佐賀県中西部、西松浦郡(にしまつうらぐん)にある焼物の町(有田町(ちょう))。1889年(明治22)町制施行。1954年(昭和29)に東有田町、2006年(平成18)に西有田町と合併し、それまでの有田町(まち)から有田町(ちょう)に改称した。伊万里(いまり)湾に注ぐ有田川上流の狭い山間に、細長い町並みを形成している。JR佐世保(させぼ)線、松浦鉄道が通じる。有田町の中心駅である有田駅にはこの両線が乗り入れており、松浦鉄道の起点ともなっている。国道35号、202号、498号が通じる。中世には松浦(まつら)党の有田氏が割拠し、近世には佐賀藩領となる。流紋岩類からなるこの地で、日本最初の白磁器の焼成が行われたのは、上白川天狗谷古窯(てんぐだにこよう)跡(国史跡。登録名は「天狗谷窯跡(てんぐだにかまあと)」)の発掘調査から1605年(慶長10)前後とされる。それは朝鮮渡来の李(り)朝系陶工たちによって本格的に進められた。さらに赤絵付法が酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)一族によって完成されたのは1646年(正保3)前後とされ、ここに有田皿山(さらやま)は、17世紀後半から18世紀にかけて黄金時代を現出した。佐賀藩皿山代官支配のもとに、その製品は伊万里津から全国各地に、さらに長崎出島(でじま)を介して東南アジアやヨーロッパに大量に積み出された。明治以後は香蘭(こうらん)社などが台頭して近代化が進められ、鉄道開通(1897年)後は「有田焼」商取引の町ともなった。食器、美術工芸品のほかに、タイルや工業用品など多方面に進出し、原料は大部分天草(あまくさ)陶石を利用した。赤坂の高台一帯には、有田焼卸団地などが形成された。柿右衛門(濁手(にごしで))、色鍋島(いろなべしま)は国指定重要無形文化財。春の有田陶器市は最大の年中行事である。県立九州陶磁文化館、有田陶磁美術館、有田ポーセリンパーク、有田町歴史民俗資料館・有田焼参考館のほかに県立窯業技術センター(2018年度をもって閉校)などがあり、ドイツの陶磁器で知られるマイセンと姉妹都市関係、中国の景徳鎮(けいとくちん)市と友好都市関係をもつ。内山地区には古い町並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。面積65.85平方キロメートル、人口1万9010(2020)。
[川崎 茂]
『『有田町史』全10巻(1985~1988・有田町)』
和歌山県北西部、紀伊水道に面する市。1954年(昭和29)箕島(みのしま)町と保田(やすだ)、宮原(みやばら)、糸我(いとが)の3村が合併し有田町となり、1956年市制施行。1962年初島町を編入。有田川下流の狭い流域平野を挟み、北に長峰(ながみね)山脈の南斜面、南に低い丘陵がある。河口の北部は砂浜の椒浜(はじかみはま)で、南部は沈降海岸となり宮崎鼻(みやざきのはな)を突き出し、矢櫃(やびつ)、逢井(おい)などの入り江がある。JR紀勢本線(きのくに線)と国道42号、480号が通じる。古代の安蹄(あて)郡で、近世まで在田(ありだ)と書いた有田郡のうち、有田市は中世の宮崎、宮原、保田、糸我の四つの荘(しょう)を含む。式内社須佐(すさ)神社にちなむ古代の須佐郷の地であった。藩政時代は大半が宮原組と称し、有田ミカンの中心的栽培地となり、河口の箕島北湊(きたみなと)は出荷港で紀州藩の口前役所や村の出荷組織の蜜柑方(みかんかた)が置かれた。1924年(大正13)紀勢線が和歌山から箕島まで通じ、ミカンの出荷は鉄道便にかわった。ミカン生産は現在も量質とも県下有数。かつてのジョチュウギク栽培は衰退し、合成品による蚊取線香が製造される。また辰ヶ浜(たつがはま)の漁業のほか、沿岸部に大規模な石油精製工場がある。国指定重要文化財に浄妙寺の本堂、多宝塔、薬師如来及両脇侍像、広利寺の十一面観音などがあり、国指定史跡には明恵上人(みょうえしょうにん)ゆかりの星尾卒都婆(ほしおそとば)(明恵紀州遺跡卒都婆)がある。行事には謡曲『雲雀山(ひばりやま)』で知られる得生寺(とくしょうじ)の来迎会式(5月)、須佐神社の千田(ちだ)祭(10月)などがある。そのほか、くまの古道歴史民俗資料館があり、文化福祉センター内に「みかん資料館」が設置されている。また、有田川河口から南部の海岸は西有田県立自然公園になっている。面積36.83平方キロメートル、人口2万6538(2020)。
