時の鎧を復原してみると,幼児のよだれ掛けを大きくしたような,上半身の前だけを守るもの,大きめのシャツを着たように下がゆったりして,胸や腰や腹など上半身全体を覆う部分と肩から腕にかけて守る部分とがあるもの,体型と合致した形をして上半身全体と上膊とをつつみ,いかにも鎧という感じを与えるもの,以上の3種がみられ,すべて小さな札のような,いわゆる甲片をつづり合わせて作られている。甲片の素材が何であったかは,武人俑からは判明しないが,まず鉄が使用されたことは想像できる。また,皮革も素材として盛んに用いられたことはまちがいない。皮革製のものは軽量で柔軟性に富み,機能性が優れていたからきわめて実用的であったが,実物の考古学的発見という点では,腐食し変質しやすいため,発掘されることが大変まれであった。これは後の時代についても同じで,甲冑に関する全時代にわたって留意しておく必要がある。
漢代になると,鉄製の鎧は,その色から〈玄甲(黒い鎧)〉と呼ばれた。使用された甲片は長さ30cmにも達する長方形の大きいものから,2~3cmの楕円形に近い小型のものまである。甲片にはいくつもの小さい穴があけてあり,そこに麻縄を通してつづり合わせた。はじめに横につづり合わせたものをつくり,その後,縦に組んで鎧をつくり上げた。鎧の形には,胸と背とを覆う,剣道の胴衣のような形のものや,上半身を守り,そのうえ上膊を保護する部分を組み合わせたものなどがあった。これらの鎧の甲片は長方形の大型のものであった。別に,小さい楕円形の甲片を使用し,魚のうろこのようにとじ合わせたもの(魚鱗甲)もあった。漢代初期の甲片は長方形の大型が主流であり,ついで長方形と小型の楕円形とを組み合わせたものに移り,さらに小型楕円形のものをつづり合わせて魚鱗のようにしたものへと進展した。素材としては,前代よりさらに鉄が主流になっていった後漢から三国時代にかけての鎧は,形式の上で大きく変化した。これまでの鎧は胸部を保護することを中心にしていたが,この時代の鎧は首を守るための鉢のような襟,袖のようになった腕を保護する部分などのほか,両足を守るためにズボンのような形をしたものや,着物の裾のようにしたものが出現し,身体各部の保護がいっそう強化された。
晋時代には〈諸葛亮の筒袖鎧〉と呼ばれる筒袖型の鎧が使用された。筒袖はさほど長くはなく,ひじのところまで覆った。上半身全体を保護し,魚鱗の紋が全体に見られる小さな甲片を組み合わせた魚鱗甲であった。兜は両側が長く耳を覆っており,頂上に長い飾り房がついていた。南北朝時代になると,南朝北朝を問わず普通に使われたのは〈両当鎧〉であった。この鎧は胸を中心とする身体の前部を覆う部分と背中を守る部分とが,肩の上を通る帯によって連結されていた。全体の長さは肩のすぐ下から太股(ふともも)の下部に達し,腰部に束帯があった。素材は鉄と皮革で,鉄製のものは〈牌子鉄裲襠〉と呼ばれる長方形の甲片で作られたものが多く,別に魚鱗甲のものもあった。皮革製のものは実用的で,相当多方面に使用された。この両当鎧の盛行に並行し〈具装鎧〉も盛んに使われた。具装は軍馬を保護するもので,このころ大量に用いられた。軍馬用の鎧は漢代にすでに見られるが,胸部の保護を目的とする胸あてであったものが,南北朝時代には,顔につける〈面簾〉,首を守る〈鶏頸〉,胸を覆う〈当胸〉,胴体にかぶせる〈馬身甲〉,臀部のための〈搭后〉などに分かれていたが,軍馬の全体を保護するものになった。具装鎧の大部分は長方形の甲片で作られていた。これらは,上流階級が出陣するときに使用したもので,一般の兵士は甲冑の類を着けず,袴褶(こしゆう)という乗馬用のズボンを着用した。この時代には,上記のほか〈明光鎧〉と呼ばれる鎧があった。明光鎧は胸の前や背中に金属製の大型の丸い保護カバーがつけられていて,日光を反射して光ることから名がつけられた。明光鎧は臀部をすっかり覆う長さがあり,肩と太腿部を守る部分が付属し,主に北朝で使われた。兜は頭部全体を覆う長いもので,耳も保護され,頂上の中央部が細長く盛りあがっていた。
