江戸時代、農民層の中核になる農民の身分呼称。高持(たかもち)、高持百姓ともいう。その資格は、検地帳に登録され、田畑、屋敷を持って自立した経営を行い、かつ領主に年貢・夫役(ぶやく)の負担義務を負うものであった。江戸時代の村は、経営の規模などからもさまざまな農民から構成されていたが、通常は、〔1〕村役人に率いられる本百姓をその中核とし、〔2〕このほかに無高で本百姓に隷属する水呑(みずのみ)百姓、脇(わき)百姓、〔3〕本百姓経営のなかに家内奴隷的に抱えられた名子(なご)、被官(ひかん)、下人(げにん)と称される農民、の三種類の農民から構成されていた。
本百姓は、年貢負担の義務を負う、領主経済の基盤となる農民であるとともに、村においてはその正式な構成員として、用水・入会(いりあい)などの用益権をもち、村寄合(むらよりあい)・村政に参加する資格を有していた。その経営は、通常一町歩(10石)前後の耕地と農具を保有し、家族労働を主体とした自給的なものであったという。ただその内容は、時代と地域によりかなり差があり、とくに江戸時代の初期には、太閤(たいこう)検地以来の領主の本百姓育成策によって、検地帳には多くの農民が名請(なうけ)されたが、そのなかで屋敷地を有し、夫役を負担する役屋(やくや)とよばれる農民がその中核となっており、これを初期本百姓などともいう。やがて17世紀を通じて、生産力の発展とともに、無高や隷属農民からも自立して経営を行うものが本百姓に成長して、17世紀後期の寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)期(1661~1681)には、全国的にほぼ本百姓体制が確立したといわれる。その後いったん確立した本百姓の地位が、本百姓株として家格化・固定化されることもあった。18世紀以後、農業生産の発展と商品経済の展開によって、本百姓のなかから、土地を失って没落し、水呑百姓に転落したり、小作人や日傭取(ひようとり)になったり、奉公人や没落人として離村する農民が出た。また水呑百姓から上昇して本百姓なみの経営を確保するものが出たり、本百姓のなかから土地集積を行い地主になったり商人化するものも出た。
こうして本百姓の経営が多様化するとともに、本百姓を中心とする村落の体制も変動していった。ただ、初期からこうした体制の変動期まで、江戸時代を通じて、領主の農村支配は、一貫してその中核である本百姓の経営の維持をその目的としていた。慶安御触書(けいあんのおふれがき)の生活統制をはじめ、田畑永代(えいたい)売買の禁令、また、分地制限令や勝手作(かってづく)りの禁令といった土地制限令、その他触書などの各種の農民法令は、そのすべてが本百姓を対象としており、その経営の維持と年貢の確保がおもなねらいであったといえよう。
[上杉允彦]
日本の近世期,領主権力の基礎として掌握された百姓。17世紀前半期には年貢とともに夫役(ぶやく)を負担した役負(やくおい)百姓をさし,1660~70年代(寛文・延宝期)を境にして高請地(たかうけち)を所持する高持百姓をさすようになる。初期の検地で高請地を名請けした高請農民は,なべて年貢(生産物地代)の負担者とされるが,その中には役人,役家などと呼ばれて夫役(労働地代)を負担する役負百姓と,その負担を免れた無役のものとが含まれていた。近世初頭の段階においては,戦争,築城,灌漑工事などのために領主は多量の夫役を必要としていたので,領主の農民把握は,年貢負担の側面とともに夫役負担の側面にも深い関心を寄せていた。1660~70年代に実施された寛文・延宝検地を経て,労働地代としての夫役は米納あるいは貨幣納へと形態を変える。これとともに領主の農民把握は,石高所持の有無すなわち年貢負担の有無を基準に据えることとなり,高持百姓が権力の基礎として掌握されることになった。
