中富町(読み)なかとみちよう

日本歴史地名大系 「中富町」の解説

中富町
なかとみちよう

面積:四三・三七平方キロ

郡のほぼ中央部、甲府から南へ約三五キロに位置し、東は西八代郡六郷ろくごう町・下部しもべ町、南は身延みのぶ町、西は早川はやかわ町、北は鰍沢かじかざわ町に接する。町の東部富士川が南流し、その東岸に下田原しもたんばら宮木みやきの二地区、西岸に他の一八地区がある。富士川西岸に沿うように国道五二号(かつての駿州往還)が縦断する。また南アルプス山中を南下する急流早川早川町身延町地内を経て当町北端を東流し富士川に注ぐ。合流地点となる飯富いいとみには広い氾濫原が形成され、江戸時代には駿州往還最大の難所であった。現在ここに県下最長五五七メートルの新早川橋(一九六五年完成)が架かる。山ひだが急崖をなして富士川や早川に落込む当町は、全面積の六〇・四パーセントが山林で占められ、急傾斜地は八〇パーセントにも及ぶ。豊かな山と川に恵まれた町域の耕地利用は、全面積の一一パーセントにすぎない。原始・古代の遺跡は少ないが、縄文時代中期の平須ひらす遺跡がある。

律令時代の町域は巨麻こま川合かわい(和名抄)に含まれていたとみられる。八日市場ようかいちば大聖だいしよう寺は真言宗古刹で、甲斐源氏の祖とされる新羅三郎義光開基とする。本尊の不動明王は加賀美遠光が承安元年(一一七一)高倉天皇から下賜されたもので、帰国の途次同寺近くで動かなくなったため安置したという伝承をもつ。平安末―鎌倉時代初期の国中くになか地域では甲斐源氏が勢力をもち、河内かわうちにも加賀美遠光の三男で南部氏の祖となった南部光行が入っているが、当町域を本拠とした甲斐源氏は知られていない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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