隋代の甲冑は明光鎧が主流で,両当鎧も使われ,具装鎧もあり,だいたいにおいて南北朝と同じであった。素材も鉄と皮革の2種類があった。唐代になると軍馬用の具装鎧が少なくなり,重装備の騎兵が凋落したことを物語るが,これは戦闘技術の変化による。かわって歩兵が重視され,ために歩兵用の甲冑が発展した。唐代の諸制度について記述した《唐六典》には13種の鎧が列挙されているが,第一は明光鎧である。唐代でも明光鎧が主流であった。胸部が左右に分かれ,背部は1枚でできていて,三つの部分をつなぎ合わせて胴体の部分が形成されていた。この胸部を守る胴は両肩を通る帯で支えられ,また肩と上膊を覆う部分が使用された。腰部に束帯を着け,両ももをひざまで保護する部分が連なっていた。兜は耳を覆う長いもので,頂上には時代によって半円球や槍の穂先のような装飾があった。歩兵の鎧は,肩に帯を用いて胴体を保護する部分をつるし,肩から上膊を守る部分を付けひざのやや下まで覆う長さがあった。頭には毛糸で編んだ帽子のように密着するものをかぶり,耳までの長さのものや,頭部全体から首や肩まで達する長さのものもあった。この時代の甲冑の素材は鉄,皮革,絹布,紙などがあったが,絹布や紙は実用より彩色を重んじた儀仗兵などの装飾用であった。鉄はくふうが加えられ,〈鎖子甲〉もつくられた。鎖子甲は鎖のようにして鎧をつくったもので,柔軟性に富み,防御力も高く,大型の甲冑より軽量で実用性が高かった。皮革は牛皮が一般的で,装飾用としては伝統的な犀の皮が重宝された。
宋代は歩兵が軍隊の中核を形成し,騎乗するのは指揮官ら少数であった。《武経総要》によって歩兵の甲冑をみると,鎧は1枚につくられ,腰の位置で背後で結び合わせ,肩に紐を通してつり下げる。長さは太またを覆うくらいで,その上に上膊と胸から首を保護するものを着ける。兜は円形の鉢のような形で,前面は顔を出すようにしてあるが,左右と後部は首全体を守るように長い裾がついている。素材には鉄,皮革,紙が使われた。鉄はほとんどすべて小型甲片につくられ,これを編み合わせて鎧が製作されたが,〈細綱甲〉と称せられる鎖帷子(くさりかたびら)風のものもあった。この時代の鎧は30kg程度の重量であった。鉄のほか,漆で固めた皮革の小型甲片を組み合わせたものも実用性の上で使用された。兜は,鉄や皮革の小片を組んでつくったものや,鉄を鎖のようにして編みあげたものがあったが,宋から元にかけて鉄板を使用した,現代のヘルメット様のものも出現した。
元代の騎兵歩兵はともに,鉄製の〈綱甲〉を着用した。綱甲は鎖を編み合わせてつくったもので,胸部を覆うだけの胸甲など各種がみられる。ほかに皮革の鎧があった。兜は鉄板によってつくられ,鉢の形のものであった。明代においても,鎖状の鉄を編んだ鎖子甲で,現代のTシャツ風のものを着用し,鉄製の兜には頂上に棒状の突起がついている。清代の兜は銅製が多くみられ,鎧に代わって〈戦袍〉と言われる刺繡をした布に多量の銅片を縫いつけた和服のようなものがあった。
甲冑の極盛は宋代であり,その後はむしろ装飾の意味がだんだん強くなった。原因は火器の発達である。宋代以後火薬が使用され,やがて元代に鉄砲が生まれるようになると,従来の甲冑は実戦において実用性が弱まってゆき,明代以後は甲冑とはいえ,正確には戦闘服の一種にすぎず,早くも元代においてすらその傾向が看取される。火器の発達は戦闘技術を根底からくつがえし,甲冑による身体の保護を不可能にしたから,甲冑あるいは戦闘服として使用されたものは,軍隊内部における所属や階級を示すだけのものとなった。
執筆者:衣川 強
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
戦闘の際に着用して身体を保護する武具である。以下順に、日本、中国、朝鮮、西洋の甲冑について解説する。
[山岸素夫]