[小池洋一]
『『有田市誌』(1974・有田市)』
佐賀県西部,西松浦郡の町。2006年3月旧有田町と西有田町が合体して成立した。人口2万0929(2010)。
有田町南東部の旧町。西松浦郡所属。有田焼で有名な焼物の町。人口1万2296(2005)。伊万里湾に注ぐ有田川上流の狭い山間に位置する。窯業の起源は文禄・慶長の役の際,藩祖鍋島直茂が多数の朝鮮陶工を伴って帰国し,その一人李参平が上白川天狗谷で日本最初の白磁器を焼成したのに始まる。その後正保年間(1644-48)南川原(なんがわら)山の酒井田柿右衛門一族が赤絵付法を完成し有田焼の名を広めた。佐賀藩皿山代官支配の有田皿山は,17世紀後半から18世紀にかけて黄金時代を現出し,その製品は伊万里津から全国各地に,さらに長崎出島を介して大量に東南アジアやヨーロッパに積み出された。明治以後は香蘭社などが台頭して近代化が進められ,国鉄(現JR)佐世保線開通(1897)後は有田焼商取引の町ともなった。タイルや工業用品など多方面に進出し,原料は大部分天草陶石を利用。4月末から5月初めの有田陶器市は最大の年中行事で,佐世保線の上有田・有田両駅間の中心街約4kmにわたって市が立つ。県立九州陶磁文化館や県立窯業試験場(現,県窯業技術センター),有田焼卸団地などがある。ドイツのマイセンと姉妹都市の関係をもち,古い町並み保存の気運も高まっている。2003年には有田ポーセリンパークが営業を開始した。
執筆者:川崎 茂
有田町北西部の旧町。西松浦郡所属。1965年町制。人口9274(2005)。東西は山地で,その中央を有田川が北流して伊万里市に入る。長崎県と境する西部山地の斜面や山麓部には遺跡が散在し,坂ノ下遺跡出土の縄文時代のアラカシの実は,のちに発芽して話題となった。町域北部に,中世,松浦党の有田氏の拠った唐船城跡がある。有田氏の屋敷があったという大木(おおぎ)は有田郷の中心で,江戸初期には代官所があった。有田皿山のやきものは大木宿を経て伊万里津に運ばれ,当地にも原明(はらあけ)古窯,迎の原(むかえのはる)古窯をはじめ有田焼の窯跡が残る。有田川の支流広瀬川に築かれた竜門ダムの近くには陶石採掘場跡がある。現在も窯業が盛んで,和洋陶器やタイルなどの工場が多い。山麓地帯ではミカン栽培,平地部では米作のほか畜産も行われている。有田川に沿って松浦鉄道線が通じ,並行して国道202号線が走る。
執筆者:松橋 公治
和歌山県西部,有田川河口にある市。1954年箕島町と保田,宮原,糸我の3村が合体して有田町と改称,56年市制。62年初島町を編入。人口3万0592(2010)。河口の積出港であった箕島,北湊が中心。中世には有田郡に勢力を張った湯浅党の本拠地であり,一族から出た明恵の遺跡が残っている。近世以来,有田川流域の南北の山地にミカンが栽培された。藩の奨励で盛んとなり有田ミカンとして江戸へも出荷され,その積出港として箕島,北湊は栄えてきた。現在も市内の総耕地の大部分がミカン園である。海岸では漁業が盛んで,辰ヶ浜は打瀬網漁(底引網)の中心である。伝統工業としての蚊取線香は全国生産の大半を占め,現在は農薬生産も行われている。近代工業としては,初島地区の石油精製業(東燃,1941年操業開始),化学工業が盛んで,ほかに電線,缶,作業用手袋などが生産されている。JR紀勢本線が通じる。浄妙寺の本堂,多宝塔は重要文化財に指定されている。
執筆者:水田 義一
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[近世]
江戸時代に入ると各地の窯業に大きな変化が生じた。その契機は佐賀県有田における磁器の発生と,京都における色絵陶器(京焼)の焼造であって,江戸時代の窯業は瀬戸・美濃,有田,京都の3地域を中軸に展開した。1616年(元和2),李参平によって有田の白川天狗谷窯で,日本で初めての染付磁器の焼造が開始された。…
※「有田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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