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甲冑 かっちゅう armour

翻訳|armour

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

甲冑
かっちゅう
armour

(よろい。甲) と (かぶと。冑) のことで,鎧は胴部,兜は頭部の防御用具。西洋では古くはギリシアで青銅,または革の甲冑が使われていた。中国では殷代に青銅兜の実例があり,周代に革甲のあったことが文献史料にみえる。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉の解説

かっ‐ちゅう〔‐チウ〕【×冑】

戦いのとき身を守るために着用する武具。胴体を覆う甲(よろい)と、頭にかぶる冑(かぶと)。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
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百科事典マイペディアの解説

甲冑【かっちゅう】

胴体を保護する甲(よろい)(鎧)と頭部をおおう冑(かぶと)(兜)からなる戦闘用具。材料は石器時代の樹皮・皮革から青銅,鉄と移り,戦闘形式の進展に伴い形式も種々に変遷をみた。
→関連項目染韋(革)武器明珍

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世界大百科事典 第2版の解説

かっちゅう【甲冑】

戦士が胴部と頭部の防御具として着用する甲(よろい)と冑(かぶと)の総称。時代とともに,その素材は皮革などから金属に変わり,戦士の〈命を守る〉ことを目的として,堅牢度・機動性を高めるためにさまざまの改良が加えられたが,銃砲類が戦場に登場すると,急速にその実用性は失われた。
【日本】
 日本の場合,古墳時代の遺存例の大半は,鉄製甲冑であるが,まれに,鉄地金銅張り製,金銅製のものがある。また,弥生時代後期には木製短甲,古墳時代においても革製甲冑が確認されている。

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大辞林 第三版の解説

かっちゅう【甲冑】

〔「甲」は鎧よろい、「冑」は兜かぶとのこと〕
戦闘の時、身体を保護するため身につける武具。具足。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

甲冑
かっちゅう

戦闘の際に着用して身体を保護する武具である。以下順に、日本、中国、朝鮮、西洋の甲冑について解説する。[山岸素夫]