近世初頭において,高請農民として領主に掌握されながらも役負百姓の庇護下にあった半隷属的小農は,17世紀前半期の農業生産力の発展を基礎にして自立的な百姓に成長し,17世紀末ごろには小農村落を形成してその構成員となる。高持百姓の資格において年貢負担者になると同時に,村入用の負担者にもなり,村の寄合(よりあい)に列序して用水,林野の共同利用と共同管理に参画する。無高のものは原則として,このような権利・義務関係の外部におかれている。こうして無高=水呑に対する意をもつ高持百姓=本百姓が出現する。こうして成立した本百姓は高持百姓と同義であり,17世紀前半期の役負百姓をこれと区別する意味で初期本百姓と呼ぶこともある。
近世中期以後,商品経済の農村への浸透,商品生産の進展,商業資本の農村での活躍などによって,石高所持を喪失する百姓が現れ,本百姓の分解が進む。後期には,それがさらに激化し,百姓一揆や村方騒動を続発させることとなる。
執筆者:葉山 禎作
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江戸時代の村の正式な構成員である百姓身分の家,あるいは家長。領主に対しては年貢・諸役を負担し,村内では村役を担って村政の運営にかかわり,村や近隣の用水や入会地の用益権をもつ。無高百姓・水呑百姓に対する語。17世紀半ばまでの本百姓は検地帳に屋敷地を登録され,これにかかる夫役を負担する役屋で,名寄帳に登録され年貢を直納した。これをとくに初期本百姓ともよぶ。夫役の必要性が薄れた17世紀半ば以降は,検地帳名請地を所持するか否かを基準にし,名請地を所持する高持百姓を本百姓というようになった。17世紀に分割相続により初期本百姓から多数の高持百姓が分立したが,零細な高持百姓の発生を防止するため,分地制限令とあいまって村でも自主的に百姓株を固定した。その結果,百姓株が排他的な性格をもつようになり,家格制が発生した。
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…このような制限によって旧来の用益権が減縮することに対する共用者間の憤懣(ふんまん)の表面化したのが近世の山論で,それが後年になるほど多発また激化するのは,用益上の制限がさらに強化されることによるものである。 同じ山論でも自村内で発生する用益紛争は,おおむね高持本百姓に限られていた村持ち山の採取権を,無高層の農民ないし非農家にも分与して利用上の不平等を平均しようとする下層農の要求に基づくものであったから,村役人や上層農が全面的にこれを受け入れないまでも,既得権を譲歩または緩和することによって解決する場合が多かった。しかしその村持ち山へ1ヵ村以上の他村が入り会って毛上を採取する慣行,すなわち入会権をもつ村方がそれぞれの権利を主張して譲らないところからもつれだした争議は,利害を異にする当事者間の話合いで解決を図ることは容易でなかった。…
…太閤検地を画期として成立した幕藩体制は広範な直接生産者層の独立を推し進め,それを支配の基礎とした。それがいわゆる本百姓である(漁師の場合も,身分上は百姓であり,当時は耕地を保持していない漁師は例外的にしか考えられない)。本百姓は耕地を占有して正租を上納するばかりでなく,一人前の百姓として領主のための夫役をつとめる者でなければならなかった。…
…高持百姓,本百姓ともいい,貢租負担者として幕藩制社会の基盤をなす農民層。検地によって領主に把握された農民(検地帳登録人,名請人(なうけにん))には,(1)田畑とともに屋敷を登録された者,(2)田畑のみを登録された者,(3)屋敷だけを登録された者,などがいる。…
…彼らは法的には名請人であっても,実態としては一軒前の百姓として自立した農業経営を行うことが困難な零細農民であった。近世農村では,本百姓といって,田畑,屋敷地を持ち名寄帳にも名前が登載され,領主に対し直接課役を負担する高持百姓が一軒前の百姓として認められ,彼らによって村落が構成されていたから,上記のような零細な名請農民はこれらの本百姓になんらかの形で隷属していた。また検地帳にも登録されない農民がいたが,彼らは〈帳外(ちようはずれ)〉と呼ばれ,屋敷地も耕作権も持たない最も隷属度の高い農民であった。…