一般に、頭にかぶる「かぶと」(兜・冑)と身体にまとう「よろい」(甲・鎧)、および付属具の小具足(こぐそく)をもって構成される。なお、中世以降の軍記物語などでは、冑を「よろい」、甲を「かぶと」と読んでいる例もある。甲冑は金工、漆工、韋革、組糸、染織などの工芸技術の集大成ともいうべき総合的な工芸品で、これが製作された時代の文化、風俗、思想、歴史的な背景はもとより、当時の技法や技術水準、さらに美意識や好尚を知るうえで欠かせぬ貴重な資料の一面をもっている。
[山岸素夫]
日本の甲冑の起源は明らかでないが、古墳出土の甲冑と武装埴輪(はにわ)の表現から、古墳時代には、初期的な形態ながら、すでに精巧な甲冑が普及し、進歩した作技のあったことが判明する。古墳出土の甲冑は、おもに4世紀以降の古墳から出土する、三角形や長方形の小鉄板を革綴(かわとじ)あるいは鋲留(びょうどめ)して形成した板物(いたもの)製の甲と、中期以降の古墳から出土し、大陸系の騎馬用の甲冑と考えられる屈伸のよい小札(こざね)製の甲との2種がある。考古学ではこれに、『東大寺献物帳』記載の短甲(たんこう)と挂甲(けいこう)の名称をあて、板物甲を短甲、小札甲を挂甲と称している。兜も考古学上で衝角付(しょうかくつき)、眉庇付(まびさしつき)とよばれる2種がある。衝角付は鉢の正面に鎬(しのぎ)を立てた兜で、板物甲と小札甲に具し、眉庇付は丸鉢の正面に設けられた大形の装飾的な眉庇を特色とし、これも板物甲と小札甲に具す。
[山岸素夫]
この時代は、完全な甲冑の遺物が1領もなく、わずかな文献の記述と、正倉院伝来の小札残欠(こざねざんけつ)および東大寺大仏殿須弥壇(しゅみだん)下出土の残片などによってうかがうのみで、その型式、構造の全容を知りえず、当期は日本甲冑史上の空白期になっている。『東大寺献物帳』『延喜式(えんぎしき)』『正税帳』などに「短甲」と「挂甲」との2種の甲冑の記載がある。これらは唐制模倣の甲冑型式と思われるが、律令(りつりょう)制によって設置された軍団の兵士や中央の武官の着料として、諸国に命じて造進せしめ国家により管理された官製の甲冑である。『東大寺献物帳』に「短甲十具、具別冑一口、甲一領、行縢(むかばき)一具、覆臂(たおおい)一具」とあり、短甲は各部の小具足を備えた軍陣の甲冑であったことが知られる。挂甲には具すものなく、簡略な甲であったと考えられる。おもに中央の武官の武用や儀仗(ぎじょう)に用いられたが、のちにはもっぱら儀仗の料となった。また、『続日本紀(しょくにほんぎ)』などに「綿(めん)甲冑」と「綿襖冑(めんおうちゅう)」という布帛(ふはく)製と思われる甲冑の記載がある。
[山岸素夫]
律令政治の衰退と秩序の混乱に乗じて武士が台頭し、自衛のために武力を蓄え勢力の拡大を図った。この武装集団としての武士の私(わたくし)の着料として発生したのが中世の甲冑である。当時の戦闘は、騎馬武者による騎射戦を主とし、従者は徒立(かちだち)となり打物(うちもの)をとって戦ったので、甲冑は必然的に騎射戦用の鎧(大鎧)と徒立打物戦用の軽便な甲とに分かれて発達した。公家(くげ)日記などに「綴牛皮(てごい)」と記されている騎射戦用の甲冑が、中世大鎧の原初的な甲冑と想像されるが実体はかならずしも明らかでない。しかし、遺物・文献などにより、源平争覇の戦いの行われた平安後期には、それらがいちおうの成立をみたものと推定される。大鎧は、兜・胴・袖(そで)の3部分をもって一領を形成する騎射戦用の甲冑である。黒漆塗りの革や鉄の小札(こざね)を、いろいろに染めた組糸・韋緒(かわお)などの威毛(おどしげ)を用いて美しく威(おど)し立て、金具廻(かなぐまわり)や兜の吹返(ふきかえし)などに画韋(えがわ)を張り、金物を打って装飾した。機能は実用を旨とし、外容は情緒的で優美な王朝の貴族文化を反映して、雄偉壮麗かつ工芸的で、日本独特の様式を示すに至った。着脱の便から胴の右側を分離して脇楯(わいだて)とし背に逆板(さかいた)を設け、弓射のために正面に弦走(つるばしり)を張り、栴檀(せんだん)、鳩尾(きゅうび)の板を垂下して胸脇(わき)のすきまを覆い、草摺(くさずり)は四間に分割し、肩上(わたがみ)に大袖をつけ、星兜をかぶった。