日本

一般に、頭にかぶる「かぶと」(兜・冑)と身体にまとう「よろい」(甲・鎧)、および付属具の小具足(こぐそく)をもって構成される。なお、中世以降の軍記物語などでは、冑を「よろい」、甲を「かぶと」と読んでいる例もある。甲冑は金工、漆工、韋革、組糸、染織などの工芸技術の集大成ともいうべき総合的な工芸品で、これが製作された時代の文化、風俗、思想、歴史的な背景はもとより、当時の技法や技術水準、さらに美意識や好尚を知るうえで欠かせぬ貴重な資料の一面をもっている。[山岸素夫]
古墳時代
日本の甲冑の起源は明らかでないが、古墳出土の甲冑と武装埴輪(はにわ)の表現から、古墳時代には、初期的な形態ながら、すでに精巧な甲冑が普及し、進歩した作技のあったことが判明する。古墳出土の甲冑は、おもに4世紀以降の古墳から出土する、三角形や長方形の小鉄板を革綴(かわとじ)あるいは鋲留(びょうどめ)して形成した板物(いたもの)製の甲と、中期以降の古墳から出土し、大陸系の騎馬用の甲冑と考えられる屈伸のよい小札(こざね)製の甲との2種がある。考古学ではこれに、『東大寺献物帳』記載の短甲(たんこう)と挂甲(けいこう)の名称をあて、板物甲を短甲、小札甲を挂甲と称している。兜も考古学上で衝角付(しょうかくつき)、眉庇付(まびさしつき)とよばれる2種がある。衝角付は鉢の正面に鎬(しのぎ)を立てた兜で、板物甲と小札甲に具し、眉庇付は丸鉢の正面に設けられた大形の装飾的な眉庇を特色とし、これも板物甲と小札甲に具す。[山岸素夫]
奈良時代から平安前期
この時代は、完全な甲冑の遺物が1領もなく、わずかな文献の記述と、正倉院伝来の小札残欠(こざねざんけつ)および東大寺大仏殿須弥壇(しゅみだん)下出土の残片などによってうかがうのみで、その型式、構造の全容を知りえず、当期は日本甲冑史上の空白期になっている。『東大寺献物帳』『延喜式(えんぎしき)』『正税帳』などに「短甲」と「挂甲」との2種の甲冑の記載がある。これらは唐制模倣の甲冑型式と思われるが、律令(りつりょう)制によって設置された軍団の兵士や中央の武官の着料として、諸国に命じて造進せしめ国家により管理された官製の甲冑である。『東大寺献物帳』に「短甲十具、具別冑一口、甲一領、行縢(むかばき)一具、覆臂(たおおい)一具」とあり、短甲は各部の小具足を備えた軍陣の甲冑であったことが知られる。挂甲には具すものなく、簡略な甲であったと考えられる。おもに中央の武官の武用や儀仗(ぎじょう)に用いられたが、のちにはもっぱら儀仗の料となった。また、『続日本紀(しょくにほんぎ)』などに「綿(めん)甲冑」と「綿襖冑(めんおうちゅう)」という布帛(ふはく)製と思われる甲冑の記載がある。[山岸素夫]
平安中期から鎌倉時代
律令政治の衰退と秩序の混乱に乗じて武士が台頭し、自衛のために武力を蓄え勢力の拡大を図った。この武装集団としての武士の私(わたくし)の着料として発生したのが中世の甲冑である。当時の戦闘は、騎馬武者による騎射戦を主とし、従者は徒立(かちだち)となり打物(うちもの)をとって戦ったので、甲冑は必然的に騎射戦用の鎧(大鎧)と徒立打物戦用の軽便な甲とに分かれて発達した。公家(くげ)日記などに「綴牛皮(てごい)」と記されている騎射戦用の甲冑が、中世大鎧の原初的な甲冑と想像されるが実体はかならずしも明らかでない。しかし、遺物・文献などにより、源平争覇の戦いの行われた平安後期には、それらがいちおうの成立をみたものと推定される。大鎧は、兜・胴・袖(そで)の3部分をもって一領を形成する騎射戦用の甲冑である。