日本歴史地名大系 「児玉村」の解説
児玉村
こだまむら
小玉とも記す。現児玉町の中ほど、やや東寄りに位置し、北は
〔中世〕
児玉党児玉氏の名字の地とされる。児玉党系図(諸家系図纂)などによると、児玉党は藤原氏に仕えた有道氏の遠峯を祖とすると伝える。のち遠峯の孫家行が武蔵権守となり、児玉地方に住んで児玉氏を名乗ったとされ、「風土記稿」は家行の代に初めて武蔵に入ったものと推定している。同系図には支流五〇余氏があげられ、現児玉町域内では蛭川・真下・阿佐美・塩谷の諸氏らが知られる。家行から四代目の庄太郎家長は源平争乱の折、摂津一ノ谷合戦で平重衡を捕らえたとされるが(同系図)、「平家物語」巻九では庄太郎高家とある。建久四年(一一九三)には児玉党と丹党の確執があり、畠山重忠に仲裁が命じられている(「吾妻鏡」同年二月九日条)。承久の乱の際、児玉刑部四郎は幕府方の一員として出陣し、承久三年(一二二一)六月一四日の山城宇治合戦で戦功をあげた(同書同月一八日条)。文永八年(一二七一)児玉六郎時国は佐渡へ流される途中の日蓮を自らの館に宿泊させ、同一一年の日蓮赦免後も帰依を続けたという(「風土記稿」など)。のち児玉氏は安芸国
享徳六年(康正三年、一四五七)四月一三日の黄梅院領知行注文(黄梅院文書)に、鎌倉円覚寺塔頭
児玉村
こだまむら
児玉村
こだまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報