日本歴史地名大系 「修多羅村」の解説 修多羅村すたらむら 福岡県:北九州市(旧筑前域)若松区修多羅村[現在地名]若松区修多羅一―三丁目・白山(はくさん)一―三丁目・山手町(やまてまち)・大井戸町(おおいどまち)・老松(おいまつ)一―二丁目・西園町(にしぞのまち)・栄盛川町(えいせいがわまち)・波打町(なみうちまち)・深町(ふかまち)一―二丁目・東畑町(ひがしはたまち)・西畑町(にしはたまち)・上原町(かみはらまち)・山(やま)ノ堂町(どうまち)・大谷町(おおたにまち)・新大谷町(しんおおたにまち)・畑谷町(はただにまち)・修多羅・古前(ふるまえ)二丁目など若松村の西に位置する。北は外海(響灘)、南東は内海(洞海湾)に臨み、西は藤木(ふじのき)村、北西は小石(こいし)村。集落として「続風土記拾遺」は本村および筵屋(むしろや)・畑の三ヵ所をあげ、「地理全誌」はこれに石崎(いしざき)・東鼻(ひがしのはな)を加える。村内を唐津街道が横断し、浜田(はまだ)に一里塚が設けられていた(「若松村岡浦要用記録」松井家文書)。文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写(麻生文書/筑前麻生文書)に修多羅とみえ、二島(ふたじま)(二島庄)のうちで、この頃には畠四町二反のほかに浜二四ヵ所があった。小早川時代の指出前之帳では「東郷村」の枝村にあげられる平村が当村にあたるといい、東郷(とうごう)村は平村のほか藤木村・小石村を含み、田七三町八反余(分米八四五石余)・畠二九町九反余(分大豆一一五石余)であった。なお前掲目録写に「八十町 東西二嶋庄」とみえる東西の二島庄のうち、東二島庄の後身にあたるのが東郷村と考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by