黒漆塗りの革や鉄の小札(こざね)を、いろいろに染めた組糸・韋緒(かわお)などの威毛(おどしげ)を用いて美しく威(おど)し立て、金具廻(かなぐまわり)や兜の吹返(ふきかえし)などに画韋(えがわ)を張り、金物を打って装飾した。機能は実用を旨とし、外容は情緒的で優美な王朝の貴族文化を反映して、雄偉壮麗かつ工芸的で、日本独特の様式を示すに至った。着脱の便から胴の右側を分離して脇楯(わいだて)とし背に逆板(さかいた)を設け、弓射のために正面に弦走(つるばしり)を張り、栴檀(せんだん)、鳩尾(きゅうび)の板を垂下して胸脇(わき)のすきまを覆い、草摺(くさずり)は四間に分割し、肩上(わたがみ)に大袖をつけ、星兜をかぶった。小具足は籠手(こて)、臑当(すねあて)のほか半首(はつぶり)、佩楯(はいだて)(膝鎧(ひざよろい))などを付属し、以後の日本の甲冑の規範となった。遺物は東京都御嶽(みたけ)神社、広島県厳島(いつくしま)神社、山口県防府(ほうふ)天満宮、愛媛県大山祇(おおやまづみ)神社、青森県櫛引八幡宮(くしびきはちまんぐう)、奈良市春日(かすが)大社などに、平安時代から室町時代にわたる優品が伝来し、その着装と完備の姿は『平治(へいじ)物語絵詞(えことば)』『蒙古(もうこ)襲来絵詞』などの描写によってしのびうる。
 徒立打物戦用の甲は、引合(ひきあわせ)を右側に設け、その後側を上にして重ね合せる。歩行の便から草摺は八間に分割し、肩上に杏葉(ぎょうよう)をつけて、肩先を守り、原則として兜・袖は具さない。おもに徒立の下卒に着用されたが、上級武士も軽快に出立(いでた)つときは装束の下に着籠(きこ)めた。当時は「腹巻(はらまき)」と呼称されていたが、のちに「胴丸(どうまる)」と変わり、腹巻の名は、引合を背中に設けたいっそう軽快な甲の名称として今日に至った(本項では便宜上、現在の名称を用いる)。[山岸素夫]
南北朝・室町時代
二度に及ぶ蒙古軍の襲来と南北朝時代以降の騎射戦の減退、山城(やまじろ)の攻防に伴う徒立(かちだち)戦と太刀(たち)、長刀(なぎなた)、槍(やり)などによる打物戦の流行は、甲冑の改革を促した。また、当期において注目すべきは、曲尺(かねじゃく)の1尺1寸5分を1尺とする「タカバカリ」が甲冑工専用の私尺となり、甲冑に規格化を生じ、職能に応じた分業体制が整備されたことである。大鎧は小札(こざね)を縮小し、胴尻を引き締め、重厚な星兜にかえて軽快な筋兜(すじかぶと)を具し、徒立打物戦への対応を図ったが、漸次実用を離れ、加飾して威儀の料や祭礼の随兵の着料となり、かわって元来軽便な胴丸が上級武士に広く用いられた。兜と袖が添えられたことはいうまでもないが、いっそう細かくなった小札の札頭(さねがしら)に厚く漆を盛り上げ、製作は精巧美麗となり、品位を増し、威(おどし)の色目は肩白(かたじろ)、肩取(かたどり)、色々威(いろいろおどし)などが好まれた。小具足は頬当(ほおあて)、喉輪(のどわ)を生じ、佩楯(はいだて)が普及し、臑当(すねあて)は膝頭を覆う立挙(たてあげ)を拡大して大立挙となり、さらに臆病金(おくびょうがね)や甲懸(こうがけ)の考案があり、熾烈(しれつ)な戦いを反映して身体をすきまなく覆うに至り、打物戦用に考案された裾広がりの広袖を添えることも多かった。また、胸部を広く胴尻を引き締め、引合(ひきあわせ)を背中に設け、草摺を七間に分割した腹巻も、その優れた機能性が好まれて用いられ、筋兜と大袖、あるいは裾(すそ)つぼまりで打物戦に有利な壺袖(つぼそで)を具し、室町後期に全盛を極めた。それゆえ、室町時代は甲冑史上、胴丸腹巻時代と称することができよう。