小具足は籠手(こて)、臑当(すねあて)のほか半首(はつぶり)、佩楯(はいだて)(膝鎧(ひざよろい))などを付属し、以後の日本の甲冑の規範となった。遺物は東京都御嶽(みたけ)神社、広島県厳島(いつくしま)神社、山口県防府(ほうふ)天満宮、愛媛県大山祇(おおやまづみ)神社、青森県櫛引八幡宮(くしびきはちまんぐう)、奈良市春日(かすが)大社などに、平安時代から室町時代にわたる優品が伝来し、その着装と完備の姿は『平治(へいじ)物語絵詞(えことば)』『蒙古(もうこ)襲来絵詞』などの描写によってしのびうる。
徒立打物戦用の甲は、引合(ひきあわせ)を右側に設け、その後側を上にして重ね合せる。歩行の便から草摺は八間に分割し、肩上に杏葉(ぎょうよう)をつけて、肩先を守り、原則として兜・袖は具さない。おもに徒立の下卒に着用されたが、上級武士も軽快に出立(いでた)つときは装束の下に着籠(きこ)めた。当時は「腹巻(はらまき)」と呼称されていたが、のちに「胴丸(どうまる)」と変わり、腹巻の名は、引合を背中に設けたいっそう軽快な甲の名称として今日に至った(本項では便宜上、現在の名称を用いる)。
[山岸素夫]
二度に及ぶ蒙古軍の襲来と南北朝時代以降の騎射戦の減退、山城(やまじろ)の攻防に伴う徒立(かちだち)戦と太刀(たち)、長刀(なぎなた)、槍(やり)などによる打物戦の流行は、甲冑の改革を促した。また、当期において注目すべきは、曲尺(かねじゃく)の1尺1寸5分を1尺とする「タカバカリ」が甲冑工専用の私尺となり、甲冑に規格化を生じ、職能に応じた分業体制が整備されたことである。大鎧は小札(こざね)を縮小し、胴尻を引き締め、重厚な星兜にかえて軽快な筋兜(すじかぶと)を具し、徒立打物戦への対応を図ったが、漸次実用を離れ、加飾して威儀の料や祭礼の随兵の着料となり、かわって元来軽便な胴丸が上級武士に広く用いられた。兜と袖が添えられたことはいうまでもないが、いっそう細かくなった小札の札頭(さねがしら)に厚く漆を盛り上げ、製作は精巧美麗となり、品位を増し、威(おどし)の色目は肩白(かたじろ)、肩取(かたどり)、色々威(いろいろおどし)などが好まれた。小具足は頬当(ほおあて)、喉輪(のどわ)を生じ、佩楯(はいだて)が普及し、臑当(すねあて)は膝頭を覆う立挙(たてあげ)を拡大して大立挙となり、さらに臆病金(おくびょうがね)や甲懸(こうがけ)の考案があり、熾烈(しれつ)な戦いを反映して身体をすきまなく覆うに至り、打物戦用に考案された裾広がりの広袖を添えることも多かった。また、胸部を広く胴尻を引き締め、引合(ひきあわせ)を背中に設け、草摺を七間に分割した腹巻も、その優れた機能性が好まれて用いられ、筋兜と大袖、あるいは裾(すそ)つぼまりで打物戦に有利な壺袖(つぼそで)を具し、室町後期に全盛を極めた。それゆえ、室町時代は甲冑史上、胴丸腹巻時代と称することができよう。胴丸と腹巻の盛行は遺物の多いことによっても知られるが、その皆具(かいぐ)のようすは『十二類合戦絵詞』『秋夜長物語絵詞』『結城(ゆうき)合戦絵詞』などに活写され、「細川澄元(すみもと)画像」「小笠原朝経(おがさわらともつね)画像」「斎藤大納言(だいなごん)正義画像」に詳細に描かれている。腹巻をさらに簡略にして、胸腹部のみを防護する「腹当(はらあて)」も用いられ、その姿は『十界図』に描かれている。戦闘の永続に伴う需要の増大は、伊予札(いよざね)や古小札(ふるこざね)を韋包(かわづつ)み菱綴(ひしとじ)した包(裹(つつみ))胴丸や包腹巻、あるいは金胴丸、金(かな)腹巻という板物素懸威(いたものすがけおどし)の簡素な甲冑を生じた。また、作者の名を鉢裏などに刻むことが始まり、春田、早乙女(さおとめ)、岩井、明珍などの具足師は、その活躍の場を拡大して製作に励んだ。
[山岸素夫]