…名主―名子という名称にも示されるように族団的性格が強く,子孫に至るまで代々人身的に拘束されていた。近世の本百姓体制が整うなかで,有力な名子は自立して本百姓に上昇し,ここでようやく農民たる地位を認められた。しかし,なお自立しえない名子は,近世的従属農民として主家たる本百姓に分付(ぶんつけ)される存在で,一戸として認められないものであった。…
…年貢の村請制のもとでは,村自体が年貢諸役の完納義務を負わされ,それを果たすためには,村内における年貢諸役の割りふり,徴集の実際場面で,負担能力のある有力農民が年貢諸役の事実上の負担責任者にならざるをえなかった。このような実態を踏まえて,村内帳簿として作成された名寄帳には,村内における年貢諸役の負担責任者(初期本百姓)が登録された。弱小農民(隠居,名子,被官,家持下人など)の高請地は,名寄帳においては主家に当たる有力農民(初期本百姓)の名義のもとに一括され,主家の名義で登録された。…
…これは,小経営が大経営より有利な条件にあることを示しており,土豪的大経営の解体を促進させた。このようななかで土地との結びつきを強め,小経営として自立し,領主に対して年貢・夫役(ぶやく)を負担するようになった農民を,本百姓または高持百姓という。彼らは検地帳に登録され,田畑・屋敷を所持し,村落共同体の基本的構成員として用水・入会などに参加する権利をもっていた。…
…
[前期――譜代下人と質券奉公人]
農村での奉公人の性格は農業生産の発達によって変化する。近世前期の本百姓の自立期には,中世的遺制をまとう役負(やくおい)百姓(御館(おやかた),役家,公事屋(くじや),役人など)すなわち初期本百姓(本百姓)のもとに,譜代下人が抱えられていた。彼らは家内奴隷的性格が強く,主家に人身的に隷属して終身奉公する。…
…またこうした小地域は当然共同労働の単位にもなった。近世の村における個別経営単位は家であるが,村内の家は階層的には〈本百姓(ほんびやくしよう)〉と〈水呑(みずのみ)〉あるいは〈無高〉に大別されていたのが普通である(地域によりさまざまな称がある)。しかし本百姓といってもさまざまで,彼らはおおむね3階層に区分される。…
…日本の近世期における農用林野利用の一形態。小農が自立して本百姓となり,本百姓(高持百姓)を村落構成員とする近世村落(小農村落)が成立すると,自立した本百姓の生産・生活を維持・補強するために,村落構成員(本百姓)のすべてが村落規制のもとにある入会地(刈敷山(かりしきやま),柴山,秣場(まぐさば),萱場(かやば)など)に対して共同の利用権を持つ。このような農用林野の利用形態が村中入会で,林野に対する近世領主権の支配の確立と,そのもとにおける小農の本百姓への自立とをまって,はじめて成立する。…
…太閤検地とこれに続く近世初期検地が,全国的に統一基準による土地生産力の調査を石高制として確立したとき,同時に特定の屋敷所持を認める形で,夫役の負担能力を有する役家を設定する場合や,検地とは別に〈家数人馬改〉によってそれを決定するなどのことが行われた(家数人馬改帳)。江戸時代,出雲松江藩や豊前小倉藩の場合,その特定屋敷は一律3畝歩が無年貢の扱いで,〈御役(目)屋敷〉と呼ばれ,その屋敷を請けた農民は〈公儀役人〉〈役家〉〈本百姓〉などと記されている。 太閤検地に始まる近世検地では,原則として事実上の耕作者を公式の作人とする方針が貫かれたので,検地帳に零細な石高所持の作人として登録された小農民が少なくなかったが,彼らは所持石高の貢租は負担したが,夫役の負担はなかった。…
※「本百姓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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