胴丸と腹巻の盛行は遺物の多いことによっても知られるが、その皆具(かいぐ)のようすは『十二類合戦絵詞』『秋夜長物語絵詞』『結城(ゆうき)合戦絵詞』などに活写され、「細川澄元(すみもと)画像」「小笠原朝経(おがさわらともつね)画像」「斎藤大納言(だいなごん)正義画像」に詳細に描かれている。腹巻をさらに簡略にして、胸腹部のみを防護する「腹当(はらあて)」も用いられ、その姿は『十界図』に描かれている。戦闘の永続に伴う需要の増大は、伊予札(いよざね)や古小札(ふるこざね)を韋包(かわづつ)み菱綴(ひしとじ)した包(裹(つつみ))胴丸や包腹巻、あるいは金胴丸、金(かな)腹巻という板物素懸威(いたものすがけおどし)の簡素な甲冑を生じた。また、作者の名を鉢裏などに刻むことが始まり、春田、早乙女(さおとめ)、岩井、明珍などの具足師は、その活躍の場を拡大して製作に励んだ。[山岸素夫]
安土桃山時代から江戸前期
室町末期から桃山時代にかけての鉄砲の伝来と急速な普及、城郭の発達、戦法や兵制の変化ならびに南蛮の文物の輸入は、甲冑に大変革を迫り、大鎧はもちろん、胴丸や腹巻も衰退を余儀なくされ、新時代の戦法に適応する甲冑の成立が促進された。近世初頭に成立したとみられる新様式の甲冑は、基本的には胴丸の型式を踏襲して右引合の型式をとり、兜・胴のほか小具足(こぐそく)を意図的に胴と一体に、専用のものとしてつくり、皆具(かいぐ)の構成を原則とすることから「具足(ぐそく)」と称し、今様の甲冑の意をもって「当世具足(とうせいぐそく)」とよばれ、桃山時代から江戸前期にかけて一世を風靡(ふうび)した。当世具足は、小札製のほか、舶来の南蛮具足(なんばんぐそく)(西洋の甲冑)の影響と槍、鉄砲への対応から、板札(いたざね)や革包みの伊予札(いよざね)を鋲留または革綴した足掻(あが)き(屈伸)のない立胴式が多く、着脱を容易にするために蝶番(ちょうつがい)を用いた二枚胴、五枚胴がつくられ、草摺を胴に威し付ける揺糸(ゆるぎいと)は胴の負担重量を軽減する着用法と足掻きのため長くなった。打物戦を反映して袖は廃止あるいは縮小するに至り、頸廻(くびまわ)りと肩の防護のために立襟(たてえり)、肩当(かたあて)、小鰭(こひれ)が考案された。表面は金錆(かなさび)地や革包みが多く、新しい加飾法が採用され、象眼(ぞうがん)、蒔絵(まきえ)、金銀箔(はく)押し、文様の打出しなどさまざまの手法が行われた。胴背面の上部に合当理(がったり)、下部に待受(まちうけ)を設け、所属や役職を示し、自己を顕揚するために指物(さしもの)を立てた。兜も形状を一新し種々のものを生じた。星兜、筋兜のほか、桃形(ももなり)、頭形(ずなり)あるいは奇抜な造形になる張懸兜(はりかけかぶと)が、斬新(ざんしん)な意匠の立物(たてもの)とともに流行した。[山岸素夫]
江戸中期以降
江戸幕府の権力が確立し政情の安定した元禄(げんろく)(1688~1704)ごろになると、実用を旨とした甲冑にも加飾の風がおこり、権威を誇示するがごとき無用の装飾を施した品位に欠けるものを生じ、当世具足はその形式を崩した。さらに新井白石(あらいはくせき)、伊勢貞丈(いせさだたけ)などの学者、故実家による甲冑研究の結果、中世の甲冑が再認識され、大鎧、胴丸、腹巻など中世の様式による復古調とよばれる甲冑が製作された。しかし、研究の未熟と泰平謳歌(おうか)の時代的風潮を反映して華美に流れ、威儀を主としたので、実用にはほど遠いものであった。かくして近世の甲冑は形式、構造、外容とも多岐にわたり、変化に富むものとなったが、しょせん、近代的な兵制の採用と火砲の発達の前に無用の長物となり、武家社会の崩壊とともに終焉(しゅうえん)のときを迎えたのである。[山岸素夫]