室町末期から桃山時代にかけての鉄砲の伝来と急速な普及、城郭の発達、戦法や兵制の変化ならびに南蛮の文物の輸入は、甲冑に大変革を迫り、大鎧はもちろん、胴丸や腹巻も衰退を余儀なくされ、新時代の戦法に適応する甲冑の成立が促進された。近世初頭に成立したとみられる新様式の甲冑は、基本的には胴丸の型式を踏襲して右引合の型式をとり、兜・胴のほか小具足(こぐそく)を意図的に胴と一体に、専用のものとしてつくり、皆具(かいぐ)の構成を原則とすることから「具足(ぐそく)」と称し、今様の甲冑の意をもって「当世具足(とうせいぐそく)」とよばれ、桃山時代から江戸前期にかけて一世を風靡(ふうび)した。当世具足は、小札製のほか、舶来の南蛮具足(なんばんぐそく)(西洋の甲冑)の影響と槍、鉄砲への対応から、板札(いたざね)や革包みの伊予札(いよざね)を鋲留または革綴した足掻(あが)き(屈伸)のない立胴式が多く、着脱を容易にするために蝶番(ちょうつがい)を用いた二枚胴、五枚胴がつくられ、草摺を胴に威し付ける揺糸(ゆるぎいと)は胴の負担重量を軽減する着用法と足掻きのため長くなった。打物戦を反映して袖は廃止あるいは縮小するに至り、頸廻(くびまわ)りと肩の防護のために立襟(たてえり)、肩当(かたあて)、小鰭(こひれ)が考案された。表面は金錆(かなさび)地や革包みが多く、新しい加飾法が採用され、象眼(ぞうがん)、蒔絵(まきえ)、金銀箔(はく)押し、文様の打出しなどさまざまの手法が行われた。胴背面の上部に合当理(がったり)、下部に待受(まちうけ)を設け、所属や役職を示し、自己を顕揚するために指物(さしもの)を立てた。兜も形状を一新し種々のものを生じた。星兜、筋兜のほか、桃形(ももなり)、頭形(ずなり)あるいは奇抜な造形になる張懸兜(はりかけかぶと)が、斬新(ざんしん)な意匠の立物(たてもの)とともに流行した。
[山岸素夫]
江戸幕府の権力が確立し政情の安定した元禄(げんろく)(1688~1704)ごろになると、実用を旨とした甲冑にも加飾の風がおこり、権威を誇示するがごとき無用の装飾を施した品位に欠けるものを生じ、当世具足はその形式を崩した。さらに新井白石(あらいはくせき)、伊勢貞丈(いせさだたけ)などの学者、故実家による甲冑研究の結果、中世の甲冑が再認識され、大鎧、胴丸、腹巻など中世の様式による復古調とよばれる甲冑が製作された。しかし、研究の未熟と泰平謳歌(おうか)の時代的風潮を反映して華美に流れ、威儀を主としたので、実用にはほど遠いものであった。かくして近世の甲冑は形式、構造、外容とも多岐にわたり、変化に富むものとなったが、しょせん、近代的な兵制の採用と火砲の発達の前に無用の長物となり、武家社会の崩壊とともに終焉(しゅうえん)のときを迎えたのである。
[山岸素夫]
この国の甲冑の原始型(紀元前15世紀ころまで)は、相手の攻撃から身を守るために、フジの蔓(つる)、木片、皮革などを用いて、体の主要部分を覆ったものと考えられる。たとえば台湾のヤミ族が20世紀初頭ころまで使用してきた藤甲(ふじこう)は、フジの蔓をチョッキ風に、冑(かぶと)は帽子風に枠組み構成し、表面に皮革、魚皮などを貼(は)っている。また四川(しせん)省イ族には、牛革を胸、脇(わき)、背と裁ち、文様を施して一枚続きにあわせて胴を覆い、細幅の革片を綴(つづ)り合わせて腰鎧(こしよろい)とする。一見、中世の日本の腹巻に似ているが、全体に黄色の顔料を塗った革甲で、冑はない。現在この甲冑は台北の中央研究院内民族学研究所に1領保存されている。
殷(いん)・周(しゅう)の時代に関しては、中国の古典『周礼(しゅらい)』の考工記、函人(かんじん)(甲冑製作者)の項に「函人甲を為(つく)る。犀甲(さいこう)七つの属(こざね)、寿(じゅ)(耐用年数)は百年。兕(じ)(野牛の一種)甲六属、寿二百年。合甲(ごうこう)五属、寿三百年」とあり、動物の革で甲冑を製作したことを示す。また長沙(ちょうさ)の楚(そ)の古墓から黒色地に彩色した革甲を着けた兵士木俑(もくよう)が出土している。そのほか安陽、長沙、江陵の周~春秋期の古墓から、比較的大形で方形の革甲片の綴り合わせに髹漆(きゅうしつ)(漆(うるし)塗り)した残欠が発掘されている。安陽の候家庄(こうかしょう)の古墓からは青銅製冑(多くの殷周青銅明器と同様に一体造りの鋳造品)が出土し、革甲とあわせた復原図が報告されている。
