八幡山町
はちまんやままち
[現在地名]児玉町八幡山
南の児玉村(児玉町)と連続して町場を形成する。中世には鎌倉街道上道が通り、近世には川越から上州を経て信州岩村田町(現長野県佐久市)へ至る道(当地では川越往還という)が通る。中世後期から近世初頭に雉岡城(八幡山城)があった。小田原北条氏の時代に城下に町並がつくられたという伝承は、天保期(一八三〇―四四)の記録(桜沢家文書)にもみられ、町並形成時に児玉村八幡神社付近の住民が多く移住したため、雉岡城付近を八幡山と唱えるようになったという(風土記稿)。天正一九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した武州之内御縄打取帳(松村家文書)によると村柄は上之郷で、田方四三町七反余・畑方五三町六反余(うち屋敷七町六反余)、俵高一千八五七俵余、児玉村分玉蔵寺は検地免除となっている。慶長七年(一六〇二)旗本戸田重元は、武蔵国児玉・那賀・賀美三郡と上野国群馬郡のうちに五千石の采地を与えられ、当町に陣屋を設置して在地知行を行った。重元は同一五年に当町で没し、金屋村天龍寺に葬られた。子の重宗もここに住したが、両度の大坂の陣に従軍し、合戦での傷のため元和三年(一六一七)この地で没し、高柳村長泉寺に葬られた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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