中国

この国の甲冑の原始型(紀元前15世紀ころまで)は、相手の攻撃から身を守るために、フジの蔓(つる)、木片、皮革などを用いて、体の主要部分を覆ったものと考えられる。たとえば台湾のヤミ族が20世紀初頭ころまで使用してきた藤甲(ふじこう)は、フジの蔓をチョッキ風に、冑(かぶと)は帽子風に枠組み構成し、表面に皮革、魚皮などを貼(は)っている。また四川(しせん)省イ族には、牛革を胸、脇(わき)、背と裁ち、文様を施して一枚続きにあわせて胴を覆い、細幅の革片を綴(つづ)り合わせて腰鎧(こしよろい)とする。一見、中世の日本の腹巻に似ているが、全体に黄色の顔料を塗った革甲で、冑はない。現在この甲冑は台北の中央研究院内民族学研究所に1領保存されている。
 殷(いん)・周(しゅう)の時代に関しては、中国の古典『周礼(しゅらい)』の考工記、函人(かんじん)(甲冑製作者)の項に「函人甲を為(つく)る。犀甲(さいこう)七つの属(こざね)、寿(じゅ)(耐用年数)は百年。(じ)(野牛の一種)甲六属、寿二百年。合甲(ごうこう)五属、寿三百年」とあり、動物の革で甲冑を製作したことを示す。また長沙(ちょうさ)の楚(そ)の古墓から黒色地に彩色した革甲を着けた兵士木俑(もくよう)が出土している。そのほか安陽、長沙、江陵の周~春秋期の古墓から、比較的大形で方形の革甲片の綴り合わせに(きゅうしつ)(漆(うるし)塗り)した残欠が発掘されている。安陽の候家庄(こうかしょう)の古墓からは青銅製冑(多くの殷周青銅明器と同様に一体造りの鋳造品)が出土し、革甲とあわせた復原図が報告されている。
 春秋~秦(しん)時代には『経典釈文』に「古(いにしえ)の作は革を用う。秦漢以来鉄を用う」とあり、この時期に初めて鉄札(さね)製甲冑が出現したことがわかる。1965年、河北省易県の燕墓(えんぼ)から鉄冑の小札89枚が発掘され、復原写真、復原図が報告されている。
 また1974年春、西安郊外始皇陵(しこうりょう)東方5キロメートルの地点で、始皇帝近衛(このえ)軍団の等身大の兵士俑と軍馬俑約6000体、戦車、武具などが発掘された。その兵士俑は甲を着けており、研究者によって2類6型式に分類、報告されている。第1類は武官級、第2類は兵士用甲である。兵種により区分されているが、詳しく調査すると各型式内にも違いがみられる。着用方法は俑からは判然としないが、右胸上に上下を結ぶ紐(ひも)と鞐(こはぜ)(角(つの)ボタン)があり、胸元を締めているものと解される。
 漢代には『史記正義』の「霍去病伝(かくきょへいでん)」の注に「玄甲は鉄甲なり」とあり、鉄甲の普及が示されている。玄甲とは黒い甲、黒い金属すなわち鉄を示す。1957~58年、洛陽(らくよう)の前漢時代の古墓からさびついた鉄鎧1領が発掘されたが、全容は不明。鉄札の型式は日本古代の挂甲(けいこう)に似る。1959年、内蒙古(うちもうこ)の漢代城址(じょうし)から保存のよい鉄鎧1領が出土。1968年、河北省満城県の前漢古墓から鉄札鎧1領が出土、前述2領と異なり鉄札がきわめて小さく、一見鱗(うろこ)状である。このほか数件の報告があるが、いずれもわが国の挂甲に酷似している。漢墓出土の兵士俑も出土鉄鎧に相似する。
 南北朝時代に関しては魏(ぎ)の曹植(そうち)の『上鎧表(じょうがいひょう)』(全上古三代秦漢三国文朝文)に黒光(こくこう)鎧、明光(めいこう)鎧、両当(りょうとう)鎧、赤練(せきれん)鎧(『太平御覧』では環鎖(かんさ)鎧となる)などの名称がみられるものの、遺物の出土例は聞かない。出土する灰陶(かいとう)の武人俑にみるのみである。黒光鎧は前時代からの鉄札鎧と考えられるが、両当、明光、赤練、環鎖は、いままでになく、新型式の鎧である。
 隋(ずい)代の甲冑は、基本的に南北朝代の型式を踏襲し、両当鎧、明光鎧が主流であることが出土武人俑により知られる。文献には多くの名称が残るが、遺物は報告されていない。
 唐代の甲冑も出土例がなく、わずかに武人俑、昭陵(しょうりょう)の石刻像、敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の壁画や塑像にみるだけであるが、ほとんど両当鎧、明光鎧である。しかしこれらは神将像だけに表現され(日本の寺院にみる中世の四天王像も同型式)ており、遺物はなく、実用化については不明である。明(みん)代も宋(そう)の甲制の踏襲で、腹巻式の札鎧になり、冑、胸前、袖(そで)が大形化する。
 清(しん)代になると、伝世品(北京(ペキン)の故宮博物院に保存)や絵画作品があり、それによると、いずれも明代の甲制を受け継いでいるようである。時代が下ると冑の中間が絞られ、漏斗(ろうと)状になり、蒙古形を踏襲している。胴甲は衣服風に肩を入れて着用し、前合わせで、臂(ひじ)鎧は袖となり左右に分かれ上膊(じょうはく)を覆う。膝(ひざ)鎧も裳裾(もすそ)様に長くなり、鉄札は布地の裏につけられ、表にはそれを留めた鋲頭(びょうとう)がみられる。さらに身分、階級によりそれぞれ異なった文様を布の表面に金・銀・色糸などの刺しゅうによって表現する。しかしこれらも清朝末の近代化のなかで終焉(しゅうえん)を迎える。[大塚国正]