春秋~秦(しん)時代には『経典釈文』に「古(いにしえ)の作は革を用う。秦漢以来鉄を用う」とあり、この時期に初めて鉄札(さね)製甲冑が出現したことがわかる。1965年、河北省易県の燕墓(えんぼ)から鉄冑の小札89枚が発掘され、復原写真、復原図が報告されている。
また1974年春、西安郊外始皇陵(しこうりょう)東方5キロメートルの地点で、始皇帝近衛(このえ)軍団の等身大の兵士俑と軍馬俑約6000体、戦車、武具などが発掘された。その兵士俑は甲を着けており、研究者によって2類6型式に分類、報告されている。第1類は武官級、第2類は兵士用甲である。兵種により区分されているが、詳しく調査すると各型式内にも違いがみられる。着用方法は俑からは判然としないが、右胸上に上下を結ぶ紐(ひも)と鞐(こはぜ)(角(つの)ボタン)があり、胸元を締めているものと解される。
漢代には『史記正義』の「霍去病伝(かくきょへいでん)」の注に「玄甲は鉄甲なり」とあり、鉄甲の普及が示されている。玄甲とは黒い甲、黒い金属すなわち鉄を示す。1957~1958年、洛陽(らくよう)の前漢時代の古墓からさびついた鉄鎧1領が発掘されたが、全容は不明。鉄札の型式は日本古代の挂甲(けいこう)に似る。1959年、内蒙古(うちもうこ)の漢代城址(じょうし)から保存のよい鉄鎧1領が出土。1968年、河北省満城県の前漢古墓から鉄札鎧1領が出土、前述2領と異なり鉄札がきわめて小さく、一見鱗(うろこ)状である。このほか数件の報告があるが、いずれも日本の挂甲に酷似している。漢墓出土の兵士俑も出土鉄鎧に相似する。
南北朝時代に関しては魏(ぎ)の曹植(そうち)の『上鎧表(じょうがいひょう)』(全上古三代秦漢三国文朝文)に黒光(こくこう)鎧、明光(めいこう)鎧、両当(りょうとう)鎧、赤練(せきれん)鎧(『太平御覧』では環鎖(かんさ)鎧となる)などの名称がみられるものの、遺物の出土例は聞かない。出土する灰陶(かいとう)の武人俑にみるのみである。黒光鎧は前時代からの鉄札鎧と考えられるが、両当、明光、赤練、環鎖は、いままでになく、新型式の鎧である。
隋(ずい)代の甲冑は、基本的に南北朝代の型式を踏襲し、両当鎧、明光鎧が主流であることが出土武人俑により知られる。文献には多くの名称が残るが、遺物は報告されていない。
唐代の甲冑も出土例がなく、わずかに武人俑、昭陵(しょうりょう)の石刻像、敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の壁画や塑像にみるだけであるが、ほとんど両当鎧、明光鎧である。しかしこれらは神将像だけに表現され(日本の寺院にみる中世の四天王像も同型式)ており、遺物はなく、実用化については不明である。明(みん)代も宋(そう)の甲制の踏襲で、腹巻式の札鎧になり、冑、胸前、袖(そで)が大形化する。
清(しん)代になると、伝世品(北京(ペキン)の故宮博物院に保存)や絵画作品があり、それによると、いずれも明代の甲制を受け継いでいるようである。時代が下ると冑の中間が絞られ、漏斗(ろうと)状になり、蒙古形を踏襲している。胴甲は衣服風に肩を入れて着用し、前合わせで、臂(ひじ)鎧は袖となり左右に分かれ上膊(じょうはく)を覆う。膝(ひざ)鎧も裳裾(もすそ)様に長くなり、鉄札は布地の裏につけられ、表にはそれを留めた鋲頭(びょうとう)がみられる。さらに身分、階級によりそれぞれ異なった文様を布の表面に金・銀・色糸などの刺しゅうによって表現する。しかしこれらも清朝末の近代化のなかで終焉(しゅうえん)を迎える。
[大塚国正]
