児玉村(読み)こだまむら

日本歴史地名大系 「児玉村」の解説

児玉村
こだまむら

[現在地名]児玉町児玉

小玉とも記す。現児玉町の中ほど、やや東寄りに位置し、北は八幡山はちまんやま町・吉田林きたばやし村・入浅見いりあざみ村、見馴みなれ川を挟んで東は沼上ぬまがみ村・広木ひろき(現美里町)、南は那賀なか秋山あきやま村と接する。西は金屋かなや村・長沖ながおき村。北東に低い生野山なまのやま丘陵が連なり、古墳が点在する。中世には鎌倉街道上道が通る。近世には川越から上州を経て信州岩村田いわむらだ(現長野県佐久市)へ至る道(当地では川越往還という)が通り、町場が形成されて八幡山町とともに栄えたが、多くの史料には児玉村とみえる。「風土記稿」には児玉町とあり、同書八幡山町の項に「民居モ繁栄シ家居立並テ児玉村ノ地ヘ続キ、宛モ一宿ノ如ク」と記され、同書所収の挿図では町境に木戸がみられるが、町並は連続している。

〔中世〕

児玉党児玉氏の名字の地とされる。児玉党系図(諸家系図纂)などによると、児玉党は藤原氏に仕えた有道氏の遠峯を祖とすると伝える。のち遠峯の孫家行が武蔵権守となり、児玉地方に住んで児玉氏を名乗ったとされ、「風土記稿」は家行の代に初めて武蔵に入ったものと推定している。同系図には支流五〇余氏があげられ、現児玉町域内では蛭川・真下・阿佐美・塩谷の諸氏らが知られる。家行から四代目の庄太郎家長は源平争乱の折、摂津一ノ谷合戦で平重衡を捕らえたとされるが(同系図)、「平家物語」巻九では庄太郎高家とある。建久四年(一一九三)には児玉党と丹党の確執があり、畠山重忠仲裁が命じられている(「吾妻鏡」同年二月九日条)。承久の乱の際、児玉刑部四郎は幕府方の一員として出陣し、承久三年(一二二一)六月一四日の山城宇治合戦で戦功をあげた(同書同月一八日条)。文永八年(一二七一)児玉六郎時国は佐渡へ流される途中の日蓮を自らの館に宿泊させ、同一一年の日蓮赦免後も帰依を続けたという(「風土記稿」など)。のち児玉氏は安芸国竹仁だけに(現広島県福富町)などへ本拠を移したとみられ、貞和七年(観応二年、一三五一)三月日の児玉家氏申状(児玉文書)では安芸国竹仁上下村や児玉郡池屋などの地頭職安堵を申請、同月三日足利直冬がこれを認めている。

享徳六年(康正三年、一四五七)四月一三日の黄梅院領知行注文(黄梅院文書)に、鎌倉円覚寺塔頭黄梅おうばい院の当知行地として武蔵の「小玉村」などがみえ、同注文に古河公方足利成氏が証判を加えている。関東管領上杉顕定に背いて各地を転戦した長尾景春は、文明一二年(一四八〇)一月四日に児玉に攻め入った(同年一一月二八日「太田道灌書状写」松平文庫所蔵文書)


児玉村
こだまむら

[現在地名]御代田町児玉

浅間山南麓の火山灰地帯で、広戸ひろと村・小田井おたい村に接し、南は川の渓谷を隔てて面替おもがい村に対する新田村。万治二年(一六五九)一二月の小玉村田畑預り申一札之事(軽井沢町資料館蔵)には「小玉村」と記される。

享和三年(一八〇三)の巨細書上帳(御代田村誌)に「児玉新田は小田井村地内に開き候新田にこれあり候え共、小田井村より開き候新田にては御座なく」とあるように、この新田は小諸こもろ城主の開拓許可状を得た追分おいわけ村の土屋市左衛門(追分宿本陣兼問屋)らが、慶安四年(一六五一)から開拓に着手し、承応三年(一六五四)に小諸城主の検地を受けたものである。


児玉村
こだまむら

[現在地名]西区児玉・浄心じようしん一丁目・上名古屋かみなごや二丁目

東を西志賀にししが(現北区)・名古屋村と接する。織田信雄分限帳に「四百五拾貫文 小玉ノ郷 井村彦兵衛」とみえるのは、当村のことであろうか。寛文一一年(一六七一)の家数七一、人数三三六(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田六〇町五畝余・畑二町六反余。概高九七八石余のうち九五七石余が藩士一四人の給知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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