朝鮮

他の国々と同様に原始型から発展してきたと考えられるが、その存在が知られるのは三国時代(4~7世紀)からである。これらは高句麗(こうくり)の古墳壁画や新羅(しらぎ)古墳出土の遺物にみられる。黄海南道安岳郡大(だいしゅうり)安岳2号墳(5世紀ころ)の入口の左右の壁に武人が1名ずつ描かれており、丸い帽子風の冑にとがった台をつけ先端に羽毛状の飾りをつけ、短い筒状の袖鎧、甲は腰まで覆い、ズボン風の鎧を着ける。表面は鱗状の小札で、中国漢代の鉄鎧を想定させる。ほかにも何か所か武人壁画が発見されているが、いずれも平壌を中心とした地域に限られ、その型式は札鎧で日本の挂甲に相通じる点がみられるが、詳細は不明である。慶尚北道高霊郡高霊面、池山洞古墳群第32号古墳から1978年に、鉄板を使用した短甲および鉄冑が出土しており、ほかにも数例の報告がある。これらはいずれも日本で多数の発掘例のある横矧(よこはぎ)板鋲留短甲、衝角(しょうかく)付冑、三角板革綴(かわとじ)短甲、眉庇(まびさし)付冑などに酷似している。新羅統一時代から高麗(こうらい)時代(10~14世紀)は古墳の石刻像で明らかなように、唐・宋の甲制を受け継いでおり、13世紀以降は元・明・清の甲制による綿襖甲(めんおうこう)と漏斗状の鉄(革)冑が盛行する。しかし中国同様、崇文卑武(すうぶんひぶ)の思想が強く、記録、遺物ともに少ない。[大塚国正]