他の国々と同様に原始型から発展してきたと考えられるが、その存在が知られるのは三国時代(4~7世紀)からである。これらは高句麗(こうくり)の古墳壁画や新羅(しらぎ)古墳出土の遺物にみられる。黄海南道安岳郡大里(だいしゅうり)安岳2号墳(5世紀ころ)の入口の左右の壁に武人が1名ずつ描かれており、丸い帽子風の冑にとがった台をつけ先端に羽毛状の飾りをつけ、短い筒状の袖鎧、甲は腰まで覆い、ズボン風の鎧を着ける。表面は鱗状の小札で、中国漢代の鉄鎧を想定させる。ほかにも何か所か武人壁画が発見されているが、いずれも平壌を中心とした地域に限られ、その型式は札鎧で日本の挂甲に相通じる点がみられるが、詳細は不明である。慶尚北道高霊郡高霊面、池山洞古墳群第32号古墳から1978年に、鉄板を使用した短甲および鉄冑が出土しており、ほかにも数例の報告がある。これらはいずれも日本で多数の発掘例のある横矧(よこはぎ)板鋲留短甲、衝角(しょうかく)付冑、三角板革綴(かわとじ)短甲、眉庇(まびさし)付冑などに酷似している。新羅統一時代から高麗(こうらい)時代(10~14世紀)は古墳の石刻像で明らかなように、唐・宋の甲制を受け継いでおり、13世紀以降は元・明・清の甲制による綿襖甲(めんおうこう)と漏斗状の鉄(革)冑が盛行する。しかし中国同様、崇文卑武(すうぶんひぶ)の思想が強く、記録、遺物ともに少ない。
[大塚国正]
甲冑の起源(古代オリエント)については、正確には不明であるが、前三千年紀のシュメール人は、すでに相当進歩した甲冑をもっていたことが、発掘品や浮彫りなどから知られる。なかでもウルの王墓出土の「メス・カラム・ドゥグの冑(かぶと)」は、1枚の金板を鎚起(ついき)し、精巧な線刻を施した儀式用冑として名高い。また、頂のとがった冑をつけ大きな盾を持った兵士たちの隊列を描いた浮彫り板も発見されている。アッカド王朝の「ナラム・シン王の戦勝記念碑」には、牛角のついた円錐(えんすい)形の冑を着けた同王の姿がみられる。
エジプトでは、王をはじめ身分の高い人物は冑を着けたと推測されるが、確実な遺例は少なく、冠と冑との区別も明らかでない。戦闘用の冑から由来したと思われる、いわゆる「青冠」がなかでも注目される。胴部の防具としては、古代世界を通じて、おそらく皮革が使われたであろうが、詳細は不明である。円形や長方形の盾は、メソポタミアでもエジプトでも広く用いられた。多くは木板に皮を貼(は)ったものであり、ツタンカーメン王墓の例にみられるように、儀式用の盾にはきわめて精巧な装飾をもつものが少なくない。
エーゲ文明期のミケーネの兵士は、イノシシの牙(きば)を連ね羽根飾りをつけたヘルメットを着用した。また、何枚かの幅の広い青銅板を連ねて、頸部(けいぶ)から膝(ひざ)までを覆う形式の鎧(よろい)も考案された。デンデラ出土の鎧はその好例である。ギリシアでは、金属製・革製のヘルメットが一般化したが、とくに鼻梁(びりょう)や頬(ほお)の保護に留意されている。いくつかの定形が生まれたが、コリント式がもっとも代表的である。鉢の頂部に背びれ状の飾り板や馬毛、鳥の羽根などをつけたり、顔隠しや眉庇(まびさし)のような部品を可動式にするなど、多くのくふうがみられる。鎧は胴部を主として覆う胸甲(トラクス)の形をとり、下端からスカート状にフェルトなどを下げ、足を保護するとともに、機敏な行動を可能にした。革製の胸甲の場合、小型の金属板を鱗状に縫い付けることも行われた。ローマの甲冑は基本的にはギリシアの型式を踏襲したが、儀式のパレードのために装飾を凝らした華麗な甲冑が流行し、以後、西洋の甲冑は戦闘用と儀式用に明瞭(めいりょう)に二分される。
中世は、甲冑の素材として鉄の薄板が活用され、湾曲した札(さね)をつなぎ合わせて、行動しやすく、しかもじょうぶな鎧が、多種多様な型式をとって登場した。騎馬の戦闘のために馬用の鎧も考案された。ヘルメットも鉄が多く使われるようになり、顔面と頭部、頸部の保護にさまざまの考案がなされた。目の部分のみに隙間(すきま)をあけ、頭全体を覆うもの、敵の矢や槍(やり)をそらすために、口の部分を鳥の嘴(くちばし)のように突出させたものなど、その例である。また、鉄板とは別に、鎖帷子(くさりかたびら)も多く用いられた。これらの甲冑は専門の職人集団によって製作されたが、芸術的にきわめて優れたものがある。とくに王侯貴族あるいは騎士たちは競ってよい甲冑を求め、それを誇りとしたために、中世後期には金属工芸の重要な一分野となった。
