倉岡郷
くらおかごう
大淀川支流の本庄川が大淀川に合流する付近に位置する。諸県郡に属し、中世は倉岡名とよばれた。江戸時代は鹿児島藩の外城(郷)の一つで、去川関(現高岡町)・紙屋関(現野尻町)の外に位置することにより高岡・穆佐・綾の三郷とともに関外四ヵ郷とよばれた。糸原村・有田村の二村からなり、大淀川北岸が糸原村、南岸が有田村。倉岡の名称は古代土蜘蛛が窟居した跡があることによるという(薩隅日地理纂考)。
〔倉岡名〕
応永七年(一四〇〇)二月二四日の島津元久宛行状(樺山文書)によれば、島津元久は島津庄日向方の穆佐院倉岡名の森跡一〇町などと深年(現国富町)の当知行分を樺山氏に給分として安堵している。同二〇年一〇月一〇日の倉岡名内番衆上薗坪付(荒武文書)では作人は道清で、「えほしかた」など田数元一町四反四〇(うち不五反丁)があり、現作八反三〇・分米二石七斗五升・薗銭一五〇文・秋溝一〇〇文。同二二年六月一日の荒滝右京給分坪付(同文書)では道清は百姓番衆とされ、「ゑほしかた」など五ヵ所の田数一丁四段四〇・薗銭一五〇文とある。文明一六年(一四八四)櫛間(現串間市)の伊作久逸と飫肥の新納忠続は対立関係にあり、久逸から援軍の要請を受けた伊東祐国は飫肥へ出陣、このとき倉岡衆は祐国の弟祐邑の軍に編制されている(日向記)。永正一四年(一五一七)六月六日の荒武宗名給恩分注文(荒武文書)によれば、倉岡名内上薗は現作八反三〇で、代官は野村隠岐守であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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