西洋

甲冑の起源(古代オリエント)については、正確には不明であるが、前三千年紀のシュメール人は、すでに相当進歩した甲冑をもっていたことが、発掘品や浮彫りなどから知られる。なかでもウルの王墓出土の「メス・カラム・ドゥグの冑(かぶと)」は、1枚の金板を鎚起(ついき)し、精巧な線刻を施した儀式用冑として名高い。また、頂のとがった冑をつけ大きな盾を持った兵士たちの隊列を描いた浮彫り板も発見されている。アッカド王朝の「ナラム・シン王の戦勝記念碑」には、牛角のついた円錐(えんすい)形の冑を着けた同王の姿がみられる。
 エジプトでは、王をはじめ身分の高い人物は冑を着けたと推測されるが、確実な遺例は少なく、冠と冑との区別も明らかでない。戦闘用の冑から由来したと思われる、いわゆる「青冠」がなかでも注目される。胴部の防具としては、古代世界を通じて、おそらく皮革が使われたであろうが、詳細は不明である。円形や長方形の盾は、メソポタミアでもエジプトでも広く用いられた。多くは木板に皮を貼(は)ったものであり、ツタンカーメン王墓の例にみられるように、儀式用の盾にはきわめて精巧な装飾をもつものが少なくない。
 エーゲ文明期のミケーネの兵士は、イノシシの牙(きば)を連ね羽根飾りをつけたヘルメットを着用した。また、何枚かの幅の広い青銅板を連ねて、頸部(けいぶ)から膝(ひざ)までを覆う形式の鎧(よろい)も考案された。デンデラ出土の鎧はその好例である。ギリシアでは、金属製・革製のヘルメットが一般化したが、とくに鼻梁(びりょう)や頬(ほお)の保護に留意されている。いくつかの定形が生まれたが、コリント式がもっとも代表的である。鉢の頂部に背びれ状の飾り板や馬毛、鳥の羽根などをつけたり、顔隠しや眉庇(まびさし)のような部品を可動式にするなど、多くのくふうがみられる。鎧は胴部を主として覆う胸甲(トラクス)の形をとり、下端からスカート状にフェルトなどを下げ、足を保護するとともに、機敏な行動を可能にした。革製の胸甲の場合、小型の金属板を鱗状に縫い付けることも行われた。ローマの甲冑は基本的にはギリシアの型式を踏襲したが、儀式のパレードのために装飾を凝らした華麗な甲冑が流行し、以後、西洋の甲冑は戦闘用と儀式用に明瞭(めいりょう)に二分される。
 中世は、甲冑の素材として鉄の薄板が活用され、湾曲した札(さね)をつなぎ合わせて、行動しやすく、しかもじょうぶな鎧が、多種多様な型式をとって登場した。騎馬の戦闘のために馬用の鎧も考案された。ヘルメットも鉄が多く使われるようになり、顔面と頭部、頸部の保護にさまざまの考案がなされた。目の部分のみに隙間(すきま)をあけ、頭全体を覆うもの、敵の矢や槍(やり)をそらすために、口の部分を鳥の嘴(くちばし)のように突出させたものなど、その例である。また、鉄板とは別に、鎖帷子(くさりかたびら)も多く用いられた。これらの甲冑は専門の職人集団によって製作されたが、芸術的にきわめて優れたものがある。とくに王侯貴族あるいは騎士たちは競ってよい甲冑を求め、それを誇りとしたために、中世後期には金属工芸の重要な一分野となった。
 甲冑の製作には多くの種類の加工技術が必要とされるために、分業が発達し、特定の都市に製造が集中することもおこった。イスラム世界のダマスカス、ドイツのアウクスブルクは、とくに優れた甲冑で知られる。また、その性質上、異民族の型式も積極的に取り入れられた。たとえば、ローマ時代に皮革の札に金属板を縫い付けた「ロリカ」が多用されたが、中世にはこのロリカの型式に、北方の蛮族が好んで用いた鎖帷子状の胴衣を結合させ、いわゆる「アドゥブマン」が生まれた。冑にも鎖帷子の方式を採用し、その上に、頂部が半球形あるいは円錐形の金属製冑をかぶることも行われた。
 機械式の弩(いしゆみ)や、さらに鉄砲の発明によって、甲冑はますます重装備を余儀なくされたが、とくに顔面を含めて頭部の保護に力が注がれた。古代からあった眉庇は、よりじょうぶに、精巧で機能的なものとなった。多くは、こめかみの部分に支点を置き、不要なときは上にあげて顔面を外気にさらすことができるようになっている。14、15世紀に盛行した「バッシネ」とよばれる冑は、この種の典型的な例である。頭部以外の部分も、可能な限り覆う傾向を生じた。頸すじから肩・胸にかけてはもちろん、腕から手のひらまで、あるいは腰から足のつまさきまで鉄片を連結して覆う全身装甲の場合、その部品は大小100を超える場合も珍しくない。この種の複雑な重装備は、16世紀後半から17世紀にかけて絶頂に達した。
 近世における銃砲の発達は、従来の甲冑をほとんど無力なものにした。とくに砲弾の破壊力は、個人的な防具の意味を失わせ、兵士たちは、17、18世紀の一時期、甲冑をまったく捨てた。しかし近代になると、いわゆる鉄冑が、頭部の保護に有効であることが再認識され、戦場で広く使われるようになった。二度の世界大戦では、ほとんどの兵士が鉄冑をつけて戦っている。[友部 直]
『〔明治以前のもの〕 ▽新井白石著『本朝軍器考』、伊勢貞丈著『軍用記』(『古実叢書 21』所収・1954・明治図書出版) ▽村井昌弘著「単騎要略被甲弁」(『続随筆文学選集 1』所収・1928・随筆文学選集刊行会) ▽松平定信編『集古十種』(1908・国書刊行会)』
『〔明治以後のもの〕 ▽山上八郎著『日本甲冑の新研究』(1942・飯倉書店) ▽末永雅雄著『日本上代の甲冑』(1944・創元社) ▽鈴木敬三著『初期絵巻物風俗史的研究』(1960・吉川弘文館) ▽中村春泥遺稿、鈴木敬三編・解説『甲冑写生図集』(1979・吉川弘文館)』
『〔入門書〕 ▽尾崎元春編「甲冑」(『日本の美術 24』所収・1968・至文堂) ▽山上八郎・山岸素夫著『鎧と兜』(保育社・カラーブックス) ▽楊泓著『中国古代兵器論集』(1980・北京文物出版局)』

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世界大百科事典内の甲冑の言及

【威】より

…〈緒通し〉の意で,甲冑(かつちゆう)の(しころ)の威毛(おどしげ)をいう。古く《東大寺献物帳》には貫(ぬき),《延喜式》には懸緒(かけお)と記してある。…

※「甲冑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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