甲冑の製作には多くの種類の加工技術が必要とされるために、分業が発達し、特定の都市に製造が集中することもおこった。イスラム世界のダマスカス、ドイツのアウクスブルクは、とくに優れた甲冑で知られる。また、その性質上、異民族の型式も積極的に取り入れられた。たとえば、ローマ時代に皮革の札に金属板を縫い付けた「ロリカ」が多用されたが、中世にはこのロリカの型式に、北方の蛮族が好んで用いた鎖帷子状の胴衣を結合させ、いわゆる「アドゥブマン」が生まれた。冑にも鎖帷子の方式を採用し、その上に、頂部が半球形あるいは円錐形の金属製冑をかぶることも行われた。
機械式の弩(いしゆみ)や、さらに鉄砲の発明によって、甲冑はますます重装備を余儀なくされたが、とくに顔面を含めて頭部の保護に力が注がれた。古代からあった眉庇は、よりじょうぶに、精巧で機能的なものとなった。多くは、こめかみの部分に支点を置き、不要なときは上にあげて顔面を外気にさらすことができるようになっている。14、15世紀に盛行した「バッシネ」とよばれる冑は、この種の典型的な例である。頭部以外の部分も、可能な限り覆う傾向を生じた。頸すじから肩・胸にかけてはもちろん、腕から手のひらまで、あるいは腰から足のつまさきまで鉄片を連結して覆う全身装甲の場合、その部品は大小100を超える場合も珍しくない。この種の複雑な重装備は、16世紀後半から17世紀にかけて絶頂に達した。
近世における銃砲の発達は、従来の甲冑をほとんど無力なものにした。とくに砲弾の破壊力は、個人的な防具の意味を失わせ、兵士たちは、17、18世紀の一時期、甲冑をまったく捨てた。しかし近代になると、いわゆる鉄冑が、頭部の保護に有効であることが再認識され、戦場で広く使われるようになった。二度の世界大戦では、ほとんどの兵士が鉄冑をつけて戦っている。
[友部 直]
『〔明治以前のもの〕』▽『新井白石著『本朝軍器考』、伊勢貞丈著『軍用記』(『古実叢書 21』所収・1954・明治図書出版)』▽『村井昌弘著「単騎要略被甲弁」(『続随筆文学選集 1』所収・1928・随筆文学選集刊行会)』▽『松平定信編『集古十種』(1908・国書刊行会)』▽『〔明治以後のもの〕』▽『山上八郎著『日本甲冑の新研究』(1942・飯倉書店)』▽『末永雅雄著『日本上代の甲冑』(1944・創元社)』▽『鈴木敬三著『初期絵巻物風俗史的研究』(1960・吉川弘文館)』▽『中村春泥遺稿、鈴木敬三編・解説『甲冑写生図集』(1979・吉川弘文館)』▽『〔入門書〕』▽『尾崎元春編「甲冑」(『日本の美術 24』所収・1968・至文堂)』▽『山上八郎・山岸素夫著『鎧と兜』(保育社・カラーブックス)』▽『楊泓著『中国古代兵器論集』(1980・北京文物出版局)』
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「よろい」と「かぶと」の総称。正しくは甲が「よろい」で,冑が「かぶと」であるが,軍記物語などではしばしば逆の場合がある。誤解のない用字は鎧(よろい)と兜(かぶと)であるが,鎧は狭義には大鎧をさす。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…〈緒通し〉の意で,甲冑(かつちゆう)の(しころ)の威毛(おどしげ)をいう。古く《東大寺献物帳》には貫(ぬき),《延喜式》には懸緒(かけお)と記してある。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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